(TOP)            (戻る)

舞踊の身体学

*本論は平成23年7月新橋演舞場:「春興鏡獅子」(市川海老蔵:小姓弥生後に獅子の精」の観劇随想としてもお読みいただけます。

平成23年7月新橋演舞場:「春興鏡獅子」

市川海老蔵:小姓弥生後に獅子の精」


○舞踊の身体学:その1

昨今の日本人はホントに体格が良くなりました。背が高いし、脚が長いし、顔も小さい。しかし、最近の若者は洋装の時は良いのだけれど、負け惜しみじゃないが、和服はちょっと似合わない感じですね。ある女優さんですが、背が高くて洋装だとスラリとカッコ良いのだけれど、着物だと帯が何だか腹巻みたいに見えるの だなあ。着物の立ち振る舞いに慣れてないということもありますが、腰の位置が高いので見た目のバランスが良くないのです。バランスというのはなかなか微妙なものです。一方、梨園に目を転じれば、栄養事情がよろしいのか・こちらも170センチをはるかに超える方が多くいらっしゃいます。背の高い役者が主役を勤める時には大道具の寸法もそれ用に誂えるようなこともあるそうです。舞台で頭がつっかえちゃっては困るからです。江戸時代は世界的に寒冷期で栄養事情が悪く、日本の歴史を通じて日本人の体格が一番貧弱であった時代が江戸時代であったと言われています。そういう時代のお芝居を体格が一番良ろしい現代の歌舞伎役者が演じているわけです。このような変化が歌舞伎の印象に視覚的に何らかの影響を及ぼしているはずです。しかし、そういうことは意外と議論されていません。まあ議論しても致し仕方ないということかも知れません(役者の背を低くはできませんからね)が、舞踊の場合はどうしてもこのことを考えないわけにはいきません。

このことは実は西洋舞踊でも事情は似たようなもので、吉之助は古典バレエではルドルフ・ヌレエフやマーゴット・フォンティーンのような身体バランスが感覚的にしっくり来ますが、バレエでも最近の 若いダンサーは背が高く・手足も長いし・しかも小顔の方が増えてきているようです。そうなると当然見る印象も変わってきます。いささか古い話で恐縮ですが、吉之助がパリ・オペラ座のマリー・クロード・ピエトラガラを見た時です。彼女も細身で手足が長いタイプですが、古典バレエのナンバーだと(もちろん技術は素晴らしい ものでしたが)手足が長いのが何だかバランス的に落ち着かない感じでどうもなあ・・と思って見てましたが、彼女の現代物は抜群に良かったのです。「インザ・ミドル・サムワット・エレヴェィテッド 」(ウィリアム・フォーサイスの代表的な振付作品)などは、吉之助はギエムより良かったと今でも思います。長い脚を生かした大胆な動きは実にセクシーでありました。この時に踊り手のセンスとか身体能力ということと を別にして、作品が求める素材としての身体バランスの向き不向きということが確かにあると思いました。しかし、まあバレエの場合にはどうしても向きでなければ振り付けを変えて向きにすれば良いという奥の手があることはあります。歌舞伎舞踊の場合にはこれはなかなか難しいことで、別の振り付けでもガラリと印象を変えることはできないでしょう。だから歌舞伎舞踊の場合には役者は振りに対して真摯に向き合わねばならない要素がより強いということにもなると思います。

