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歌劇における「バロック」

〜歌舞伎との関連を考えるオムニバス的論考

*本稿は「歌舞伎の雑談」コーナーに連載されたものをまとめたものです。


○歌劇におけるバロック・その1:「トゥーランドット」について

歌舞伎と関係ないようです(実は遠まわしに関係あるのです)が、今回はオペラのことです。久しぶりにプッチーニの歌劇「トゥーランドット」を聴きました。演奏はゲルギエフ指揮の2002年ザルツブルク音楽祭でのライヴ録音です。この録音を選んだのには理由がありまして、これはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオによる補綴完成版での初演演奏です。

プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》全曲 [DVD] (2002年ザルツブルク・ゲルギエフ指揮)

「トゥーランドット」はプッチーニの最後の歌劇ですが、プッチーニは第3幕のちょうどリューの自決の所までを書いたところで1924年11月(大正13年に当たる)に亡くなり作品は未完に終わりました。作品は弟子のアルファーノによって完成され、1926年4月25日ミラノスカラ座でトスカニーニの指揮により初演されました。トスカニーニは、この日、プッチーニが絶筆した箇所でオーケストラを止め「ここまで書いてプッチーニは亡くなりました」と言って指揮台を下りました。(2日目からは通常に演奏されました。したがって26日を本当の初演日だとする説もあります。)

今日の一般的な演奏はアルファーノ版に拠っていますが、この版のエンディングは第3幕冒頭の有名なアリア「誰も寝てはならぬ」の旋律をただ繰り返しているだけだという批判もあって、評価は芳しくないのは事実です。アルファーノ版はカラフとトゥーランドット姫との愛の成就を高らかに歌い上げて合唱を加えてフォルテで壮大に締められます。しかし、実はプッチーニの遺したメモがあったそうで・それによればオペラはピアノ(弱音)で締められる予定であったとのことです。そこで今回のベリオ版の登場です。ベリオ版は作曲者の意図を汲んで静かに終わるエンディングを採用しているのです。この静かに終わるエンディングの意味ですが、「オペラは二人の愛の成就で終わるけれど・二人がいつまでも幸福であるかどうかはそれは分からないよ」というような皮肉が込められているということだそうです。


○歌劇におけるバロック・その2:引き裂かれたオペラ

実は歌劇「トゥーランドット」は吉之助が好きなオペラです。ずいぶん昔の話ですが、吉之助がヨーロッパに行った時のこと、そこで知り合った現地のオペラ好きが・吉之助が日本人ということもあったでしょうが「私は蝶々夫人が好きだ」と話しかけてきたことがありました。 吉之助が「蝶々夫人はあまり好きじゃないな、トゥーランドットの方が・・・」と言ったら、「オオッ」とのけぞっておりました。まあ、あちらではあまり趣味の良くないオペラと思われているところがあるようです。

しかし、今回久しぶりに「トゥーランドット」を聴きまして・痛切に感じたことは、全体に散りばめられた・その中国風旋律の無機的な使い方です。ただしリューの担う旋律だけは別ですが、特に合唱においてそれを強く感じさせます。その旋律の使い方は時に無機的かつ威圧的・暴力的であり、差し迫った非人間性への恐怖を強く感じさせます。吉之助の見た数少ない「トゥーランドット」の舞台のなかでは1986年9月に来日した英国ロイヤル・オペラのアンドレイ・シェルバンの演出が強く印象的に残っています。主役クラス以外の登場人物はすべて仮面をつけていて、つまり人間性を剥奪された虚無的な影のような人物たちでした。

バロック的なる歌舞伎」なんて原稿を書いている最中ですからそんなことを強く感じるせいもありますが、まさにこのオペラはバロック的な感覚のなかで引き裂かれているのです。確かにこのオペラには単純なハッピーエンドはふさわしくないと実感できました。

こういう感覚は「蝶々夫人」(1904年初演=明治37年)の方にはあまり感じませんが、これは作曲年代がほぼ20年離れている(つまり作曲当時の時代背景が全然違う)ことが強く影響しているのだろうと思いますが、題材の違い(中国と日本)もあるかも知れません。


○歌劇におけるバロック・その3:東西文明の衝突

歌劇「蝶々夫人」の愛の二重唱や有名なアリア「ある晴れた日に」の旋律はまったく日本的な旋律ではありませんが、 誰でも何となくそんなものとして受け取っているのが不思議です。どこか西洋人の日本に対して持っている清らかで優しいイメージがあるようです。

