(TOP)           (戻る)

クローデルの「文楽」


1)三味線の掛け声

ポール・クローデルは二十世紀の重要な劇作家のひとりで、作品としては戯曲「繻子の靴」が有名です。クローデルは優秀な外交官でもあり、大正10年(1921)から昭和2年(1927)にかけて駐日フランス大使を務めました。クローデルは日本滞在中に、五代目福助(五代目歌右衛門の長男・現芝翫の父)の委嘱を受けて舞踊詩劇「女と影」を書き下ろしています。この作品は大正10年(1923)帝国劇場で初演されました。

クローデルは能・文楽・歌舞伎をこよなく愛し、日本に関する数々の美しい文章を収めた随筆集「朝日のなかの黒い鳥」を残しています。「黒い鳥」とはどういう意味かと言うと、クローデルという音が日本語の「クロドリ」に似ていて・何となく古事記の神話に登場する八咫烏(やたがらす)を想像させます。彼はそれがとても気に入っていたそうです。神武天皇が東征の時に熊野から大和に入る吉野の山中で道に迷った時に天の神が道案内としてつかわした3本足の大きな鳥が八咫烏です。

クローデルは大正11年(1922)5月に大阪で初めて文楽を見て以来、文楽をたびたび見たそうです。「朝日のなかの黒い鳥 」にも文楽について書いた文章が納められています。この文章を読むと劇作家としてのクローデルが文楽の本質を見抜いていることに感嘆させられます。日本人には当たり前のようにあって・うっかり見過ごしてしまうところにクローデルの観察眼が注がれています。

『もうひとりの合唱団員(三味線弾き)は、日本式の柄の長いギター、すなわち白い皮の三味線を手にして、時々、象牙の爪を使って、そこからいくつかの音を引き出す。おそらく古代の竪琴とかなり似た音と言っていいだろう。だが、それ以上に、彼は、ひとりだけからなる口を開くことのない合唱団なのだ。彼には言葉を用いる権利はない。ただ、うめき声や感嘆の声など、胸からまっすぐ湧き上ってくる音、私たちの肉体のなかのいくつもの弁や舌からの息とぶつかっておこる、あの動物的な文字のない音に対してしか権限を持たないのだ。彼は問い掛け、満ちたり、不安を抱き、苦しみ、欲望し、怒り、怖がり、考え、唸り、泣き、からかい、罵り、疑い、ほ のめかし、腹を立て、わめき、ちやほやする。彼の役割は、観客をおびき寄せることなのだ。彼はひとりだけですでに、オーやアーをなす観客なのである。彼に足りないのは、ただ、言葉のみなのだ。」(ポール・クローデル:「文楽」〜「朝日のなかの黒い鳥」・1924年)

これはまことに興味深い指摘です。三味線弾きの掛け声については・調子を取るとか・気合いを入れるとか・いろいろな役目が考えられますが、クローデルは三味線弾きを「もうひとりの・言葉を持たない合唱団員」であると観察するのです。

クローデルの文章は吉之助のなかでこれまで形になっていなかったことを気付かせてくれました。義太夫(浄瑠璃)は言葉を主体にした語り物から発した音曲です。だから当然、主体は太夫(語り手)ということになります。三味線は旋律楽器ですから、言葉から発する語り・あるいは唄いに音程あるいは足取り(リズム)と言った一定の律を与えるのが三味線の役目です。しかし、三味線はたんなる伴奏ではないのです。最初に三味線の弦が響くと その弦の震えの引き起こす空気振動から、或る「世界」がそこに現出します。太夫は三味線の生み出すその世界の枠組みに乗って語るのです。

三味線弾きは喋ったり・唄ったりすることは許されませんが、もしかしたら三味線弾きの気持ちのどこかに言葉を出してみたい欲求が渦巻くのかも知れません。その欲求が時折り噴出すのです。それが掛け声なのです。三味線の掛け声は私には音曲の裂け目のように感じられます。浄瑠璃は語り物に発するもので、もともとは神に捧げられた芸能でした。三味線が作り出すその音楽は神を讃えるもので、それゆえ清く整った古典的なもので あることを自然と目指すものです。そこに本当は言葉など要らないのかも知れません。

しかし、その静けさを打ち破ろうとする欲求が弾き手のなかに忽然として湧き上るのです。人間の表現意欲とはそういうものなのです。三味線弾きは言葉を発しようとしてもがき・やっとこさ言葉にならない声を発します。言葉を生み出そうとする「もがき」、それが掛け声です。その掛け声が何かしらの感情が込められたものに聞こえて・聴き手の心を揺さぶるのはそのせいなのです。

