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村上春樹・または黙阿弥的世界・その

〜「海辺のカフカ」

*本稿は「村上春樹・または黙阿弥的世界」・「村上春樹・または黙阿弥的世界・その2」の続編です。


1)

2009年2月16日に村上春樹が文学賞であるエルサレム賞受賞式において「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」というスピーチをしたことは記憶にまだ新しいところです。西欧においては芸術家が政治的立場を明確にした発言を求められる場面が頻繁にありますから、これも世界的作家となった村上春樹を試す場面になったとは思います。「壁と卵」発言についてはいろいろ論評がされていますし、イスラエル批判としてはぬるいとか揶揄もされているようです。吉之助も当時は村上氏の作品を全然読んでいなかったこともあって・「壁と卵」発言の新聞記事を読んだ時はちょっとピンと来なかったことは正直に書いておかねばなりません。しかし、まあ政治的なことはここでは置いて、村上氏はこれは「小説を書いているときにいつも心に留めていることだ」と言っていますから、村上氏の小説を読む時の大きなヒントを与えてくれるものとしてこれを聞きたいと思いますし、そこから逆にエルサレム賞受賞式での村上氏の真意を考えることが出来ると思います。村上氏の最近の作品をいくつか読んでみると、「壁と卵」発言は村上氏の立場からすると「なるほど」と思うものがあります。そこに村上氏が「時代に対して憤(いきどお)る気分」が出ており、それが同時代作家としての村上氏の真意であろうことが分かります。強く尖った感じで相手に迫るのではなく、若干マイルドにソフィスティケートな(あるいはいささか斜に構えた)感じでそれが出てくるのが村上氏のスタイルなのです。あるいはそこが村上氏の日本的なところかも知れませんねえ。

「高くて固い壁があり・それにぶつかって壊れる卵があるとしたら・私は常に卵の側に立つ。その壁がいくら正しく・卵が正しくないとしても・私は卵の側に立つ」という村上氏の発言について考えます。この場合「卵」が人間・個人を指すことは明らかですが、この村上氏の発言を政治的発言として見ると微妙なのは、当時ガザ地区で繰り返されていたイスラエル軍によるパレスチナに対する激しい戦闘を考えた場合にどちらの側の主張にも当てはまりそうな発言に聞こえるからです。「卵」を武器を持たないパレスチナ住民だと考えれば・この発言はイスラエルの軍事行動への批判 ということであり、「卵」を市街での爆弾テロの恐怖に震えるイスラエル市民とすれば・その発言はアラブ・ゲリラの無差別テロ行為に対する批判にもなるわけです。それが村上氏の本意ではないのは明らかですが、利用しようと思えば・どちらの側も村上氏の発言を都合良く自分の論理として利用することができるわけです。そういうことでこの「壁と卵」発言を玉虫色だとして 批判する声も出てくるわけです。しかし、よくよくこの発言を聞けば、村上氏は利用されるもされないも・そういう政治スタンスを最初からまったく考えておらず、ひたすら個の人間の心情として「私は常に卵の側に立つ」と発言しているのです。この場面において政治的立場を考えないことの批判は当然あると思いますが、敢えてそのような政治的立場を取らないことが村上氏の作家としての立場なのです。そのことを理解すれば同時代作家としての村上氏の真意が見えてきます。

スピーチのなかで村上氏自身は壁は「システム」だということを言っていますが、壁が何ものかということは実は何でも良いのです。個人を取り巻く・個人の存在を脅かす何ものかが壁だと漠然とイメージすれば良ろしいと思います。例えば「歌舞伎素人講釈」では吉之助が他者的存在と呼んでいるものもそのようなものです。別稿「近松心中論」でも書きましたが、個人の心情が強くなればなるほど外界(他者)は消し飛ぶのです。村上氏の「壁と卵」発言では個の問題が強く押し出されており、外界(政治)の問題は消し飛んでいると考えるべきだと思います。村上氏の作品の多くの主人公は「俺が・俺が・・」的要素は あまり強くなくて・むしろそうしたものを強く出すことを恥じるような優柔不断なところがありますが、しかし、もちろん主人公に個がないわけではありません。個の主張をあらわには出さない性格だけれど、内側には個の憤りが沸々としていて・それをそうすべきだと思って自分で必死に抑え込もうとしている主人公なのです。その傾向も「ねじまき鳥クロ二クル」(1992〜94年)以降は徐々に変化する方向に向かっているようです。 その心情の変化は「村上春樹・または黙阿弥的世界・その2」で考察した通り、主人公の「僕は詰まらない人間かも知れないが・少なくともサンドバックじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします」という発言に出てくるものです。エルサレム賞受賞式での「壁と卵」発言も個の心情をそれほど強く押し出してはいませんが、それはこの主人公の心情の延長線上にあるものとして表現されているものと吉之助は理解をします。

