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「ふたつの魂」

〜「バロック」という概念・その2

*本稿はメルマガ148号「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎・その1」の関連記事です。


『月が昇る。何と言う荘厳な景色でしょう。/そして、三日月が太陽を抱いています。/太陽と月を婚せたのは、いったい誰でしょう。/この謎をどうお解きになりますか。』(ゲーテ:恋愛詩「ズライカの巻」〜「西東詩集」)

1)ふたつの魂

ドールスは「バロック精神」について、そこに矛盾した複数の感情が同居していると指摘しています。ゲーテが「ファウスト」のなかで語っている有名な台詞「ああ、私のなかにはふたつの魂が住んでいる」、それがバロック精神です。

『いくつかの相矛盾する糸があるひとつの動作に結集された場合、そこから生まれる様式は常にバロックのカテゴリーに属する。バロック精神とは、通俗的な表現で分かりやすく言えば、自分が何をしたいのか分からないのである。賛成と反対とを同時に望んでいるのだ。重力によって下降すると同時に飛翔したいと望んでいるのだ。バロック精神は、腕を挙げながら手をおろそうとする。私はサラマンカのある協会のなかのひとつの礼拝堂の鉄格子を飾っている小さな天使像を思い出す。バロック精神は螺旋を描き遠ざかり近づく・・・バロック精神は、矛盾の原理の要求を嘲笑するのだ。』(エウヘーリー・ドールス:「女性の敗北と勝利」・「バロック論」に所収・美術出版社)

*エウヘーリー・ドールス:バロック論

ドールスの「バロック論」は様式論ではなく、それはまさに「心情論」なのです。心情から発したものが様式(フォルム)として固まるだけのことで、したがってその現れ方は多種多様です。ここでは表現形式としての様式の概念は溶解し、様式はその心情の強さによって測られなければならなくなります。

20世紀前半のスペインの美術史家エウヘーリー・ドールスはまったく別の観点から、芸術の表現意欲をふたつの座標から分析しました。その座標のひとつを「古典性:重く沈むフォルム」、もうひとつを「バロック性:飛翔するフォルム」とします。そしてドールスは「バロック性」は17・18世紀の西欧美術にだけ現れる特異な様式ではなく、実は歴史において繰り返し現れる歴史的常数であると指摘しています。たとえばアレクサンドリアで花開いたヘレニズム文化、あるいは19世紀に見られた・いわゆる「世紀末美術」にもバロック性が見えるとしました。

すなわち、ドールスの理論(「歌舞伎素人講釈」の理論も同様ですが)においては、すべての表現様式は溶解して・それは古典性がより強いかバロック性がより強いかによって測られるのです。

アレクサンダー大王の東征によって・オリエント文化とギリシア文明が融合したのがヘレニズム文化です。そうしたヘレニズムのなかのバロック精神を象徴的に示している と思われる作品が左の写真の石像です。ギリシア神話において男性の美を体現するヘルメス神と・女性の美を体現するアフロデュテ神を合体させた「ヘルマフロデュテ像」(アレクサンドリア出土)です。男性・女性の両方の美を合わせ持つ・新しい神さまです。一般的な感覚ではこれは古典的な作品と見えるでしょう。しかし、見方を変えれば、この新神は男性と女性という本来合体することのない・矛盾した性質のなかで引き裂かれているのです。「いくつかの相矛盾する糸があるひとつの動作に結集された場合、そこから生まれる様式は常にバロックのカテゴリーに属する」 というバロック的本質がここに確かに現れています。

2)ロマン派から世紀末芸術へ

本稿では18世紀から19世紀にかけての西欧の・いわゆる「ロマン派芸術〜世紀末芸術」を 中心に考えていきます。一般的には「バロック」に対立する概念は「ロマン的」であると見られる傾向がありますが、ドールスはこれを否定して、「ロマン派は歴史的乗数たるバロックの一エピソードに過ぎない」と言っています。

バロック美術の過剰さ・猥雑さに比べて、ロマン派美術は確かに一見すれば感性豊かで健康な感じがします。しかし、西欧の合理主義が豊かに花開いた時代、その一方で近代社会のスピードは次第に速まり・人々はこれまでとは違う世界感覚を持つことを迫られていきます。そのような歪みが次第に人々の心を蝕んでいくのです。世界観・社会観は急速に身体感覚から離れて・リアル(写実)なものとは実感されなくなって・ヴァーチャル(仮想現実的)な感覚になっていくのです。(現代はそれがもっともっと深刻な状況であることは言うまでもありません。)

ロマン派芸術の行き着いたところが、いわゆる「世紀末芸術」です。一般的にはロマン派芸術のフォルムが爛熟して・行き詰まり・腐敗し・崩れていったのが世紀末芸術だと見られています。しかし、実はそうではないのかも知れません。ロマン派芸術の本質に潜んでいたバロック性が露わに顔を出したのが世紀末芸術であると考えることができるかも知れません。そこには状況に引き裂かれた魂の姿が露わに見えているのです。これこそがバロック精神です。

そう考えれば、18世紀のロマン派芸術の最盛期にもバロック性は明確に見られます。ともあれ、この時期の絵画・音楽の題材は文学との密接な関連を抜きにして考えられません。左の写真はフランスの画家アリー・シェフレールの油絵「レノーレ、死者の足並みは速い」(1830年頃)です。題材は、ドイツの詩人 ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーのバラード「レノーレ」(1773年)から採っています。ビュルガーは今はあまり知られていませんが、このバラードは当時熱狂的な評判を呼んで・音楽や絵画の題材として盛んに取り上げられました。