西洋舞踊でも同じことが言えますが、例えば小柄なダンサーが腕を横に大きく振る動作をするとして、背が高く・腕の長いダンサーが同じ動作をすると、脇が空いて見えるということが起こります。ヌレエフならばそれで良かったものが、もっと大柄で手脚の長いダンサーはそれでは不足だというのもツライ話ですが、実際そう感じることが多いわけです。こういう場合、背が高いダンサーは腕をもっと 大きく振る・脚をもっと高く跳ね上げるということで対処する場合が多いようです。そうしないと身体をあまり使っていないように見えるのです。本当はそうではなくて・ 手脚が長いダンサーはコンパスが長い分振るのに運動量が多く要る理屈なのですが、小柄なダンサーと同じ動きをすると・何だか動きが隙だらけに見えてしまうのです。 このような時に「もっと身体を大きく使いなさい」という駄目出しがダンサーに出されることがありますが、身体が出来ていない・あるいは技術がまだ完成していないダンサーであると、手脚をやたらに大きく振ろうとして・身体の軸をブレさせてしまって・却って踊りが悪くなってしまう場合があります。だから注意してアドバイスをせねばなりません。

歌舞伎舞踊でも六代目菊五郎や七代目三津五郎が踊りの名人だというけれど(それは事実ですが)、現代の役者とは体格が全然違います。六代目を貶めるではないけれど、背が高くて・手脚が長い現代の踊り手が六代目と同じ振りで踊るのは、踊る前からハンデキャップが相当付いているということは事実なのです。現代の歌舞伎舞踊では確かに腰高の踊りを見ることが多いのですが、まあその辺割り引いて見てあげないと・・と思うことはありますね。


○舞踊の身体学:その2

吉之助が舞踊をチェックするポイントは、肩が動いていないか・腰が揺れないか、要するに身体の軸(肩と腰を結ぶ線)がブレないかと言うことです。このことはバレエでも日本舞踊でも変わりがありません。そうやって舞踊を見ると、腰高の踊りをする方は、脇が空いて見える・脇が空くからそれをカバーしようとして身体を大きく使おうとする・身体を無理に大きく使おうとして結果として身体の軸がブレる・ それで肩が動く腰が揺れる・だから舞踊の形が崩れるという悪化のプロセスを辿ることが多いようです。歌舞伎舞踊では、役者の体形が大きく変化してきたこともあって、腰高の踊りを見せられることが多い。そうすると上記の舞踊悪化のプロセスがそこに見えるわけです。特に女形舞踊の場合には、これは女形という美学上の問題が絡むので事情がさらに複雑ですが、脇が空くのをカバーする為に身体を使うということを科(しな)を作るということで処理しようとする傾向が強い。女らしさの表現は科を作ることだという誤解が昨今の女形舞踊をさらにひどくしてい ます。だから昨今は舞台で見る女形舞踊の多くがクネクネ踊りです。観客もそれが当たり前のことだと思って見ています。

こういうことは舞台を客席から遠目で見ている分にはさほど気にならないと思いますが、ビデオで・つまりカメラのフレームで切り取られた映像で見るとその欠陥が顕著に 現れます。ある役者さん(あえて名前を伏す)の腰高の踊りは、いわゆる決めのポーズになると腰を落としてしっかり形を取っていますが、そうでない時(流している時)には腰を上げて楽な姿勢で踊っています。そうするとカメラマンは四角の形のなかに映像をバランス良く配置しようとしますから、カメラの角度が役者の腰の動きに合わせて上下動するわけです。おまけに身体を使おうとして肩が始終動くので狭い四角のフレームのなかで頭 や肩が前後左右に頻繁に揺れます。だから吉之助はその役者さんの腰高の踊りのビデオを見るといつも車酔いした気分になるのです。もちろんこれはその役者さんだけのことではないですが、そのような踊りを見せられることが実に多いのです 。

或る方から、踊りのお師匠さんに五代目富十郎(本年1月にお亡くなりになりました)の踊りを見なさいとよく言われるのだけれど・見てもどこが良いのか全然分からないと質問されたことがあります。「棒が突っ立って・手だけ楽にヒラヒラさせているように見える のじゃないかな」と言ったら、そう見えると仰ってました。肩が動かない・腰が揺れない・身体の軸がブレない踊りが、身体を使っていない・楽して踊っているように見えてしまうわけです。その昔、岡鬼太郎が六代目菊五郎の 「娘道成寺」の踊りを「アシカの踊り」とクサしたことがありました。・・アシカの踊りねえ、なるほど背筋がピンと真っ直ぐ立った踊りは、そんな風に見えるのかも知れませんねえ。古典狂言に関しての鬼太郎の見識についてはもちろん吉之助は尊敬していますが、ひよっとすると鬼太郎は踊り が分かってないのじゃないかと密かに疑っておるのです。とても困ったことですが、既にしてクネクネ踊りが標準になっているということです。本物が本物でないように見えてしまうわけです。