2)

ところで三島由紀夫に「批評家に小説が分かるか」という随筆があって、そこで三島がこんなことを書いています。

『理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、愛は断じて理解ではない。志賀直哉氏に太宰治氏がかなわなかったのは、太宰氏が志賀文学を理解していたにもかかわらず、志賀氏が太宰文学を理解しなかったという一字にかかっており、理解した方が負けなのである。』(三島由紀夫:「批評家に小説が分かるか」)

志賀と太宰のどちらが勝ったかということは置くとして、三島がどういう意味で「小説を理解する」という言葉を使っているのかを注意して読んで欲しいと思います。批評家はこの作品はこういうものだと決め付けることで・実は批評家は自分はこういう見方をする人間に過ぎないと自ら露呈しているということです。だから三島は「芸術作品は理解した方が負けなのだよ」と言っているのです。このことは吉之助も批評を書く身なので日々気をつけていることですが、批評家は文章書かないと仕事になりませんのでねえ。しかし、実はこの勝負を互角に持ち込むことは出来ます。それは作品を決して理解しようとせず、作品に対する鑑賞者からの作品にして作者にお返しをすることです。そうすれば批評も作品に伍することができるというものです。上記随筆で三島が批評行為に対する批判を書いたと単純に考えないでください。三島だって批評文をたくさん書いているのですから。

3)

「海辺のカフカ」(2002年9月)に登場するナカタさんは猫と話ができる特殊な能力を持っているのですが、ナカタさんが行方不明の猫の「ゴマ」を探すことを頼まれて・あちこち歩いているうちにジョニー・ウォーカーという人物の家にたどり着きます。ところがそのジョニー・ウォーカーが猫殺しで、「自分(ジョニー・ウォーカー)を殺せ・さもなければゴマを殺す」という とんでもない要求をナカタさんに突きつけてくるのです。

『君は人を殺したこともないし、殺したこともない。君はそういうことにはあまり向いていない。しかしね、ナカタさん、世の中にはそういう理屈がうまく通じない場所だってあるんだ。例えば戦争がそうだ。(中略)戦争が始まると兵隊にとられる。兵隊にとられたら、鉄砲をかういで戦地に行って、相手の兵隊を殺さなければならない。君が人殺しが好きとか嫌いとか、そんなことは誰も斟酌しちゃくれない。それはやらなくてはならないことなんだ。さもないと逆に君が殺されることになる。(中略)というわけでつまり、君はこう考えなくちゃならない。これは戦争なんだとね。それで君は兵隊さんなんだ。今ここで君は決断を下さなくてはならない。私が猫たちを殺すか、それとも君が私を殺すか、そのどちらかだ。もちろんそれは君の目からみれば実に理不尽な選択だろう。しかし、考えてもみてごらん。この世の中のたいていの選択は理不尽なものじゃないか。』(村上春樹:「海辺のカフカ」・上巻・第16章)

ジョニー・ウォーカーは一匹づつ猫を殺していき・三匹目がナカタさんがカワムラさんと呼んでいた猫でした。そのカワムラさんが無残に殺されるのを見て、ナカタさんは何がなんだかわからなくなってジョニー・ウォーカーをナイフで刺して殺してしまいます。

さて、ある批評家(名前は敢えて伏す)の文章を読んでましたら、『猫殺しと人殺しは等価ではない・ましてや戦争とは等価ではない・ここで村上春樹は読者を巧みに混乱させて・「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の境界を分からなくしている・これによって人殺しを「いたしかたのないこと」にしてしまっている ・これが作者の巧妙な仕掛けである』というようなことが書いてありました。なるほどテロで愛する家族が無残に殺されても何も抵抗しないで・ このまま暴力を容認して良いのかという議論は絶えずあって、それによって国家が国民を戦争に向かって扇動していくというようなことは確かについ最近もあったことです。 もしそうならば権力の側に都合の良い論理で戦争も人殺しも「仕方ないこと」にされてしまう・そういう危険を孕むのかも知れません。・・しかしねえ、「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の境界を分からなくしてすべて「いたしかたのないこと」にしてしまうことが村上氏の仕掛けではないと思いますよ。村上氏はそれ を「いたしかたのないこと」であると決めつけていないと思います。やってしまったらそれは罪として残るし・それは償わねばならぬものであるとしていると思います。

