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廃墟への想い


バベルの塔は、旧約聖書の「創世記」に登場する伝説の建築物です。聖書によれば、もともと人間は同じひとつの言葉を話していたそうで、人間たちは自分たちがひとつであることの印として煉瓦とアスファルトを用いて天まで届く塔を作ろうとしたのです。神はこの塔を見て・言葉が同じことが人間たちの行為の原因であると考えて、人間たちにそれぞれ異なった言葉を話させるようにしました。このため、人間たちは意思疎通ができなくなり、混乱して世界各地へバラバラに散って行きました。この町の名前をバベルと呼ぶのは、この町が世界の言葉を「混乱(バラル)」させたからだと聖書は述べています。

実は旧約聖書には「バベルの塔は壊された」とは記されていません。しかし、何となくバベルの塔は神の怒りにより破壊されたように世間で は信じられています。それはバベルの塔建設の挿話のなかに人間の傲慢さ・神への挑戦という要素を見るからです。バベルの塔は人間の傲慢の象徴です。だからやはりバベルの塔は神の怒りで破壊されねばならなかった・ 人間の驕りは神によって罰せられねばならなかったと、人々はそう感じているので しょう。

左の写真はピーテル・ブリューゲルの「バベルの塔」(1563年)です。

 

 

 

バベルの塔の他にもノアの洪水・アロンの金の子牛とか・ペルシャザールの饗宴とか、人間の傲慢と神の怒りという主題は、旧約聖書にたくさん出てきます。しかし、人間の傲慢さに対する神の裁きと言うのは 旧約聖書に限った感じ方ではありません。自らの美しさを神に誇ったために恐ろしい姿に変えられてしまったギリシア神話のメドゥーサの話など・世界各地の神話にたくさん出てくる話です。

ところで、19世紀になると興味深いことに絵画に廃墟を描いたものが目立って多くなります。本稿ではこのことを考えます。19世紀には例えばギリシアやローマの遺跡を題材にした風景画などが盛んに書かれました。ロマン派芸術は「滅び」という観念に取りつかれたようなところがあります。 クラシック音楽の「レクイエム」で神の怒りによる終末・「怒りの日」をこれでもかこれでもかと激しく劇的に描くのも・これと共通したものです。

下の写真は「廃墟のロベール」という異名で呼ばれたほど廃墟画を書き続けたユベール・ロベールの「廃墟化したグランド・ギャラリーの想像図」(1796年)です。これはもしルーブル美術館のグランド・ギャラリーが廃墟になったら・・・という想像画なのですが、当時大変な話題になったものです。なお、1796年はフランス革命の真っ最中でして、ロベスピエールが処刑されたテルミドール反動(1795年)の翌年になります。 世の中が混乱していて・将来どうなるかがまったく見えない混迷の時代に書かれたものです。新生フランスがどうなるか分からない・周囲の国に潰されるかも知れないという状況では、この光景はあり得ないものではなかったのです。事実、1799年のブリュメールの18日のクーデターでナポレオンが独裁権を得ることになり、フランスは他国との戦争に突っ込んでいきます。

 

 

「廃墟化したグランド・ギャラリーの想像図」の衝撃は例えばあの9・11テロで崩れ落ちるNY貿易センタービルの映像を思い出すと想像ができると思います。あのシーンは吉之助には20世紀文明が崩れ落ちたように感じられました。しかし、現代から見ると・ロベールの廃墟画は古典的な趣きの方が強く感じられます。百科全書を書いたディドロは、ロベールの廃墟画を絶賛して ・次のように書いています。

『廃墟が私のうちに目覚めさせる想念は雄大である。すべてが無に帰し、すべてが滅び、すべてが過ぎ去る。世界だけが残る。時間だけが続く。この世界はなんと古いことか。私はふたつの永遠の間を歩む・・』

産業革命をきっかけにして・急速に変化していく西欧民衆の生活は、合理主義思想の洗礼を受け、「運動」・「速度」といった時代病に取り付かれていきます。19世紀のロマン主義は、啓蒙的な合理主義に対する対抗運動でもありました。彼らは感情の優位を説く主観主義を唱え、非合理な世界に憧れました。ロマン主義の画家たちが好んで題材にしたのが廃墟でした。廃墟は引き裂かれた人間の内面をあらわすもので ・そこに近代人としての自分の姿があると彼らは感じていたのです。どうして当時の画家たちが廃墟を題材として好んで取り上げたのでしょうか。

谷川渥氏は次のように言っています。

『建築物そのものが狂気をはらんでいる。壮麗な建物は、みずからの狂気を耐えているがゆえに、戦慄の美を湛えている。狂気に耐えられなくなった時、建物は崩壊し、爆裂し、炎上し、断片化する。』

ですから、ロベールの絵画を滅びへの願望と見ると間違えます。また、自己破壊願望というのとも違います。ピリピリと張り詰めた神経が・もうちょっとで切れそうな、我慢に我慢をしているものが・もう少しではち切れそうな、そうなってしまったら爆発してしまいそうな予感を孕みつつ、必死で狂気に耐えているという緊張をその絵画は秘めているのです。

ローマ帝国の廃墟が人々に与える感慨もまたそうしたものです。上の写真は、ローマにあるフォロ・ロマーノ。聖なる道からヴェスタ神殿・パラティーノの丘の方向を望む。写真は吉之助の撮影です。
 

(H19・9・3)
 

 

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