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獅子物舞踊のはじまり


鹿はみなれていましたが、六番目がにはかにをりんと上げて歌いました。「ぎんがぎがの/すすぎの底(そご)でそつこりと/ぐうめばぢの/愛(え)どしおえどし。」鹿はそれからみんな、みぢかくのやうにいてはねあがり、はげしくはげしく回りました。(中略)嘉十はもうまつたく自分と鹿との違いをれて、「ホウ、やれ、やれい。」とびながらススキのかげからしました。鹿は驚いて一度竿のやうにちあがり、それからはやてにかれたのやうに、からだをめにしてしました。のススキのを分け、かゞやく夕陽れを乱してはるかにはるかにげてき、その通ったあとのススキはかな水脈のやうにいつまでもギラギラつてりました。そこで嘉十はちよつとにがひをしながら、のついてのあいた手拭をひろつて自分もまた西きはじめたのです。それから、さうさう、野原夕陽で、私はこの話をすきとほつたからいたのです。』(宮沢賢治:「鹿踊りのはじまり」)

鹿踊りのはじまり (日本の童話名作選)

1)鹿踊りのこと

歌舞伎舞踊の「獅子物」が謡曲「石橋」を取り込んだものであることはご存知かと思います。中国にある清涼山には何千丈もの深い谷があって、そこに石橋が掛かっている所があるのだそうです。ある僧がそこを訪れると、童子がどこからともなく現れ、その石橋の由来を語ります。しかし、やがて童子はその正体を現して、獅子の狂いを見せるのでした。 このことから「獅子物」を「石橋物」とも呼ぶこともあります。

「石橋」を最初に舞踊に取り込んだのは享保19年江戸中村座で大当りをとった名女形・初代瀬川菊之丞の「風流相生獅子」であると言われています。どんな踊りだったのかはよく分かっていません。菊之丞は娘姿で手獅子か何かを使って前シテを踊り、後シテは花笠をかぶって牡丹の枝を持って優雅に踊ったのではないかと思われます。「相生獅子」はその後の「枕獅子」・「執着獅子」に発展していって、それ以来「獅子物」は「道成寺物」と並んで女形舞踊の重要なレパートリーとなっていきます。

後年の「春興鏡獅子」(明治26年・九代目団十郎初演)では後シテの狂いは長い手を派手に振り回して・いかにも「勇壮」な感じがしますが、現存する古い獅子物である「英執着獅子」とか「枕獅子」などを見ると、後シテは裾を引いた女形姿で・どこまでも優雅な狂いです。六代目歌右衛門の「枕獅子」の舞台を思い出します。もちろん前シテの素晴らしさは言うまでもありませんが、後シテはたおやか過ぎて何となく「頼りない」感じでした。しかし、古い獅子物舞踊での後シテの獅子はこんなものだったのです。それは初期の所作事はもともと女形が専売としたものであったからです。

ところで獅子というのは想像上の動物で、中国の清涼山に棲むありがたい霊獣です。しかし、獅子舞の獅子頭と言えば、目を大きく見開いて・口を開けて相手を威嚇するような・武骨で・いかつい風貌です。それと優雅な女形の舞いとはどうにもイメージが結びつきません。武骨でいかつい獅子と・優美でやさしい女形が、どこでどうして結びついて「獅子物」舞踊になっていくのでしょうか。

獅子と女形がどうして結びつくのか。この問題はからんだ糸を解きほぐすようなもので学術的にその流れを検証することは容易ではないようです。そこで、本稿は、そのことを敢えて考えてみようという「試論」であります。

正倉院御物のなかには獅子頭が現存しています。ですから中国から日本へ「獅子」が伝来したのはかなり古い時代であったと思われますが、実は日本にも古来からの「シシ」が おりました。古代の大和言葉では「シシ」は鹿あるいは猪のことを指したのです。後にはカノシシ、イノシシと呼んで区別しましたが、どちらも昔は同じシシでした。

鹿(しし)踊りというのが全国各地に伝わっているのをご存知でしょうか。鹿踊りは東北地方に特に多く残っており、本稿冒頭に掲げた宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」は、この鹿踊りが大好きだった賢治がインスピレーションを得て作った童話です。それは大きな角のついた鹿の頭をいただく人たちが踊る 民俗芸能で、六頭あるいは八頭の鹿が踊るというようなものです。例えばこれを賢治が見たかどうかは分かりませんけれど、岩手県江刺市の「餅田鹿踊り」では猟師である夫の放った鉄砲の玉が鹿に当たらないようにと ・自ら楯になって死んだ妻の墓の前で八頭の鹿が柳の枝をくわえて回っていたという・その姿を見て感動した夫が鹿の皮を着て供養のために踊ったという伝説が伝わっているそうです。

宮城県栗原郡に伝わる「八つ鹿踊り」は八頭の鹿の角をつけた踊り手が前につけた太鼓を打ちながら踊るものです。この踊りですが、姿が見えなくなってしまった妻の雌鹿を夫の雄鹿が狂ったように探し回り ・やっと見つけて嬉しさのあまり唇を寄せ合って踊るというものだそうです。

