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「三島由紀夫の歌舞伎観」補遺ノート

別稿「三島由紀夫の歌舞伎観ーその共感と嫌悪」において文の流れの都合で割愛せざるを得なかった事項、その後に集めた事項などを順不同にて紹介します。


1)歌舞伎への失望

三島の最後の歌舞伎「椿説弓張月」の上演は、作者自身の思い入れが強かった分、作者に非常な落胆を与えたように思います。対談で石川淳氏が「実に作者というものはお気の毒だと思った。役者なんてものはないですね。脚本を生かすなんてものじゃない、なにかあり合わせの芸ですね。受け止めるというか、こなしているだけでね、芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような。」とこれはまた率直かつ正直な感想を述べていますが、これに対して三島は「おっしゃる通りです。僕は悪戦苦闘しましたが。哀れですね、作者というものは。」と力がない返事をしています。(対談「破裂のために集中する」昭和45年)さらに古林尚氏との最後の対談でも「どうにもならん。僕も手こずってね。自分の演出力を貧困を告白するようなものだが、どうにもなりませんね。」とうめいています。

何がそこまで三島を落胆させたかというと、歌舞伎役者が毎月25日の興業生活のなかでお手軽に芝居を仕上げる「生活の知恵」を身に付けてしまっているからでした。それは芸をパターン化してお手軽に処理していこうというもので練習時間がとれない役者たちのその場しのぎの哀しい知恵でもありますが、逆に言うと脚本がどんなにひどいレベルでもある程度は見せてしまうということでもあるのです。しかしそのような演技に創造的なエネルギーなど見出しようがありません。三島はそうした歌舞伎役者の習性で自分の作品が扱われるのに耐えられなかったかも知れません。それが三島に歌舞伎を見限らせ、「椿説弓張月」を文楽に書き換える決意をさせたと思います。

義太夫の節付けにポテチンという箇所がありますが、ここで役者は決まらなくてはなりません。そこが役者の一番の見せ場になります。そこを三島が何度注意してもポテチンがはずれてしまう、同じ場面を、毎日、同じ役者がやっているのにポテチンの箇所がやるたびに変わってしまう、と三島は不満を述べています。「初め、僕は役者が逃げているのかと思ったんです。だがそうじゃなかった、いい加減なんですよ。歌舞伎俳優がフォルムという形式美を生み出す意欲を完全に失っているんだな。だから役者が古典を 模索しようとしてもダメなんだな」(対談「三島由紀夫・最後の言葉」昭和45年)

この歌舞伎についてのコメントが三島の最後の対談の文字通り「最後の言葉」となってしまったのも、なにやら因縁めいたものに感じられます。

2)三島歌舞伎でのエピソード

三島の歌舞伎「芙蓉露大内実記」は昭和30年11月に歌舞伎座で三島自身の演出により上演されました。この時の舞台稽古の時にちょっとしたトラブルがありました。大内義隆を演じる二代目猿之助(猿翁)が自分の役の仕どころがないと言い出して稽古が中断されてしまったのです。そこで三島は歌舞伎座の狂言作者部屋にこもり、猿之助のための場面を 竹本も科白もすべて書き入れて、一時間もかかからずに台本を作り変えて稽古を再開させたといいます。さすがに三島が「すごい」と思うのは一時間もかからず脚本を手直ししてしまうその筆力と集中力ではないしょうか、これには周囲も驚嘆させられたようです。

こういう役者の我儘は歌舞伎楽屋の世界ではよくあることで座付き狂言作者はよく泣かされるのですが、外部の作家の「芸術作品」にケチをつけたとなればこれは大ゴトだと思います。三島も役を下りられると困るので我慢したのでしょうが、はらわたが煮えくり返る思いではなかったかと想像します。このような出来事がいくつか積み重なって三島は次第に歌舞伎から遠ざかるようになっていったのではないかと思います。

3)玉三郎のこと

三島は国立劇場で自作「椿説弓張月」を演出した時(昭和44年11月)に初めて玉三郎に接し、その才能と素質の素晴らしさに惚れ込んだようです。「その奇蹟の待望の甲斐あって、玉三郎君という、繊細で優婉な、象牙細工のような若女形が生まれた。・・・玉三郎君という美少年の反時代的な魅惑は、その年齢の特権によって、時代の好尚そのものをひっくり返してしまう魔力をそなえているかもしれない。」(「玉三郎君のこと」昭和45年)と三島は書いています。

さすがに三島の慧眼は玉三郎の今日を見通しています。かつて芝翫(後の歌右衛門)に感じたのと同じ驚きを玉三郎に感じると同時に、あるいは三島はそこに再び芽吹いていく歌舞伎の不屈の生命力を感じたかも知れません。

4)作家は死ぬべきか

昭和43年の対談で、その2年前に八代目団蔵が入水自殺したことに触れ、三島は次のようなことを言っています。歌舞伎の名優は自分は死なないで死ぬ演技をします、それで芸術の最高潮に達します。しかし武士社会でなぜ歌舞伎役者が河原乞食だと卑しめられたかと言うと、「あれは本当に死んでないではないか」とそれだけだ、というのです。「芸術というのは全部そういう風に河原乞食で、なんだおまえはお前は大きなことを言ったって死なないではないか、と言われるとペチャンコですよ。」この三島の発言に埴谷雄高氏が「僕は暗示者は死ぬ必要はないと思う。死ぬのでなくて、死を示せばいい。」と言うと、三島は「いや、僕は死ぬ必要があると思う、それは歌舞伎俳優と同じだ。」と反論しています。(対談「デカダンスと死生観」昭和43年)