今では「蝶々夫人」も人気作ですけれど、実は1904年(=明治37年)2月17日ミラノ・スカラ座での初演は散々と言っていいほどの歴史的大失敗でした。これを踏まえて何度か手を入れた改訂版が今日我々が耳にするものですが、初演稿とはかなり印象が異なるものになっているそうです。その改訂の経緯はここでは触れませんが、初演の失敗は日本の下世話な風俗をリアルに取り入れたことがミラノの観客に醜悪で不快な印象を持たれたこと、ピンカートンの無責任な人物を対比して・いわゆる「東西文明の衝突」をプッチーニが描こうとした (例えば初演版にはピンカートンが日本人を侮辱する場面があったりします)のが題材として刺激的過ぎたことなどが原因だとも言われています。全体として改訂版ではジャポネスクに憧れのイメージを持つ西洋の観客に目映りがいい改訂がなされているようです。(なお近年は初演稿による上演も何度か試みられています。)

日本の風俗描写に真実性を持たせようとしたというのはプッチーニはヴェリズモ(現実主義)の作曲家ですから当然とも思います。また、蝶々夫人が状況に押し流されて・ 言わばなし崩し的に自殺に追い込まれる(改訂版)のではなく、初演版では蝶々さんが自らの誇りと意志を以って・決然として自殺するという設定であったということも納得できます。これはすなわち「私があなたを愛しているのと同じに私を愛して」という「かぶき的心情」 に近いものなのですね。(別稿「その心情の強さ」をご参照ください。)ジャン・ピエール・ポネル演出のオペラ映画版「蝶々夫人」(カラヤン指揮・ユニテル製作・通常の改訂版による演奏)では、ラスト・シーンで自害した蝶々さんの部屋にピンカートンが駆けつけると・遺された子供が父親を責めるように指を差す場面があってショッキングでしたが、やはりピンカートンの不実は糾弾されるべきでありましょう。

歌舞伎「蝶々夫人」はアメリカの劇作家べラスコの同名戯曲のオペラ化作品ですが、プッチーニは1900年6月ロンドンでその舞台を見ました。プッチーニは英語はほとんど分からなかったようですが、その異国情緒にあるれる舞台装置と彼好みの薄幸のヒロインを見て大感激して終演後すぐさま楽屋にべラスコを 訪ね、涙を流しながらべラスコに抱きつかんばかりにしてオペラ化を頼んだそうです。イプセンの「人形の家」(1879)を例に挙げるまでもなく、この時代は意志のある女性を文学でも舞台でも主人公によく取り上げたものでした。

それにしてもプッチーニがこの時代に「東西文明の衝突」的な着想を持ったことには興味をそそられます。「蝶々夫人」にも・やはり引き裂かれたバロック的な心情が間違いなくあるのですね。現行の改訂版からでもそれは十分に聴き取れると思います。


○歌劇におけるバロック・その4:オペラの観念上の死

哲学者ムラデン・ドラーは次のように書いています。

『もしオペラという荘厳でメロドラマティックなジャンルの最終幕が、その隆盛時の壮大さに適うものでなければならないとしたら、命日としてふさわしいのは間違いなくプッチーニの「トゥーランドット」が初演された1926年(=大正1 5年)4月25日である。その時のアルトゥーロ・トスカニーニの有名な身振りー彼はプッチーニが死んだために絶筆となった箇所で演奏を中断し・泣きながら指揮台を降りたのだったーは、オペラの荘厳な伝統を一時的に無効にし・その死を記し続けるものであった。』(ムラデン・ドラー:「音楽が愛の糧であるならば」〜ドラー/ジジェク共著「オペラは二度死ぬ」に所収・青土社)

オペラは二度死ぬ

「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1・時代にいきどおる役者」において、歌舞伎の(本質における)死が二度あったことを買きました。ひとつは寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止です。もうひとつの「節目」が明治36年(1903)の九代目市川団十郎の死 、つまり江戸歌舞伎の終焉です。その後者のことですが、歌舞伎とオペラという似たような芸術ジャンルが共に同じ時期に観念上の死を迎えていることは非常に興味深いことです。明治36年(1903)の九代目市川団十郎の死と大正1 5年(1926)ミラノでの「トゥーランドット」初演とは23年の時間の差がありますが、この程度は差と言えません・ほぼ同時に起こったことと考えていいのです。もちろん互いにまったく関連ない事象ですが、世界的レベルで見た時の同時代の現象としてとらえるべきことです。

ちなみに歌舞伎もオペラもほぼ同じ時期(1600年前後)に生まれているのです。この相似も面白いことです。どうして場所が離れたまったく別の事象が同じような変遷をたどるのか。この点についてはいずれ考えてみたいと思っています。


