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歌舞伎の水彩画のイメージ

*本稿は「19世紀の西欧芸術と江戸芸術」に関連した記事です。


1)プルーストの水彩画のイメージ

プルーストの「失われた時を求めて」の第2巻「花咲く乙女たちのかげに」において、主人公「私(マルセル)」はジルベルトに会うためにシャンゼリゼに出かけます。時代は「私」の少年時代・1880年代のパリに設定されています。別稿「1875年・明治8年・パリ」で触れた通り、当時のパリは薄暗い中世都市から明るい 「光」の近代都市に大変貌を遂げようとするまさに真っ最中でした。

『天気のいい日には私は続けてシャンゼリゼに出かけて行った。通ってゆく表通りの優美なバラ色の屋並みは、軽く浮動する空の大気のなかにひたっていた、と言うのも、水彩画展覧会がたいそう流行した時代であったから。ガブリエルの手になったパレの諸建築が、当時の私の目に、それらと並んだ大きな館よりは美しいようにも、時代が古いようにさえも見えた、と言ったら私は嘘をつくことになるだろう。私は、「パレ・ド・ランドュストリ」はともかくも、少なくとも「パレ・デュ・トロカデロ」に、むしろ様式美を見出していたのだ、そして、この方が時代はもっと古いとさえ信じたであろう。落ち着かない眠りのなかにあった少年期の私は、街全体を一色の夢で包み、そんな街のなかに夢をさまよわせていた、そしてロワイヤル通りに十八世紀の建物があろうとは思ったこともなかった。』(プルースト:「失われた時を求めて〜花咲く乙女たちのかげに」)

失われた時を求めて〈2 第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 1 (ちくま文庫)

プルーストのこの部分は難解なので海野弘氏の著書「プルーストの部屋」(中公文庫)の助けを借りますと、コンコルド広場からシャンゼリゼ通りを経て・凱旋門まではほぼ一直線ですが、その周辺に18世紀から19世紀に掛けてのいろいろな様式の建物が混在して並んでいたのです。コンコルド広場の北側・ロワイヤル街をはさむふたつのパレは今は東側が海軍省・西側がホテル・クリヨンになっているそうですが、どちらも建築家 ジャクサンジュ・ガブリエルによる18世紀様式の建物でした。「パレ・ド・ランドュストリ」は1855年のパリ万国博の時に建てられたもので、ロンドンの水晶宮のイメージの建物だったそうです。(その後取り壊されて・今はグラン・パレになっています。) 「パレ・デュ・トロカデロ」は1878年の万国博の時に出来た半円形の建物で、イスラム風のモスクを模したものであったそうです。(その後取り壊されて今はシャイヨ宮になっています。) 「私」はそのようなパリの町並みを歩いているのです。

プルーストの文章は、いろいろな時代の様式の建物が混在しながら・それらが街の風景のなかで一色に溶け合っていることを水彩画のイメージで語っています。1880年代当時のパリでは水彩画がとても流行っていて、水彩画の展覧会がよく催されたそうです。水彩絵具はいろいろな色が水に溶けあって・淡い微妙な色調が表現できます。水彩画には油絵のような重苦しさがなくて、軽く爽やかなイメージがあります。

「私」は出来たばかりの新しい「パレ・デュ・トロカデロ」に様式美を見出しています。つまりどこか昔から在ったような伝統的な何ものかをそこに 感じているのです。そして、時代的に明らかに古いガブリエルのルイ十五世様式のなかにむしろ感覚的な新しさ・新鮮さを見出しています。当時のパリではルイ十五世様式だけでなくいろいろな様式がリバイバルされて・折衷様式が試されていたようです。 新しい時代の「パレ・デュ・トロカデロ」がどうして古く、古い時代のガブリエルのルイ十五世様式がどうして新しく感じられたのか。これは「私」がまだ少年ですから様式の歴史的知識を持ち合わせていないということでしょうか。そうではなくて・これは 「私」がパリの町並みに様式と時代との関連性を見出していないということです。そこに主人公「私」の感性があるのです。

2)吉之助の水彩画のイメージ

吉之助は歌舞伎も水彩画のイメージであると前からずっと思っています。と言うと・歌舞伎はギラギラ・コテコテのお芝居じゃないのかと思っている方には意外に思われるでしょうが、荒事のような原色系のギラギラした芝居の傍らで・えらく地味で辛気臭い写実の世話物もあるのが歌舞伎なのです。もちろんそのどちらもが歌舞伎です。武智鉄二は・歌舞伎は少なくとも十二の様式によって成り立っている演劇だと言いました。しかし、大事なことはそれらの様式が互いに混じり合わずに・ それぞれの独自性を保ったまま・溶け合わずに様式の集合体を形成しているということではないのです。それらの様式の持つ色合いがひとつに溶け合って・渾然一体となって歌舞伎というひと色を形成しているというのが、吉之助の歌舞伎のイメージです。

