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歌舞伎の現代化(?)演出


またオペラの話から始まりますが、そのうち歌舞伎の話になりますから。ペーター・コンヴィチュ二ーという演出家をご存知ですか。いわゆるスキャンダル演出家の異名を持ち・奇抜なアイデアで話題をさらうオペラ演出家です。(コンヴィチュ二ーの演出については本サイトでは「アイーダ」を取り上げたことがあるので、そちらをご覧下さい。)確かにアイデアの奇矯なことはあるのですが、コンヴィチュ二ーの作品・あるいは音楽に対する態度は非常に真摯なもので、貴重なヒントをもらうことがしばしばです。恐らくこの方は親切過ぎるくらい親切な方で、自分が作品(音楽)から感じたものを目に見える形にして説明し尽くさないではおけない・そうするとああいう 極端な形になってしまうということなのだろうと思います。

許光俊:コンヴィチュニー、オペラを超えるオペラ

そのコンヴィチュ二ー演出ですが、音楽を止めて寸劇を始めてしまうことが多いことでも有名です。例えば「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の最終場面は・主人公ハンス・ザックスがドイツ芸術の栄光を称えて・全員がそれを歌い上げることで高らかに締めくくられます。実はこのオペラはヒトラーの大好き だった曲で、ナチスによって国威高揚のため大々的に利用されました。ワーグナー死後のことですからワーグナー自身はナチスと直接の関係はないはずですが、作品のなかにその遠因みたいなものがあるわけです。(このこと話出すと長くなるので割愛。) このことはドイツ人にとってとても苦い思い出で、したがってドイツ人は「マイスタージンガー」最終場面を素直に聴けない・聴くとナチスのトラウマがうずき出すという精神状態に今もあ るのです。この為どの演出家もこの場面の演出に苦慮します。(典型的なのは2007年・バイロイト音楽祭でのカテリーナ・ワーグナー演出でした。)

コンヴィチュ二ー演出「マイスタージンガー」(2002年・ハンブルク州立歌劇場初演)では、ザックスがドイツ芸術の栄光を称え始めると・舞台の人たち(ニュルンベルク市民)が騒ぎ出し、やがて音楽が中断してしまいます。ある者が「○○(役名のザックスではなく・歌手の名前)、お前はこの時代にそんなことを歌っていいのか、駄目だろ」と言い出します。「仕方ないだろ、俺じゃない、ワーグナーがこう書いているんだ」、「フランス語で歌っても誰もわからないよ」とか、会話が続きます。そのうち誰かが「グローバル化すればいいんだ」と言い出します。「そうだ、ハンバーガーだ、コカコーラだ」と皆が言い出します。議論の収拾がつかなくなったところで、指揮者が「ハーイ、みなさん、音楽再開しまーす」と声を出して・指揮棒を振り上げて、めでたく音楽が終了するというわけです。この演出をとんでもないと憤慨なさる方はオペラ・ファンにももちろん少なくありません。しかし、音楽が中断されて雰囲気がぶち壊しになるかというと・まったくそんなことはなく、音楽という骨格があるからこそと言えるでしょうが、オペラはこういう扱いにも耐えるのだなあ・舞台芸術というのは面白いもんだなあと思いますよ。

こういうことを歌舞伎でやってみたらどうなるかということをちょっと想像してみて欲しいのですがね。例えば「寺子屋」の最終場面・いろは送りの場面で、白装束の松王が突然観客の方に向き直り、「狂言 途中ではありますが、ひとりの人間として申し上げたいのですが、主人のためとは云え・大事なひとり息子を身替わりに差し出すなんてドラマを、私は断じて納得できません。観客のみなさんは、どう思われますか? 自分の子供を身替わりにできますか? 私には出来ませんね。○○屋さんは如何です?」などと言い出したとします。その後、舞台上の役者が議論したあげく、「□□屋さん、あなたの仰ることは、いちいちごもっともではございますが、まあ今日のところは これくらいにして、そろそろ舞台を収めようじゃありませんか。」、「左様ですなあ・・・それでは竹本さん、もう一度いろは送りを最初からお願いいたします。」ということで舞台を再開して締める、そのような場面を想像してみて 下さいさい。

義太夫という骨格があるので、こんな過激な扱いにも「寺子屋」は耐え得るのではないかという気が吉之助にはするのですが。もちろんこういう演出(型)を定本にはできませんが、一度試みてみる と面白いと思いますが如何でしょうかね。


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