○歌劇における「バロック」・その5:卑俗なるヴェルディ

イタリアの小説家モラヴィアがヴェルディに関して次のように書いています。

「それではヴェルディの卑俗とはいったい何であろうか。はじめの隠喩をもう一度用いるなら、それは今や廃屋と化して労働者や職人たちが住んでいる旧邸宅である。言い換えれば、それは反宗教改革の後にイタリアの支配階級によって見捨てられ裏切られ、庶民によって保たれながらも民間伝承(フォークロア)に過ぎないものとなっていた我らのルネッサンスのヒューマニズム的概念である。(中略)要するに、ヴェルディは、庶民的・農民的な、したがって「卑俗」な、我々の民俗的(フォークロア的)なシェークスピアである。」(アルベルト・モラヴィア:「ジュゼッペ・ヴェルディの卑俗」)

ここでモラヴィアが言う「卑俗」は、スパッと斬り口が鮮やかで・鮮血がパッと飛び散るかのようなトスカニーニあるいはセラフィンの指揮するヴェルディの録音を聴いていただく方が長々しい説明を費やすよりずっと実感があるのですが、まあ、一応説明してみると ・これは「民族の血・民族の心情」とでも言うべきものであるかも知れません。

しかし、そう言い切ってしまうと「ヴェルディはイタリア人以外には分からんよ」というような話になりかねません。例えばイギリスにおけるシェークスピア、ドイツにおけるゲーテあるいはシラーにその民族に固有の心情があるとしても、むしろその素晴らしい個性を人類共通の宝といたしたいものです。(もちろん歌舞伎も同様です。)

ヴェルディの「卑俗」・この言葉はイタリア人の感情を底から熱くさせる何ものかを示しているのです。それはイタリア人がイタリア人であることのアイデンティティーに係わり・ 時にはそれが「愛国心」という形をとって現れます。

ご承知の通り、イタリアは西欧諸国のなかでは中央集権化・近代化に立ち遅れ・民衆が他国の圧制下で苦しむ時代が長く続きました。そのなかでイタリア国民の独立を熱い思いで鼓舞したのがヴェルディのオペラなのです。「イ・ロンバルデイ(十字軍のロンバルディア人)」・「アッティラ」・「ジョアンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)」・「シチリアの晩鐘」などのオペラはヴェルディ愛国路線とも 言うべき初期の作品群です。「ナブッコ」というオペラは旧約聖書のダニエル書を題材にしていますが、ここでバビロニア捕囚で苦しむユダヤ人たちが失われた祖国を思って歌う合唱曲「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」はそのまま独立を願うイタリア人の思いでもありました。今でもこの曲は 「イタリアの第二の国歌」と言われています。VERDIとはVictorio Emmanuelle Re d’Italia(イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ)の短縮形だと言う話が当時もあったくらいです。


○歌劇における「バロック」・その6:卑俗ということ

『ヴェルディは庶民的・農民的な・したがって「卑俗」な・我々の民俗的(フォークロア的)なシェークスピアである。』(モラヴィア:「ジュゼッペ・ヴェルディの卑俗」)

ここでモラヴィアの言う「卑俗」とは何でありましょうか。それは「民族の血・民族の心情」みたいなものであろうと思っています。巷間よく言われることには、イタリア人が瞬間湯沸かし器のように熱狂するのは彼が激しい愛国の情に駆られた時か・愛する女が自分を裏切ったのを口を極めて罵倒する時なのだそうです。歌劇「ルチア」(ドニゼッティ)第2幕でルチアがアルトゥーロとの結婚証明書に署名したのを知ってエドガルドが怒り狂って「お前は天と愛を裏切ったのだ。おお、神の怒りの手がお前たちを一掃してくれるように」と叫ぶドラマチックな箇所 があります。この箇所のテノールの力強い高音と強烈なアクセントに観客が熱狂して立ち上がり・「ブラヴォ!」の連呼でしばらく音楽が聴こえなくなるということがイタリアの歌劇場ではしばしば起こるそうです。1835年ナポリのサンカルロ歌劇場でエドガルトを創唱したのはジルベール・デュプレという名歌手ですが、このエドガルドの歌唱のおかげで彼は「呪いのテノール」というニックネームを付けられたほどです。

ヴェルディの歌劇にもそのようなイタリア人の心情を強く刺激するものがあるのです。しかも、それがもっと庶民の心情レベルに近いところに降りて来ているのです。

永竹由幸氏が「オペラと歌舞伎」(丸善ライブラリー)でこんなことを書いています。「ルチア」のアリアがどんなに有名であっても技巧的に難しくて素人にはとても歌えるものではない・街を歩きながら・自転車に乗りながら口ずさめるものではない 。でも「リゴレット」(ヴェルディ)の「女心の歌」なら誰でも知っているし、旋律がスラリと出てくる。それは江戸の庶民が一杯飲んで・風呂に入って気軽に口をついて出てくる黙阿弥の「知らざあ言って聞かせやしょう」や「月も朧に白魚の・」という名台詞と同じようなものだ、それが近世イタリア文化の華であり・江戸文化の華なのだと。なるほど、そんなものかも知れませんねえ。