これについては「葉隠とわたし」(昭和42年)という文章のなかでも三島はこう書いています。「葉隠が罵っている芸能の道に生きているわたしは、自分の行動論理と芸術の相克にしばしば悩まなければならなくなった。文学のなかには、どうしても卑怯なものがひそんでいる、という、ずっと以前から培われた疑惑がおもてに出てきた。・・葉隠の影響が、芸術家としてのわたしの生き方を異常にむずかしくしてしまった。」

その気持ちは分かるけど、生真面目すぎるなぁ・・・という感じがします。三島の言うとおりなら芸術家はみんな死なねばならず、死なない芸術家は偽善者だということになってしまいます。死に場所を求めるような三島の発言はいつ頃から見出されるようになるのでしょうか。しかし昭和40年頃から「死」についての発言が次第に目立ってくるように思われます。この頃から三島は無意識のうちにも自分の作品を完璧に仕上げるために「自死」のきっかけを求めはじめていたようにも思われます。

「理想的な庭とは、終わらない庭、果てしのない庭であると共に、何か不断に遁走していく庭である事が必要であろう。私はここで又、仙洞御所の庭に思い当たる。なぜならその御庭は私の所有でないと同様に,今はどなたの住家でもないからである。もしわれわれが理想的な庭を持とうとすれば、それを終わらない庭、果てしのない庭、しかも不断に遁走する庭、蝶のように飛び去る庭にしようとするならば、われわれにできる最上の事、もっとも賢明な方法は、所有者がある日姿を消してしまうことではないだろうか。庭に飛び去る蝶の特徴を与えようとするならば、所有者がむしろ飛び去る蝶に化身すればよいではないか。生はつかのまであり、庭は永遠になる。そして又、庭はつかのまであり、生は永遠になる。」(「仙洞御所」序文、昭和43年)

三島は本人が意識したのかどうかは別として、結果的には自らの死によって自分の作品を永遠のものにしようとしたということなのかも知れません。生前は奇矯でジャーナリスティックな興味で騒がれることの多かった三島の死はその当時は賛否相半ばする形で騒がれはしましたが、著者の自殺によってその作品にある種の「箔」がついたのは事実ではないでしょうか。人々はその本を読む時に「あの自殺した三島の・・」というイメージから逃れられなくなってしまったのですから。

5)伝承についての考え方

三島はメトーデが存在しないのが日本の伝統であると言っています。日本の芸道で秘伝の巻物というのは、見てみると花とか日輪とか書いてあってそれ自体は意味のないものだ、しかし分かる者にはわかる、分かるためには一生懸命に鍛錬するしかない、と三島は言います。「僕という人間が生きているのは何のためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承するかと言うと、伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。僕が最高度に達した時に何かつかむ。そして僕は死んじゃう。次に現れてくる奴はまだ何にも知らないわけだ。それが訓練し鍛錬し、教わる。教わってもメトーデは教わらないのだから、結局、一所懸命に訓練するほかない。何もメトーデがないところで模索して、最後に死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は歴史全体に見ると結晶体の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。」三島は、能でも武道でも秘伝はこのようにして伝承されていくものだといいます。「それにしても僕は、自分が非常に自由だという観念は、伝統から得るほかないのだよ。僕がどんなことをやってもだよ、どんなに西洋かぶれをして、どんなに破廉恥な行動をしてもだね、結局、おれが死ぬときはだね、最高理念をね、秘伝を誰かから授かって死ぬだろう。」(対談「二十世紀の文学」昭和41年)

これについてはやはり「奔馬」(昭和44年)のあの有名な、主人公飯沼勲が切腹するラストシーン「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇った」を彷彿とさせます。ここでの飯沼勲が見る「日輪」とは三島の言う「秘伝」のことに間違いありません。自らの腹に刀を突き立てた瞬間、三島は何を見たのでしょうか。

6)文楽版「椿説弓張月」

三島が晩年に取り組んだ最後の仕事は歌舞伎「椿説弓張月」を文楽台本に書き直すことでした。書き直しを思い立った動機はよく分かりませんが、歌舞伎を初演した時(昭和44年11月国立劇場)に「やっぱり歌舞伎ではもう駄目だ」と感じたのが原因のように思います。しかしこの仕事は結局、上の巻だけが完成し、中・下の巻については未完に終わっています。

「決起」に向けて身辺整理を見事につけて逝った三島が文楽「椿説弓張月」を未完のままにしたことに不思議な気がしていましたが、雑誌「国文学」(2000年9月号)で、織田絋ニ氏がその経緯を書いておられます。(「文楽版「椿説弓張月」について」)それによれば決起直前の時間がないなかで三島は最後まで文楽版の完成を気に掛けていたことがうかがわれます。作業は、織田氏が文楽台本のための下書き原稿を作り、それに三島が朱筆を入れる形で進められたようです。決起2日前に織田氏は三島に呼び出され、「お前のせいで文楽版の完成ができなかった」ような事を言われて責められたそうです。文中で織田氏はこのことを自ら「痛恨の極み」と書いておられますが、中の巻以降はかなり大胆に書き直ししないとちょっとした手直しでは文楽にはならないと思うし、責める三島の方が間違っているような気がします。

武智鉄二氏が「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」において、文楽版「椿説弓張月」は男性的で簡潔を目指す形で新たな作家三島の可能性を示すものではないか、と推測しています。想像すると、その三島の新たな可能性とは森鴎外のような文章であったのではないかとも思います。しかし結果としてそれは実現しませんでした。武智氏はここで「作家三島の行き詰まり説」を示唆しているようですが、 吉之助も何となくその方に傾きかけております。

 

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