例えばヤーコプ・グリムは次のように書いています。

「犬というものは、今なお天地創造の始めに吠えていたのと同じように吠える。」

三味線の掛け声を犬の吠える声に例えるのは恐縮ですが、吉之助の感じる事はまさに音楽が(つまり世界が)まさに生成しようとする時に・音楽が言葉を求めて裂けるのが三味線の掛け声であるということです。三味線弾きはそこに世界が創造した瞬間と同じように唸るのです。静寂が裂けてそこから言葉が生まれ出ようとする直前に三味線の掛け声が発せられるのです。その掛け声はまだ言葉の形を成してはいません。三味線の掛け声を受け取って・まさしく言葉を発するのは太夫の役目です。そうやってその音楽は語り物の音曲・義太夫になるのです。逆に言えばこの三味線の掛け声が先に発せられるおかげで、言葉の生成(太夫の第一声)がどれだけ楽になっていることでありましょうか。もし三味線の掛け声がなければ太夫の第一声はどれほど辛いものになったでありましょうか。

さらにクローデルはこの文章に注を付けていますが、これにも感じ入りました。

『日本文学には、事物のアワレを知る(もののあはれを知る)という表現がある。アワレというのは、あらゆる事物のなかにあってアーを作り出すもののことなのである。』(ポール・クローデル:「文楽」のための注)

本居宣長の言う「もののあはれを知る」とは、「もの」が今そこにそのようにあるということも不思議さと必然を感じて、その「もの」と全身で共鳴することを言います。この天地万物との情、すなわち「あはれ」の情の通い合いのなかからおのずと立ち現われてくる声が「歌」です。この場合の「歌」はもちろん和歌のことを指していますが、概念的には身体の底から湧き出てくる感動の「アー」とか「オー」という声であるとして良いのです。「あはれ」の情から和歌も発しますし・音曲も発するものです。

「アー」とはどのような音でありましょうか。シュタイナーは子供に「A(アー)」の発音を教える時には次のように教えなさいと言っています。

『太陽のことを考えてごらん。太陽が東の空から昇ってくるのを知っているね。太陽が東の空から昇ってくるのを見た時、君たちがどうするかわかるかい。そう、A(アー)と言うのだよ。君たちがそういう時にAh!と言ったとすると、君たちの心の状態はまるで太陽の光が君たちの口から出て行くような感じになっているのだよ。 でもそれは流れっ放しでなく、あるところでちゃんと立ち止まらなければだめだね。そこででてくるのがこの形だよ。』 (ルドルフ・シュタイナー:自由ヴァンドルフ学校創設における連続講義・1919年 8月)

そう言って大文字のAの字を生徒に見せなさいとシュタイナーは言っています。充実したもの、白いもの、明るいもの、明るさや白さに関係あるすべてのもの、さらに賛美や尊敬、これらの感情のニュアンスがA(アー)によって表現されます。同様にO(オー)は驚き、驚嘆の表現として捉えることができます。(別稿「音楽と言葉」・その6:「母音と子音」をご参照ください。) 大事なことは、このような母音の持つ基本的感情というものは人間に普遍の感情で・日本人でも西欧人でも何ら変るものではないことです。

「アワレというのは、あらゆる事物のなかにあってアーを作り出すものである」というクローデルの言葉は実に感動的です。まさに「アー」や「オー」のなかに国境を越えたところの人類共通の感情があるということです。シュタイナーが教えることは、表現は違っていても・日本人の感じるものとまったく同じものなのです。「あはれ」とは心のうちから沸き出でてくる感動であり・その流れを堰き止めて形に成したものが言葉なのです。

『和歌(やまとうた)は人の心を種にして、万(よろず)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に泣く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あまつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女(おとこおんな)のなかをもやはらげ、猛けき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。』

紀貫之による「古今集・仮名序」冒頭であります。クローデルは日本文学に造詣の深い人でしたから、古今集を良く知っていたはずです。クローデルの文章は「あはれ」が日本人だけの感情ではないということも教えてくれるのです。

2)人形の手足

さらにクローデルの「文楽」を読んでいきます。

『操り人形は完全な仮面であって、もはや単なる顔ではなく、手足であり、身体の全体である。(中略)操り人形は人間の演者のように、重力と労力に捕われることなく、どの方向にも同じほど身軽に移動し、重みのない中を白紙の中の図案のように漂う。これは中心部に生を与えられているのであって、頭とともに星状をなす四肢は、操り人形が表現を行なうための要素にほかならない。これは、あらゆる接触を禁じられながらも、口をきき、光を放つ星なのである。日本人はこの操り人形を歩かせようとはしなかった。それは不可能なのだ。(中略)手や足はもはや単に前進したり支えたりする手段ではなく、あらゆる動作や、行動の仕方や精神錯乱など、つまり、私たちの内にある不安や躍動や抵抗や挑戦や疲労や覚醒や、出発したいとか留まりたいとかの願望を表現する道具のすべてであり、力なのだ。見たまえ、諸君によく見えるようにと持ち上げてくれているのだから。あの小さな男を見たまえ。彼はすべてを行なう。見たまえ、この宙に浮かぶ男女を、そして、棒の先端に宿る生面の全体を。私たちの背後にうまく隠れて誰かを存在させることはなんと面白いことであろうか。』(ポール・クローデル:「文楽」〜「朝日のなかの黒い鳥」・1924年)