村上氏は「やってはいけないこと」を強制するものに対して徹底的に憤(いきどお)るのです。そして理不尽なことを個人に強制するものを徹底して憎むということです。ナカタさんにとってカワムラさんは顔見知りの猫であり、ナカタさんに大事なことを教えてくれた猫でもありました。そういう自分にとって大事な猫を殺す奴は許せないと 感じるのは個人の感情として正常なことではないでしょうか。吉之助には猫の命と人間の命の重さに差をつける 考え方の方がずっと恐いと思います。「・・ならば人を殺していいのか」というのはこれはまったく別次元の問題です。小説であるから筋(ストーリー)の上からジョニー・ウォーカーを殺すという流れになっているだけのことです。チェーホフは「小説にピストルが出てきたら・引き金は引かれなくてはならない」と言いましたが、この場面がそういうものです。このチェーホフの言葉は「1Q84」でも重要なモティーフとして登場することはご承知の通りです。

このジョニー・ウォーカー殺しで作者が言いたいのはカワムラさんが殺される瞬間にナカタさんが感じた訳もわからない強い「怒り」のことなのです。ナカタさんのなかには「猫殺しと人殺しは等価ではない・ましてや戦争とは等価ではない」なんて理屈 が最初からないのです。村上氏が読者の感覚を巧みに混乱させて・「やっていいこと」と「やってはいけないこと」の境界を分からなくする仕掛けをしているのではなく、そういう論理自体が最初から村上氏の方にないのです。村上氏は個の怒りで以って「システム」が強制するものの理不尽さを糾弾しようとしているのです。ですから村上氏が言いたいのは、ナイフをつかんだ瞬間のナカタさんの「憤り・怒り」、そのことだけです。そこに尽きます。確かにナカタさんの「憤り・怒り」は持って行き方によっては非常に恐ろしいものになるのです。間違えば「俺の愛する者を奪う者は殺しても良い・俺の大事な物を奪う奴は殺しても仕方ない」になりかねないのです。そこからとんでもない怪物が生まれるかも知れません。 もちろん村上氏はそのことの恐ろしさを心底分かっており、つねにそうなりかねない恐怖も感じています。しかし、その危険性も承知しつつも、なおかつナカタさんの持つ個の「憤り・怒り」だけが「システム」の暴走を阻止する絶対的な力になると信じるのが村上氏の作家としての立場なのです。そう考えれば村上氏の「壁と卵」発言の真意も理解できるし、村上文学の本質も理解できると思います。

吉之助は村上氏の作品をまだ数えるほどしか読んでいませんが、村上文学関連の評論をいろいろ読みますと、個人と外界を対立的に読む見方をされる方が実に多いようなのでちょっと意外な感じがしました。作品を分析的にお読みの方が多いよう ですねえ。そういう読み方であると外界はつねに個に対して悪意的に何か仕掛けてきて・これを押さえつけようとする存在であるという一面的な見方しかできないと思います。吉之助は個の「憤り・怒り」は村上文学のキーワードであ ると思っています。インタビューで村上氏は「システム」という言葉をよく使うようですが、外界・あるいはシステムは個人と対立するような概念に見えるかも知れませんが、村上文学のなかでは主人公の世界は原則的にひたすら「個」なのです。外界は何かの理由によって個の存在が危うくなりそうな感覚がある時に意識されますが、そうでない時には外界が意識されない・そのような関係なのです。 個の存在が危うくなりそうな感覚が主人公のなかにどういう理由で起こるのかは全然分かりません。それは外界が主人公に能動的に働きかけて起こる場合もありますが、また主人公の内的な変化によって起こる場合もある のです。いずれにせよどちらの場合にも主人公は個の危うさを感じた時に外界の変化を感じざるを得ませんし、時には外界が自分に悪意を以って向かってくるようにさえ感じられるのです。外界の知覚は自分が生み出したものですから、外界の様相は自分の内的なものを映し出す鏡のようなものです。そのようなことを主人公がムニャムニャと考えていることは、当の「外界」自体にとっては思いもよらぬことなのかも知れません。村上文学での個と外界の関係をそのようにとらえたいと思います。エルサレム賞授賞式のスピーチでも村上氏は「システムが私たちをつくったのではなく・私たちがシステムをつくったのです・システムの自己増殖を許してはなりません」と語っています。システムがわれわれにとって適合せぬならば、われわれの思いで以ってシステムを変えれば良いのだというのが、村上氏の言いたいことだと思います。

