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三島演劇の言葉の過剰性について


吉之助も若い頃は色んなジャンルを意識して見ましたが、現在はクラシック音楽を除けば観劇はほとんど歌舞伎でして、現代劇を見る機会がめっきり減りました。歳取ると新しいものを見るのがおっくうにな って来るのは事実です。まあ、しかし、同じものを繰り返し見ても・その度また新たな発見がありますから、どちらが良いとも言えませんけどね。先月(平成24年12月)、吉祥寺シアターで鈴木忠志氏のプロジェクトSCOT(鈴木カンパニー・ オヴ・利賀という意味だそうです 。富山県利賀がSCOTの拠点です。)の公演・「シンデレラからサド侯爵夫人へ」を見てきました。吉之助は鈴木氏演出というと「バッコスの信女」(1978年・岩波ホール)のことを思い出します。白石加代子の怪演が思い出されますが、吉之助の鈴木氏の印象はそこで止まっちゃっているので、現代劇を論じる資格は吉之助にはないのですが、メモ代わりに気が付いたことを書き留めておきます。当然ながら歌舞伎視点になります。

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ホントに久しぶりに鈴木氏演出を見ましたが、観客に「君、今どんなことを感じてる?その今感じてることを大切になさい」と言われているような舞台で、これはモーリス・ベジャールのバレエもそんなところがありますが、よく分からないけども・何かがありそうだと思って見るという、ちょっと癖になるところがありますねえ。まあ見て疲れるのは確かですが、こういう感じは吉之助は嫌いではありません。ところで「シンデレラからサド侯爵夫人へ」というのは奇妙なタイトルですが、鈴木忠志演出の「シンデレラ」と「サ ド公爵夫人」という二つの芝居の舞台稽古を二本立ての コラボレーション劇中劇として見せるという趣向です。この二つの芝居の関連ですが、前者は家庭のなかで疎外されたシンデレラが主人公、後者も抑圧されたルネ(サド侯爵夫人)が主人公ということでしょうかね。 もっとも吉之助には「サド侯爵夫人」の背景に美空ひばりの歌が流れる意図は今ひとつ良く分かりません。鈴木氏なりの内的関連があるのだろうと思いますが、吉之助にとっては同時代的な関連がよく見えないということですが、これ一体何の関連かね・・・こういうことをムニャムニャ思うのも癖になるということです。

ところで感心したのは、昔の「バッコスの信女」での白石加代子のことを思い出しましたが、今回の役者さんたちも言葉の力が凄いのですねえ。客席の隅々まで声が通るということももちろんですが、言葉の粒のひとつひとつが明瞭で・ひとつひとつの音が聴き手に向けて放たれているということです。これは確かにプロフェッショナルの仕事ですね。劇場というのは非日常の空間ですから、それで演じられる会話も日常ではあり得ないということです。そのリズムは、ちょっとグレン・グールドの弾くバッハを思わせます。1955年デビュー盤の「ゴールドベルク変奏曲」のような感じ。聴き手に対して攻撃的に仕掛けてくるのですね。

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(55年モノラル盤)(グレン・グールド)

別にここで引き合いに出す必要もないのですが、吉之助がいつも見ている歌舞伎のことを考えるならば、歌舞伎ではこういうツブツブ感の強い台詞はもはやほとんど聴かれません(現在の歌舞伎の台詞はずいぶん間延びしてのっぺりしています)が、本来は二代目左団次の新歌舞伎でこれに似たリズムが舞台で発せられるべきであると思いますねえ。(別稿「左団次劇の様式」をご参照ください。)昨今は新歌舞伎の台詞は朗々と・音楽的な抑揚をつけて歌うものなんて誤解している方が多いので困ります。本来の左団次劇の台詞というのは主人公の熱い思いを、機関銃のようなリズムで観客の心に弾丸を撃ち込むようなものなのです。言葉の音のひとつひとつが弾丸だということです。思えば日本の新劇というのは二代目左団次の自由劇場に発するわけですから、SCOTの舞台もその系譜の上に乗っているということですね。

しかし、後半の「サド侯爵夫人・第2幕」(もちろん三島由紀夫作)を見ていると吉之助はあれっ?と思いました。台詞のリズムがしっかり打ち込まれていることはとても良いのですが、若干重めに感じられました。これはやはりグールドの弾くモーツアルトに感じる違和感とよく似たものです。ただしグールドは確信犯ですが。鈴木氏も確信犯かも知れませんがね。