ところで正しい踊りのお手本として何を見るべきかと聞かれれば、吉之助は六代目菊五郎の「鏡獅子」(昭和10年)の映像を挙げることにしていますが、実は菊五郎の踊りにも完璧でないとこ ろがあります。もちろん最高レベルのなかでの欠点ということですが。「鏡獅子」の映画の試写会の時、菊五郎は「俺はあんなに下手か」と言い捨てて・途中で退席してしまい、その為に菊五郎存命中に映画が公開されることはなかったのです。これについては菊五郎の甥である十七代目羽左衛門はカメラが菊五郎を斜めから撮ったのが気に入らなかったのだろう・踊り手はつねに正面の形を意識しているものだから・斜めからだとどうしても隙がみえてしまう・それが嫌だったのではないかと言っていました。それは正しいと思いますが、・・ということは斜めの形に菊五郎本人が見られたくなかったものが見えるということです。

このことは映画を見れば分かります。菊五郎の踊りはしっかりと腰を据えて・舞台に吸い付いた実に見事な踊りです。もちろん肩が左右に揺れるようなことはありません。しかし、よく見ると下を見込むような形の時に上体が(程度はそう大きくはないが)前に傾斜することが多い。それがカメラを斜めから撮られると はっきり見えます。正面からのカメラではそれはあまり目立ちません。ここはホントは上体を垂直に立てて・頭だけを前に傾ける・できるだけその形に近いものに保つのが正しいのです。菊五郎の踊りは上体の 前傾斜が結構多く見えます。これは背筋の強さに係わることです。菊五郎がこのことに気が付かないはずがありません。はっきりと「これを後世に残すのはマズい」と思ったはずです。これは断片しか遺っていない映像ですが、「娘道成寺」(昭和 10年頃の映像か?)での鈴太鼓の踊りでの上体の遣い方なども動的な激しい踊りで見事だと褒める方もいるでしょうが、これも正しいかと言えば正しくないものです。 気が逸り過ぎているのです。もちろんこれは高レベルでの欠点であるので、菊五郎の踊りが最高のものであったことは言うまでもありませんが。


○舞踊の身体学:その3

現代の背の高い・手脚の長い役者さんが踊る時にどこを直せば良いかということですが、日本舞踊の場合には、これはなかなか難しいことだと思います。身体の比率が違いますから、踊りの印象が異なってくるのは当然です。六代目の踊りでもアシカの踊りとクサされたくらいですから、 体格の良い現代の役者さんが六代目と同じように肩を動かさず・身体の軸がブレないように正しく踊っても、恐らく棒立ちの踊りの印象がより強くなるだけでしょう。胴長マリオネットの踊りとでも言われかねませんが、それ でも仕方がない。それでも日本舞踊は肩を動かさず・腰を揺らさず・身体の軸(肩と腰を結ぶ線)をブレないようにすること を基本にすべきだと吉之助は思います。膝に余裕を持たせて・腰を落とすことはとても大事ですが、それで身長盗めてもまあ数センチというところでしょう。しかし、腰高の印象は変わらなくても、腰を落と して踊ることは身体の軸を一定に保つために常に大事なことなのです。これで立役の踊りは一応見られるものになります。

