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ジャポニズムとバロック

〜日本における「バロック的なるもの」・その2


1)浮世絵における「バロック的なるもの」

別稿「試論:歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか」において、浮世絵が遠近法を持たず平面的であるかを考えました。江戸期の歌舞伎も・浮世絵も写実追求の過程を途中で遮られ・捻じ曲げられた形で表現の追求が進みます。歌舞伎の舞台が平面的であることも・浮世絵が平面的であることも、そこから起こる現象です。

浮世絵のバロック的な要素というのは、「バロック」が十七世紀頃の西欧美術の特異な現象に過ぎないと考えている限り決して理解ができないと思います。また、十九世紀に浮世絵に代表される「ジャポニズム」がなぜ西欧芸術に衝撃を与えたかも理解ができないと思います。西欧の芸術家たちにとっての浮世絵の表現の新奇さ・奇抜さが彼らを驚かせただけなのでしょうか。そうではないと思います。彼らはそこに未来を・彼らが進むべき指針を感じたのです。なぜならば浮世絵が彼らの「状況」を先取りしていたからです。

左は葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」です。ドビュッシーはこの絵を見て感動して、そのインスピレーションを交響詩「海」(1905年)という曲にしました。それどころかドビュッシーはこの曲の楽譜の初版の表紙にこの絵の写真を使ってさえいます。この曲のイメージと北斎の浮世絵のどこがつながるのでしょうか。ドビュッシーは次のように書いています。

『海の物音。海と空とを隔てる曲線。葉陰をゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてが私たちのうちに多様な印象をもたらします。そして突然、こちらの思いとはおよそ何の係わりもなしに、それらの記憶のひとつが私たちの外に広がり、音楽として聴こえてくるのです。それはおのれのうちに自らの和声を秘めています。』

ドールスは「バロック論」のなかで、『芸術的たると知的たるとを問わずすべてのバロック作品に特徴的なあのダイナミズム、つまり、動きへの本質的な傾き、動きそのものを免罪化し・聖化する傾向であるが、それらは合理主義と古典的なるものすべてに固有の静的で静穏で可逆という特徴に対立する』と述べ、十九世紀のその傾向は、ワーグナーの音楽と印象主義絵画が花開いた「世紀末」に おいてその最も徹底的な表現に達したと書いています。

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

その音楽的時間がほとんど捉えがたいものであり、そこでの持続は入れ替わり立ち代わりほとんど間断なくやってきて、それが解体され・消えて行ったかと思えば・また戻る。それがまさにワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の無限旋律と和声です。ドビュッシーの音楽もまたその影響を強く受けています。絶え間ない浪の動きが抽象的と言えるほどにデフォルメされており、しかもこれほど動的で写実なものはないほど見事な絵画的表現が北斎の浮世絵に見られます。これこそまさに「バロック的」な表現ではないでしょうか。この北斎の絵とドビュッシーの音楽との類似性をイメージしてみて下さい。

さらに西欧芸術は「すべては相対的である」・「善も悪も存在しない」・「美も醜も存在しない」・「罪というものはない」・・・というように価値観の解体された病的な状況に直面していくのですが、それさえもバロック的な要素を孕んでいるのです。そのような西欧芸術の行く末を指し示したのが「ジャポニズム」です。なぜならば江戸の「精神的状況」は十九世紀の西欧の状況を先取りしていたからです。

左の写真はマネの「笛を吹く少年」(1866年)です。写真スタジオのようで・人物の背景に何も描き込まれていません。影がほとんどなくて・立体感に欠けています。この絵は発表当時は大変に不評だったそうで、トランプか民衆版画のようだとこき下ろされたそうです。しかし、エミール・ゾラが敢然と弁護に立ちます。

「絵具は平面として置かれている。浮世絵と比べるべきだ。その異国風の優雅さと素晴らしい色面はマネの絵にそっくりだ。」

2)視点の多角化・相対化

バロックの特徴のひとつはその過剰さを余すことなく表現するための「視点の多角化・相対化」です。

下の絵はバロック絵画の巨匠ルーベンスの「サテュロスに驚くダイアナとニンフたち」(1936〜40年)です。その題材はギリシア神話の古典的とも言えるものであり・どこがバロック的なのかと思うかも知れませんが、各人物の瞬間の動きが捉えられていて・構成が実にドラマティックです。しかも、よくよく見ればその視点は多角化されており・一定座標の視点は存在しないのです。部分はそれぞれに独立した視点とドラマを持っており・絵巻物のような構図になっています。このルーベンスの絵はある一瞬に存在した場面を切り取ったようにも見えますが、よく見れば複数に存在する各人物の動きのそれぞれの最高の場面を組み合わせたようにも見ることができます。つまり、うがってみれば実に不自然なのです。

下の三枚・四枚と横並びに組 み合わせる続絵(つづきえ)の浮世絵を見ると、ルーベンスの絵との不思議な類似性を感じないでしょうか。どちらにも「視点の多角化」があるのです。左は鳥居清長の筆による「橋の下舟遊び(部分)」です。これも複数の絵(場面)が組み合わさることによってひとつの絵を構成する、これもまた「バロック的」なもの だと言えます。

 

左は菱川師宣の見返り美人図です。この女性の仕草が身体のぞれぞれの部分が視点の多角化で捉えられ・最上の視点で決められています。言い方を変えれば、ひとりの女性の身体が複数の視点で分解され・ひとつの絵に再構成されていると言うことです。つまり、実は非常に不自然な・作為的なポーズなのです。

このような単一の対象の各部分にまで視点を相対化させていく手法、西欧においては 立体画法やキュービズムに発展していきます。そのヒントは浮世絵が与えたものなのです。

右はピカソの「肘をつくマリー・テレーズ」(1939年)です。「眼より上の頭部」を右斜めから、「顎と肘をついた右手」を左斜めから、「左肩から首にかけて」を側面から観察し、かなり強い変形と歪曲が加えられています。これも浮世絵と同じ「視点の多角化」の発想から来るもの だと言えましょう。

 

 

 

 

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