モーツァルト:ピアノソナタ第11番、第15番(グレン・グールド)

三島由紀夫の芝居の台詞というのは、言葉の過剰というか・日常会話とはちょっと異なるものです。だから三島の芝居は臭くてイヤだという方は少なくないようです。特に「サド侯爵夫人」については三島は「ロゴスとパトスの相克」ということを言っているくらいで、これをルネとモントルイユの論理的な対決と考えることはもちろん出来ます。(別稿「サド侯爵夫人を様式で読む」をご参照ください)それは間違いではないのですが、相手を論破することが・あるいは観客に自分の言い分を論理的に納得させることが、必ずしも三島の台詞の目的ではないのです。ルネとモントルイユが向き合っている構図が見えれば良い、それだけのことです。

歌舞伎を例にすれば「勧進帳」の山伏問答では、弁慶と富樫が絶体絶命のところで対決していることが観客に分かれば、それで良いのです。弁慶の山伏問答というのはでっち上げで、でっち上げと云ってもある程度の専門知識がないとでっち上げもそれらしく出来ないのも事実ですが、「仏徒の姿にありながら額に頂く兜巾ナいかに」と問われて弁慶がどのくらい仏教の知識を持っているか、そんなことを観客がいちいち検証するわけではありません。富樫がワーと言えば弁慶がウォーと答える、お互いに何か小難しそうなことを言っているらしいな、そんなもので良いのです。それを昨今の舞台では富樫が弁慶の答えを聞いて・うなずき、「なるほど道理、それでは次の質問を、これが答えられるかな」なんて感じでやるから芝居が重ったるくなってくるのです。この「サド 侯爵夫人」もそんな気配が若干ありますね。

グールドの弾くモーツアルトのことを引き合いに出したから、次いでに言いますと、モーツアルトが生きた時代には、彼の音楽は音符が多過ぎるということが悪口としてよく言われたものでした。シェーファーの 戯曲「アマデウス」のなかでヨゼフ皇帝が「お前の音楽は良いぞ、しかし、音符がちょっと多過ぎる。人間が一日に頭に入れられる音符の数には限界がある。モーツアルト、このことをよく覚えておくように」と言うので、モーツアルトが仰け反ります。笑える場面ですが、これは決してジョークではなく、モーツアルトの音楽にはそのような過剰性があって、それが当時の保守的な聴衆をイラつかせたということです。これがモーツアルトが貧乏で苦しんだ原因で した。逆にそこが確信犯たるグールドの取っ掛かりになるわけです。モーツアルトの過剰性も、現代の聴衆はもはや音のイメージの応酬としては受け取らないでしょう。それは音楽の流れのなかのキラキラした珠の煌めきのようなものに感じると思います。そうやって音楽はこなれて行くのです。ただし、モーツアルトの場合は宝石を転がすようなツブツブ感は絶対に必要ですが。

三島の台詞の場合にも同じようなところがあって、ルネとモントルイユの会話が論理の応酬になってしまうと観客はやはり疲れます。宝石を転がすような言葉のツブツブ感は もちろん大事なのですが、ツブツブ感があまり強過ぎると、観客は言葉の意味を取ることに意識が向き勝ちで、芝居よりもそっちの方で疲れてしまうのです。それは観客が悪いのではなく、台詞は言葉で出来ているのですから、台詞というのは意味(あるいは論理)の方に観客の注意を自然にそちらへ仕向けるのは当然のことなのです。そこに音楽とはまるで異なる・芝居の台詞の難しい問題があります。意味や論理に縛られない台詞など存在しないからです。 ですから観客の意識を過剰にそっちに向かせないように・ちょっとした工夫が必要になってきます。音楽的な台詞とはどういうものかという問題は、そういう場面で議論に上がってくるのでしょうねえ。今の歌舞伎のように様式的な感覚にどっぷり浸っちゃってそれで良しとしている時には逆のことを言わねばなりませんが。

「サド侯爵夫人」のことで云えば、鈴木氏にとっては三島は同時代演劇であるから、三島の言葉の過剰性のことを先鋭的に捉えようとするのかも知れません。それは確信犯たるグールドのモーツアルトと同じように、ある意味で正しいことです。鈴木氏がそういう先鋭的な感覚を維持し続けているということは敬服に値しますね。一方、吉之助はもう少し遅れた世代ですから、捉え方がちょっと異なるということかも知れません。吉之助が歌舞伎の批評家だということもあるでしょうねえ。