問題は女形の踊りの方です。前述したように科を作ること(クネクネ)が女らしさの表現という思い込みが、女形の踊りを余計に悪いものにしています。科を作ることが、身体を使っているように見せて棒立ちの印象を解消するための、さらに女らしさを表現するための技巧 にされているのです。しかし、クネクネはオカマさんの技巧であって、歌舞伎の女形本来のものではないはずです。 これは女形論とも重なることなので・本論では深入りしませんが、女形というのは野郎が女の格好をして女の表現をするものですが、歌舞伎の女形が最初から オカマ芸というわけではなかったのです。初代富十郎以後に女らしさを表現する技巧が次第に確立していきますが、そうした技巧の表層的な模倣がオカマ芸です。女形芸とオカマ芸は似ているようでいて 、まったく異なるものです。立役の九代目団十郎や六代目菊五郎などが(兼ねるという形であるにしても)女形を演じることがあるのは、女形芸というものが純粋にひとつの技術なのであって、趣味・性癖ではないということをはっきり示しています。昨今はここのところの区別がつかない方が多いようです。科を作ることが女らしさの表現だという思い込みは、こういうところから来ます。遺された九代目団十郎の映像(画質は非常に悪いですが「紅葉狩」の更科姫)あるいは六代目菊五郎の映画(「鏡獅子」のお小姓弥生)をご覧にな ると、彼らが踊りのなかで提示しようとした概念としての「女性」とはどういうものか、おぼろげながら見えてくると思います。「あれは真女形の踊りじゃないから ゴツゴツして見える」と思って見る限り、見えるものも見えてきません。女形舞踊は本来ああいう感触であったと想像してみる必要があるのです。

近いところでは七代目梅幸の踊りは、さすが六代目菊五郎の仕込みということもありますが、決してクネクネではありませんでした。六代目歌右衛門は見掛けが たおやかな印象でしたから、踊りはクネクネのような先入観があるかも知れませんが、映像をみれば実にしっかりと基本を守った踊りなのです。 踊りの肩と身体の軸の安定感をみれば、それは歴然としています。歌右衛門の踊りのたおやかなイメージは、それ以外の要素・例えば滑らかな手の遣い方によって生まれるものです。(首の動かし方はこの人の癖なので真似しない方がよろしいです。どうも真似している方がいらっしゃるようであるが。)しかし、昨今の女形舞踊を見ているとクネクネ踊りがとても多いと思います。これは、役者の体格変化と女形美学の変化が複合的に絡み合った・とてもデリケートで興味深い現象であると吉之助は考えています。


○舞踊の身体学:その4

平成23年7月新橋演舞場での海老蔵の「鏡獅子」を見ました。前シテのお小姓弥生ですが、海老蔵の踊りは確かに腰高・棒立ちの踊りです。だから脇が大きく空きます。「(牡丹の花の) 咲くや乱れて散るわ散るわ」の箇所など、身体が伸び切って実に風情がありません。そのすぐ後の中ダメの形もちょっと膝を折ってみましたくらいの感じで、あれでは中ダメとは言えません。良い点も上げておくと、海老蔵の踊りはあまり肩が動 きませんね。腰もあまり揺れません。 それと海老蔵はクネクネした踊りをしません。これも良い点です。そういうわけで、海老蔵の「鏡獅子」とはどんなものかと内心心配しながら見ましたが、思っていたよりも安心して見ていられたというのが吉之助の印象です。本当はもっと腰を落とした踊りをすべきですが、この腰高 の突っ立ち状態でも肩が動かず・腰も揺れないのは、下半身が強靭だからでしょう。逆に言えば、下半身の強さに頼りすぎの踊りなのです。だから身体の線に柔らか味が出ないのです。海老蔵の「鏡獅子」についての評判は色々聞きますが、海老蔵は立役ですから、たとえお小姓弥生の踊る場合であっても・「・・女らしく」あるためのつまらぬ小細工を身につける必要はないと吉之助は思います。それよりも基本正しく踊ることの方が大事です。その方が本領 である立役舞踊をやる時に役に立つのです。まっそれはともかく、今は下半身の強さに頼っているようですが、もう少し腰を落とすことは心掛けてもらいたいものです。