○歌劇における「バロック」・その7:普遍的なるかぶき的心情

ドナルド・キーン氏は言わずと知れた欧米における日本文学研究の権威ですが、無類の音楽好きでもありまして・2冊の著書「音盤風姿花伝」と「音楽の出会いと喜び」(共に音楽の友社)で披露されるその豊富な音楽体験(特にオペラ) には吃驚させられます。そのキーン氏が「古典を楽しむ〜私の日本文学」(朝日選書393)のなかで近松門左衛門の心中物(「曽根崎心中」・「心中天網島」など)を論じ・その論考の末尾を次のようなエピソードで締めています。

ドナルド・キーンの音盤風刺花伝

ドナルド・キーン 古典を楽しむ―私の日本文学 (朝日選書)

トスカニーニが歌劇「アイーダ」(ヴェルディ)をニューヨークで演奏会上演した時のリハーサルをキーン氏は見学したのだそうです。(多分1949年のことでしょう。この時の演奏は映像で残っています。)その第4幕はラダメスとアイーダという愛し合う二人が墳墓のなかに生きながら閉じ込められて死を待つシーンです。その最後の静かな旋律を二人の歌手が悲 しみを込めて歌いました。するとトスカニーニは即座にオケを止めて・こう叫んだそうです。「この場面は悲しみじゃない、喜びだ、無上の喜びなんだ!」

このキーン氏の近松心中論は上記のエピソードが最後に突然現れて・それで終わります。オペラを知らない方にはこの締め方は唐突というか・キーン氏が何でここでこんなエピソードを出すのか・何が言いたいのか分からないかも知れません。しかし、これはキーン氏のなかに完全な「必然性」があることが 吉之助には分かり過ぎるくらい分かります。「歌舞伎素人講釈」もまったく同じなのですから。

西欧には「心中」というようなロマンチックな響きの言葉はなく・強いて言えばDouble Suicideがそれに当たりますが、この響きは江戸幕府が「心中」の代わりに押し付けた言葉「相対死(あいたいしに)」に近いものです。しかし、西欧にも心中はないわけではありません。「ロメオとジュリエット」だって心中に近いものですし、この「アイーダ」もまたそうなのです。これもまさに「かぶき的心情」なのです。トスカニーニはさすがに言い当てていますね。


○歌劇における「バロック」・その8:歌舞伎と歌劇

次に紹介する文章は当代・十二代目団十郎のものです。

『歌舞伎とオペラ。どちらも人間が舞台に登場し、感情を音楽に寄せて演じ、舞い、歌うことで物語が進められていく。洋の東西のまったく離れたところ。ユーラシア大陸の西と東の果て、優に2万キロもの距離を隔てながら、これほど似通った舞台芸術はあるだろうか。 (中略)物事の始めには諸説があり、さらにその前置きの話があることは、よろず古今東西を問わないことである。しかし、この符合はどうしたことだろう。人間性は時代や場所に関わりなく、本質的な部分で全く変わることがないことを示しているようだ。 』(十二代目市川団十郎:「音楽との出会い」」・モーストリー・クラシック・2004年1月号)

歌舞伎の起源は慶長8年(1603年)に出雲のお国の四条河原でかぶき踊りに始まったとされていますが、オペラの方もほぼ同じ時期の16世紀の末にフィレンツェのジョヴァンニ・ディ・バルディ公爵の邸宅で音楽劇が上演されたことがその 始まりと言われています。そして、「歌劇におけるバロック:その4・歌劇の観念上の死」で書きましたとおり、歌舞伎とオペラの観念上の死もまたほぼ同時期です。

永竹由幸氏は「オペラと歌舞伎」(丸善ライブラリー)のなかでオペラと歌舞伎の変遷の過程があつらえたようにピッタリ合わさることを面白く解説してくれています。 ロッシーニと鶴屋南北・ヴェルディと黙阿弥・ボイートと九代目団十郎など、それはまったく「いやあ、そこまで見事にこじつけてくれるとは」と思わず笑ってしまいたくなるほどです。しかし、真面目に考えてみると・この相似は団十郎の言う通り「人間性は時代や場所に関わりなく・本質的な部分で全く変わることがないことを示している」のかも知れません。

歌舞伎がバロック的であるのと同じく、オペラもまたバロック的であるのです。恐らくそれが歌舞伎が吉之助を引き付け・オペラが吉之助を魅了するのでありましょう。このことは機会を改めて考えてみたいと思います。


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