レノーレの婚約者ウィルヘルムは、戦争に従軍してそのまま消息を絶ってしまいます。レノーレは辛い思いで彼の帰郷を待ちわびていますが、ある夜に不意にウィルヘムが彼女の前に姿を現します。ウィルヘルムは今からすぐ結婚しようと言って、彼女を馬に乗せて月の照る夜道を彼の城への疾走していきます。しかし、着いたところは墓場でした。ウィルヘルムの身体は崩れ、砂時計と大鎌を持った骸骨になってしまいます。呆然とするレノーレの周りで月明かりのなかで亡霊たちが歌います。

『我慢、我慢!心が張り裂けても!/天の神様に逆らっても無駄!/お前は肉体から解き放たれた、/神様のお恵みがあるように!』

死んだ兵士が亡霊になって恋人のもとに戻ってくるという話はドイツの中世民謡詩集「少年の魔法の角笛」など中世の昔からヨーロッパにはよくある話です。それらがこの時代に大受けしたのは、この時代がフランス革命前夜で・この先どうなるか分からないという社会不安があったからと言われています。この詩がユニークなのは、レノーレを乗せた馬が月夜の道を疾走する場面に「トラップ、トラップ」とか「ラップ、ラップ」というような擬声語を多用することで、不気味な リズムが無機的な躍動感を与えていることです。人々はそこに迫り来る時代の不気味な足音をリアルに聞いたわけです。シェフレールの絵は・ほとんど単色に近い雰囲気を漂わせ、背景に渦巻く空気の流れがただならぬ状況のなかに突っ込んでいくこの世の不気味さをよく描いています。

次の写真はジャン・ダニャン=ブヴレの油絵「ワルプルギスの夜のグレートヒェン」(1910年)です。グレートヒェンは言うまでもなくゲーテの詩劇「ファウスト」のヒロインです。清純な娘グレートヒェンはファウストに誘惑されて子を宿します。しかし、彼女の愛は報われず、グレートヒェンはやむなく生まれた子供を殺してしまうのです。その昔から嬰児殺しは大罪で・見せしめのために火あぶりなどの極刑に処せられたものでしたが、それは愚かな女の所業として・女の責任だけ追及されて、男の方の罪は問われることはありませんでした。つまり、嬰児殺しの女は社会にひそむ矛盾や不条理を一身に背負わされた存在なのです。社会の矛盾は弱い存在に向けられやすいものです。19世紀の文学作品が女性の一生を主題にしたものが多いのは、ヒロインを待ち受ける様々な社会的試練が・そのまま自分たちを待ち受ける社会的状況と重なっていたからでした。

ゲーテは嬰児殺しの女はいわば社会的矛盾を背負って生贄になって死んでいくという風に考えて、最後にグレートヒェンを天に昇らせて・ファウストを迎えいれる立場にします。そして、ゲーテは「永遠に女性的なるものが我々を導いていく」という認識に達します。しかし、大事なのはグレートヒェンはみずから意識してファウストのために生贄に立ったわけではないので、彼女はむしろ無自覚・無知・愚かなのであって、「だからこそ 存在自体が尊い」とゲーテが見ていることです。

そういう意味ではゲーテの思想は人々に十分に理解されたとは言えません。グレートヒェンは絵画でも純真無垢な生贄という・いわば聖女マリア的イメージで描かれている場合が多いようです。このブヴレの絵も その点では例外ではないようです。しかし、背景の無限の虚空がすべての感情を虚無にしてしまう絶対の孤独と絶望を描き、その裂け目のなかにすべてが吸い込まれていくような感じがしてきます。

「ファウスト」はその規模が大きすぎて、これを音楽化するのは至難とされました。ゲーテ自身は「これをオペラ化できる音楽家はいないよ。モーツアルトがオペラ化すべきだったのだ」と語っているくらいです。それでもベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」 ・シューマンの「ゲーテの「ファウスト」からの情景」・ワーグナーの「ファウスト序曲」などいくつかの優れた関連作品が生まれています。

3)ワーグナーの「未来の音楽」

この時期の最大のオペラ作曲家がリヒャルト・ワーグナーであるのは言うまでもありません。ドールスは「バロック論」のなかで、『芸術的たると知的たるとを問わずすべてのバロック作品に特徴的なあのダイナミズム、つまり、動きへの本質的な傾き、動きそのものを免罪化し・聖化する傾向であるが、それらは合理主義と古典的なるものすべてに固有の静的で静穏で可逆という特徴に対立する』と述べ、十九世紀のその傾向はワーグナの音楽と印象主義絵画が花開いた「世紀末」に おいてその最も徹底的な表現に達したと書いています。

*左の写真はターナーの油絵「吹雪」(1984年)。雪の舞う動的な光景を抽象的な印象にまで高めると同時に、みずからに襲い掛かってくる恐ろしい何ものかを感じないでしょうか。

 

 

その音楽的時間がほとんど捉えがたく、旋律のもたらす高揚感は入れ替わり立ち代わりほとんど間断なくやってきて、リズムは解体され・消えて行ったかと思えば・また戻る。これが まさにワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の無限旋律とトリスタン和声です。ワーグナーはそうした自身の音楽を「未来の芸術」と呼びました。ワーグナーの音楽が同時代の芸術家たちに与えた影響は計り知れません。

*左はビアズレーの「ヴィーナスとタンホイザー」扉絵。ワーグナーの歌劇「タンホイザー」は中世ドイツの説話を題材にしたものです。エリザベートへの純粋な精神的な愛と・ヴィーナスとの官能的な愛欲に引き裂かれるタンホイザーの姿は、そのまま近代人の精神を表しているのです。
 

(H17・4・7)



 

(参考文献)

エウヘーリー・ドールス:「バロック論」(美術出版社)
喜多尾道冬:「ムーサの出会うところ」(音楽之友社)

 

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