欧米の人形劇での操り人形は、操り糸あるいは操り棒で手足を遠隔操作されています。何者かに動かされていることが明瞭ですし、「動かされている」ところに人形の本質があると言えます。どんなに精巧に人間の動きを模していようと 操り人形は「動かされている」印象からは逃れられません。

ところが、文楽の人形には動作に力感があります。これは人形遣いが直接手を添えて動かしているのだから当然だと言えますが、その動作に強い「意志」が感じられるのです。つまり、 文楽の人形は自身の意志で動いているように見えるのです。

さらに「文楽の人形は浮かんでいる」とクローデルは指摘をしています。舞台はそのことを観客に対して露わにしないように工夫をしていますが、確かに人形は人形遣いによって持ち上げられ・宙に浮かんでいるようです。胴体を中心に四肢を拡げて自在に演技する星なのです

『中心部に生を与えられているのであって、頭とともに星状をなす四肢は、操り人形が表現を行なうための要素にほかならない。これは、あらゆる接触を禁じられながらも、口をきき、光を放つ星なのである。』

クローデルの文章は「演技」というものの本質を考えさせます。それは四肢(手足)の動きかたちが演技表現の本質だと言うことです。

人形の場合は、目玉や口元が仕掛けで動くものもありますが・基本的にはその表情が動かないわけです。つまり、演技というものは手足で表現するものが根本であって、顔の表情ではないということです。顔の表情を使って感情表現をすることは近代演劇では写実の演技として認められていますが、古典演劇においては表情による演技は過剰な表現として常に戒められてきました。やはり、演技の本質は四肢(手足)の動きにあるということに他なりません。

なぜそうであるのか。シュタイナーは「人間は手足によって完全な存在となる」と言っています。

『人間の外形のなかで何が一番完全なのでしょうか。それは人間の手足です。高等生物の進化のあとを猿のところまでたどっていくと、前肢が後肢からまだそれほど異なっておらず、四足が本質的に、胴体を支えたり・移動したりするために働いていることが分ります。手と足、脚と腕が見事な相違を示すようになるのは、人間の場合が初めてです。(中略)人間は頭を通して自然界の最も完全な存在になっていると教えるのは、子供に傲慢な気持ちを植えつけることになります。子供は本能的に、頭が怠け者であり、肩の上であぐらをかいていて、自分で地上を移動しようと思わず、手足に支えられて生きているということを知っています。人間が頭によって、頭という怠け者によって、完全な人間になっているというのは正しくありません。人間は手足による労働を通して世界と結びついているのです。そしてそのことによって完全な存在になっているのです。』(ルドルフ・シュタイナー:自由ヴァンドルフ学校創設における連続講義・1919年 8月)

人形は宙に浮くことで・四肢は(怠け者であるところの)頭や胴体を支えるという役割から解き放たれ、「手足によって人形は生きる」という本来の意味を明瞭に示して見せるのです。

『日本の操り人形は私たちの腕の先の手に身体と魂がすっぽりと入るというようなものではない。不確かな運命に翻弄されたり、見放されたり、引き戻されたりを交互に繰り返す人間のように、何本かの紐の縁で不安定に揺れ動くこともない。人形 師がすぐ近くから心を通わせて操作するのであり、その上、人形が強く飛び跳ねるところを見ると、まるで、人形師からも 逃れようとしているかのようなのだ。』(ポール・クローデル:「文楽」〜「朝日のなかの黒い鳥」・1924年)

「人形が強く飛び跳ねるとまるで人形師から逃れようとしているかのようだ」というクローデルの表現は実に感動的です。文楽の人形はまさにそのように見えるのです。文楽の人形は、演劇や舞踊などパフォーミングアートの原点が四肢(手足)の動きかたちにあることを思い返させてくれます。

以上はシュタイナーの人智学の思想を借りたクローデルの文章の私的理解でありますが、 クローデルの文章は決して西洋的感性の産物とは思われません。洋の東西を問わない普遍的なものがあると感じます。これは確かに劇作家ならではの観察眼で、文楽の感性の根源的な部分を鋭く見抜いていると吉之助には思われます。

(H18・5・18)

(参考文献)

ポール・クローデル:「天皇国見聞記」(「朝日のなかの黒い鳥」の邦訳本)(新人物往来社)・・舞踊詩劇「女と影」草稿も所収
ルドルフ・シュタイナー:「ルドルフ・シュタイナー教育講座〈1〉/教育の基礎としての一般人間学」(筑摩書房)

(後記)別稿「西洋と東洋との出会い〜クローデルと五代目福助」もご参照ください。
 

 (TOP)         (戻る)