吉之助には幕末期の黙阿弥の世話物が感覚的に古く感じられ、むしろ文化文政期の南北の世話物の方が新しい感覚に感じられます。時代が遡った元禄期の近松の世話物は感覚的にもっと新しいものに感じられます。これは吉之助のなかで様式の時代的連関 が喪失しているということが言えると思います。吉之助がそんな風に感じるのは「歌舞伎素人講釈」でも論じている古典性とバロック性の問題も絡んできます。 (別稿「かぶき的心情とバロック」をご参照ください。)現行の歌舞伎座の舞台ではそれら異なった様式の芝居が一緒くたに並べられて上演されていますから、これは「私(マルセル)」が見たシャンゼリゼ通りの印象とあまり変わりないわけです。まあ歌舞伎には一番目・二番目というような大まかな順序はあるのですが、最近の興行の演目立てを見るとそれさえはっきりしなくなってきましたね。ある意味で歌舞伎はますます水彩画のイメージになってきたというわけです。

歌舞伎が水彩画の演劇であることは義太夫狂言を見ればもっと良く分かります。義太夫狂言(丸本歌舞伎)は人形浄瑠璃(丸本)を原作とした歌舞伎作品群です。しかし、歌舞伎ではもちろん丸本そのままを演じているわけではありません。歌舞伎ならではのもの・人形を役者に単に置き変えただけではないものがそこに付け加わっています。吉之助にとってはこれがまさに水彩画の 感覚です。鉛筆でしっかりと描かれた人形浄瑠璃の下絵(デッサン)の上に、水彩絵具で淡く歌舞伎の色彩を施したイメージが吉之助の義太夫狂言の印象です。義太夫狂言では多くの部分ではその彩色は透明な色合いで・人形浄瑠璃の下絵が透けて見えるのですが、 場所によっては水彩絵具が下絵を潰してしまうほどに色が濃くなっている部分もあります。例えば「車引」の見事な荒事化の場面、「五段目」の定九郎の同時代化の場面などです。いわゆる「入れ事」と呼ばれる歌舞伎独自の些細な改変もまた歌舞伎が自らの 存在を主張しようとする試みなのです。

こうしたことは義太夫狂言ならば簡単に理解できると思います。しかし、荒事でも・南北や黙阿弥の世話物でも同じような箇所は随所に見られます。そのなかにいろいろな時代の工夫 ・役者の型が取り込まれて、絵具が何度も重ね塗りされて出来上がった水彩画が現行の歌舞伎の舞台だと言えます。

3)立体性の喪失

プルーストのシャンゼリゼ通りの水彩画のイメージは普通はこの時代のパリの「光・明るさ」の雰囲気において理解されます。それはナポレオン3世の号令によって・「光の都市」に生まれ変わろうとするパリ大改造計画(近代性)と連動していま した。プルーストの文章の場合はそう読んで間違いありません。しかし、吉之助の歌舞伎の水彩画のイメージが・プルーストのシャンゼリゼ通りの水彩のイメージと感覚的にどうして重なるのかは、もう少し説明が必要かも知れません。吉之助は19世紀末西欧で流行したジャポニズムは単なる物珍しさ・エキゾキシズムからのものではなく・「江戸の精神的状況が19世紀の西欧の状況を先取りしていた・だからこそ江戸の芸術が 西欧世紀末芸術にとっての道しるべとなった」ということを「歌舞伎素人講釈」でずっと考えています。

ここで水彩画のもうひとつの一面を考えて見ます。それは平面性(立体性の喪失)ということです。水彩画は油絵と比べると厚み・奥行きがあまりありません。逆に見れば・それが透明な明るさを導き出しているのです。様式の平面性ということは、異なった時代の・さまざまな様式が等価値において並列していると言うことです。それが様式の透明性と互換性を生み出しています。だから様式の折衷が可能になるわけです。

大事なことはこうしたシャンゼリゼ通りの様式の平面性はある日突然に成立したものではなく、約二百年間ほどの時間を掛けた様式の積み重なりの末に初めて得られたものだということです。その時間の積み重なりという事実はプルーストによって1880年代に認識されるまでに二百年間待たねばならなかったということです。同じことが歌舞伎についても言えます。江戸時代においては現在進行形の演劇であった歌舞伎 は明確に(あるいは真剣に)型や様式を意識することはなかったのです。江戸時代には何をやってもそれは歌舞伎でありました。江戸時代にも「型」という用語は確かにありましたが、それは言ってみればその役者の「演技の手順」ということを意味しており・それほど深い意味は持っていなかったのです。歌舞伎が型や様式を真剣に意識するようになるのは、歌舞伎が江戸という土壌を喪失した明治半ば以降のことです。その事実が決定的になったのは明治36年(1903)の九代目団十郎死後のことなのです。(これについては別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎」をご参照ください。)それはそんなに古いことではないのです。こうして見ると、前述の通り・歌舞伎はさまざまな様式の水彩画的な色分けを江戸の昔から半ば無意識的に先取りしてきたのですが、明治になって・型とか様式という概念を得たことで歌舞伎はその平面性 という本質を初めて表面に現したことになります。

そう考えると、プルーストがシャンゼリゼ通りに様式の平面性を見た1880年代(それは日本で言えば明治10年代に当たります)と、歌舞伎の様式の平面性の認識はほぼ同時代的にシンクロした現象だと思えるのです。それは決して偶然のことではないのです。
 

(H19・7・7)
 

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