それより問題だと感じるのは、海老蔵の前シテ・お小姓弥生の踊りは「振りをソロリソロリとさらっている」という印象が強いということです。「鏡獅子」の前シテはちょっと見た感じだとそのように見えないですが、踊り手には結構辛い踊りであるようです。膝を落として上体を支えて静止する中ダメの振りが三箇所出て来ることでも分かる通り、下半身を責め抜いて・責め抜いて踊る曲です。しかし、もちろんその辛いところが観客に知られてはならないわけで、あくまで優雅に浮き立つように踊らなければなりません。「鏡獅子」前シテはその辺に難かしさがあるのだろうと思います。「鏡獅子」前シテを見ていると、「振りを ずいぶんソロリソロリとさらうなあ」と思う舞台が少なくありません。振りが丁寧だと感じるならばそれは良いということになりますが、ソロリソロリというのは要するに振りが動きとしてまだ十分に生きたものになっていないということです。動きが硬くて、踊りが浮き浮きしたものになってこないということです。その要因のひとつとして、踊り手の意識が下半身のタメの方に多く行ってしまっているということがあるのだろうとお察しをします。例えば勘三郎の「鏡獅子」前シテにしても、海老蔵と比較するのは失礼になるほどレヴェルの高い踊りであるにしても、それでもやはりソロリソロリの感じが 多少あります。もっとも同じソロリソロリでも勘三郎と海老蔵とでは事情が異なることはもちろんですが、そこに勘三郎の踊りの課題があるわけです。(別稿「勘九郎のマイルストーン」をご参照ください。)

ところで前項で歌右衛門の踊りは肩と身体の軸がしっかりした踊りであって、その踊りのたおやかなイメージは滑らかな手の遣い方によって生まれるものだということを書きました。別稿「舞踊の振りの本質」でも触れましたが、踊りの振りというのは流れではなく、決めであるのです。例えば「右手を前に差し出す」という振り、それは右手を差し出すという動作(流れ)が大事なのではなく、右手を前に出し切った時の形を「決める」ことが大事だということです。踊りの振りというものを一瞬の「決めのポーズ」から次の「決めのポーズ」へ移って行く。そのように考えたいと思います。瞬間的に 形を決めて・その形を抜く。そして瞬間の形の残像を観客の脳裏に刻み込む。そうすることで振りにリズム感・あるいは揺れの感覚が生まれてきます。歌右衛門はその技術が天才的に巧かったと思います。「右手を前に差し出す」という振りでも、スッと真っ直ぐに手を出すということを決してしませんでした。何だかヒラヒラと・あるいはクネクネとした感じで手を差し出すのです。 その動作の速度は決して一様ではなく、動作のなかに優雅な揺れのリズム感覚があり、それがたおやかな踊りの印象を生み出したわけです。「右手を前に差し出す」という連続した動きを等分の速度のなかで行なってしまえば、それはソロリソロリとした印象に陥ってしまいます。動きのなかにリズム感・あるいは揺れの感覚が乏しいからです。 踊りにおいては手の遣い方が大事です。もちろん腰の持ち方が基本であるけれども、さらに高い次元を目指すならば踊りのポイントは手の遣い方なのです。

現代の背の高い・手脚の長い役者さんが踊る時にどこを直せば良いかという問いに話を戻しますが、腰を落と して踊ることは身体の軸を一定に保つために常に大事なことですが、体格の良い現代の役者さんが六代目と同じように肩を動かさず・身体の軸がブレないように正しく踊っても、腰高の印象は多分なくならないでしょう。これは致し方ないことです。腰高の硬い印象をやわらげる為に、手の遣い方を工夫しなればなりません。踊りの振りを「決め」であると心得 て、その振りのなかにリズム感を持たせること。そうすることで現代の役者さんの踊りも、時代に即した美学を体現したものになっていくだろうと思います。

(H23・8・21)


  (TOP)         (戻る)