4)

「歌舞伎素人講釈」では「かぶき的心情」という概念が柱であることはご存知の通りです。かぶき的心情とは個のアイデンティティーの発露なのですが、江戸期のかぶき的心情には社会的な視点はないのです。黙阿弥の「十六夜清心」の清心の「一人殺すも千人殺すも、取られる首はたったひとつ、こいつァめったに死なれぬわえ」の台詞は、チャップリンの「殺人狂時代」での「一人殺せば犯罪者だが千人殺せば英雄だ」という台詞と確かに論理的に同じことを言っていると考えて間違いないですが、心情で読めばこれはまったく 様相が異なってきます。清心の台詞は個の強い思いを発露していますが、その範疇を越えるものではないのです。清心に社会の不実を追求しようという視点はまったくありません。 清心は変りたいとは思っていても、まだどのように変ったら良いかを明確につかんでいません。だから清心が変化しようと思っても、できるのはせいぜい泥棒になることくらいのものです。まあそこに幕末江戸の閉塞状況があったと考えられるでしょう。チャップリンの方はその論理によって大量殺人行為である戦争の非人間性を糾弾しようというものですから、これは 明らかに社会的視点から来るものです。ただしここでは脱線するからこれ以上触れませんが、レッド・パージの問題からチャップリンを論じる場合には個の視点から読んだ方が良いと思いますし・新しい見方が開拓できる可能性があると思います。

かぶき的心情に社会的視点が入り込むのは明治になってからのことで、大正期の二代目左団次の新歌舞伎にはもちろん社会的視点が入ってきます。ただし、芸術作品の場合はもともと個の心情の要素が とても強いものなのですから、外界との関連をあまり対立的にステレオタイプに読み過ぎますと見方がとても偏ったものになってしまいますから注意した方が良いのです。例えば泉鏡花の場合がそうです。このことは別稿「たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む」で取り上げました。鏡花が 同時代と拒否して・社会から意識的に目を背けているということではなく、個の心情があまりに強いために社会の視点が消し飛んでしまうということです。これは別稿「近松心中論」でも触れた通り・ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」 がそうですし、実際に西欧19世紀末期の芸術作品はみなそういうものなのです。本稿ではいちいち取り上げませんが、明治以降の日本文学でも個の心情が強い作品はみなそういうもので、外界との関連をあまり対立的に読まない方が良いのです。これは村上作品も同様であると吉之助は考えますし、むしろ村上作品 のような小説は個の心情で読まないとその本質が見えてこないと思います。

現代に生きている我々は社会的視点を抜きにして芸術作品を見ることはなかなか難しいことではありますが、個人とシステムを対立的に見る読み方は吉之助から見ると60年代冷戦時代のオールド・ファッションの手法でいささか古いように思われます。あの頃よりも現代 の症候はもっと複合的で・しかも潜在的な形で進行しています。このような時代に個の維持はずっとずっと切実な問題になるのです。村上春樹はそのことをとても 繊細なタッチで主張していると思いますし、表面的な材料からはそうは見えないかも知れませんが、実はそれはとても日本的な何ものかであるように思えます。村上春樹が世界で評価されるのにはそれなりの理由があると思います。「システムが私たちをつくったのではなく・私たちがシステムをつくったのです」から、むしろシステムを取り込み・システムのなかから個の心情で以ってシステムを内側から作りかえていく・そ のような個の心情をどこまでも信じたい。そのような見方で村上作品を読みたいものですねえ。

(H21・11・8)

(後記)

別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界・その4」もご覧ください。

海辺のカフカ〈上〉(村上春樹)
海辺のカフカ〈下〉(村上春樹)

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