例えば「それじゃどうしても別れられないというのは、愛情からだとでも言いたいのかい」(モントルイユ)という台詞ですが、今回の舞台では「愛情からだ、とでも言いたいのかい」と発声されています。こういう台詞の切り方が吉之助には非常に気になります。「愛情からだ」はルネの言い分で、「・・・とでも言いたいのかい」はモントルイユの言葉という論理に縛られている。と云うか、こういう台詞の切り方をすると、観客の注意は台詞の論理の方に強く向けられると思います。恐らく鈴木氏は、台詞の意味が大事だから・意味を考えて台詞を言えという指導をしているのだと思います。(同じような場面が他にも見られるからです。)もちろんそれも分かるけれど、吉之助の場合は、ここは切らずに「愛情からだとでも言いたいのかい」と続けて言 って欲しいと思います。更に「それじゃどうしても別れならないというのは愛情からだとでも言いたいのかい」と続けて言いたいと考えます。

物書きとして日常で文章を書いていると、文章の持つリズムと云うか・息と云うか、そういうものがとても気になるものです。吉之助はどちらかと言えば、文章が接続詞でダラダラ長く書く傾向があります。おかげで文章が分かりにくくなって、こういうのは欠点だと思ってますが、それで吉之助 の場合は推敲する時に、読みやすくする為に文章をふたつに分けたり・句読点を付けたりして文章の流れを整理することが不可欠です。書き手にはそれぞれ独自のリズムや息があるものです。それが書き手のスタイルというものです。三島の台詞には三島の独自のスタイルがあります。「それじゃどうしても別れならないというのは、愛情からだとでも言いたいのかい」の場合は、吉之助には一気に言うべき台詞であるとしか思われません。「愛情からだとでも言いたいのかい」は三島自身も句読点を付していないのだから、これは続けて読んだ方が良いというのは、まあご理解いただけるでしょう。一方、「・・別れならないというのは」の箇所は句読点で区切られていますが、台本読む時に読み手が台詞の意味を取り易いように、三島が便宜上句読点をつけたと感じます。台詞の句読点は必ずしも息を切るべき箇所であると云うわけではないのです。

しかし、何故そう感じるのか?という根拠は、同じ物書きとしての音楽的感覚だとしか言いようがないですが、ひとつの根拠としてはこの前後の場面の持つ緊張感というか・一貫した流れを持続したいということです。もうひとつの根拠としては、ここでのモントルイユの台詞では相手(ルネ)の言い分に反発している気持ちが優先するのであって、内容は二の次だということです。「台詞の意味を理解するためにちょっとでも言葉を聞き洩らしてはならぬ」というような方向に観客の意識を過度に引っ張る ことは吉之助はイヤだと言うことです。 SCOTの場合は役者さんの台詞のツブツブ感がとても強い(これはもちろん長所ですが)ので、台詞の意味の方向に・観客の注意が強く引っ張られ勝ちだということです。吉之助としては、モーツアルトの音楽みたいに言葉 をキラキラ粒立たせながらも・軽やかなタッチで、三島の言葉の過剰性を意識的に抑える方向で処理したいのです。その為には台詞を切る息継ぎの箇所を慎重に選ぶ必要があります。

「それじゃどうしても別れられないというのは愛情からだとでも言いたいのかい。そこが私にはどうしても腑に落ちない。」

この場合は上記ふたつの文でひとつのフレーズと考えたいのです。モントルイユはルネの言い分がどうにも理解できない。言いたい気持ちはそれだけです。ここでモントルイユは同じ気持ちを二度繰り返しているわけです。ただし、同じことを繰り返す場合でも同じように繰り返すということは音楽の場合も戒められています。まったく同じフレーズを繰り返す場合も、ニュアンスを少し変え ねばなりません。だから「別れられない」と「愛情からだ」と云う言葉をちょっと膨らませて、「どうしても腑に落ちない」で落とす。そのような流れの上に台詞を組み立てる。吉之助ならば、この三島の台詞をそのように処理したいと思います。ちょっと歌舞伎風であるかな。しかし、 これは三島の本意に叶うことかなとは思います。今回は「雑談」で済ませるつもりが、思いのほか長くなってしまいました。

(H25・1・13)


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