古代日本の人々は牡鹿が牝鹿を呼ぶために鳴く声に哀愁の響きを聞いて、それで古くから鹿の鳴き声は妻問い・あるいは妻恋いの声であるとしてきました。それで万葉集には鹿を詠んだものが多いのです。『山彦の/相響(とよ)むまで /妻恋ひに/鹿鳴く山辺に/ひとりのみして』(意味:妻を恋い慕って鳴く鹿の声が山彦となって遠くまで響いている。こんなときに、ひとりぼっちというのは、寂しいものだなあ。)これは大伴家持が26歳の時の歌で、役人として遠地に単身赴任した家持が奈良に残してきた妻を想って詠んだものです。

鹿という動物は優しい目をしていて女性的なイメージです。この日本古来の「鹿(しし)」のイメージが、「獅子(しし)」のイメージと重なっているのです。獅子が女形の演し物として結びつくのは、この素地あってのことだと思われます。

獅子物には「石橋」の系統に属さない・いわゆる「お神楽」系統の獅子物もあります。例えば「越後獅子」・「鞍馬獅子」・「勢獅子」といったものです。これらは「石橋」の流れではない・もうひとつの獅子物の精神的な源流を示しています。

一方、「石橋」の獅子物舞踊は直接的に「鹿(しし)=女性=獅子(しし)」の発想から来るように思われます。だから、女形の芸である所作事の題材に獅子が取り入れられるということになる のです。

2)獅子の狂い

しかし、「鹿(しし)=女性=獅子(しし)」の発想だけでは謡曲「石橋」が女形舞踊と結びつく理由として・まだ何かが足らないようです。「石橋」が歌舞伎の「獅子物」にどうして取り入れられたのか、そのキーワードは「狂い」にあります。

「狂い」とは何でありましょうか。謡曲「石橋」での獅子の狂いというのは一種の「 神懸かり」状態です。それは正体のない・常態を失った一種の法悦状態を呈することを言い、巫女が神として神託を行なう時には巫女はこうした精神状態になっているものです。そういう状態の巫女に神が降りてきて憑いてご神託をもたらすと人々は考えたのです。このように神懸かりはもともと神事なのですが、これが芸能化して 後代には「物狂い」となりました。「もの」が憑いて狂うのが「物狂い」ということですが、時代を下るにしたがって「もの」は神より低いもの・例えば鬼とか狐などの類が憑くものと考えられるようになって、ついには病的な精神錯乱状態が「物狂い」であるとされるようになりました。 (別稿「隅田川の精神」をご参照ください。)

謡曲では狂女物というのが大きなジャンルになっています。狂女物ではワキに「おん狂い候へ」と注文されてシテが「くるふ」ものがあります。謡曲においては「くるふ」というのはひとつの芸能用語で、舞いぶりを示す言葉でもあるのです。

「くるふ」という語はこれを語源「くる」を同じくする「くるめく」という語を並列して考えると、スピード早く回転すること、つまり「まひ」の動作を早くしたのが「くるふ」ということの原義であると考えられます。つまり、くるくりと旋回してみせるのが「くるひ」を表現する手法となっているわけです。「獅子物」において後シテが長い毛を振り回す動作のイメージはここから来るわけです。

さらに吉之助の想像は発展します。もし女性が「狂い」を表現するとしたら、それはどんな感情でしょうか。もちろんそれは恋心に違いありません。恋しい殿御を想う気持ち・その身を焦がすような感情が女性を「狂わせる」。それは女形が舞台で表現する感情に最もふさわしい題材ではないでしょうか。

歌舞伎舞踊では「獅子物」よりも若干起源が古くて、やはり謡曲から発するものがあります。それは「道成寺物」です。「道成寺物」は「獅子物」と並んで歌舞伎舞踊の双璧をなすものです。「道成寺」は安珍という若い僧に恋焦れて追い回し・ついには蛇体になって鐘に巻きついて焼き殺してしまうという妄執の恋の物語です。強烈な印象を残すその物語は女形の表現意欲をそそるに十分なものでした。

初代菊之丞は「傾城道成寺」と「百千鳥道成寺」を踊りました。(これは後に初代富十郎が踊った「京鹿子娘道成寺」の先祖になります。)「百千鳥道成寺」は、浄瑠璃御前と牛若丸の祝言の場で情婦のお六(菊之丞)が嫉妬を起こして、ふたりの後をつけて道成寺の所作になるというものであったそうです。じつは「執着獅子」の文句の大部分はこの「百千鳥道成寺」から取ったものなのです。例えば、

「時しも今は牡丹の花の咲くや乱れて、散るわ散りくるわ。散りかかるようでおいとしうて寝られぬ。花見て戻ろ花見て戻ろ。花にはうさも打ち忘れ。人目忍べば恨みはせまじ。為に沈みし恋の淵。心がらなる身の憂さを、やんれそれはえ。誠うやつらや。思い廻せば昔なり。牡丹に戯れ獅子の曲。げに石橋の有様は、笙歌の花ふり、簫笛琴箜篌、夕日の雲に聞ゆべき、目前の奇特あらたなり」

の歌詞はもともとは「百千鳥道成寺」に発し、後に「執着獅子」の歌詞にそのまま取り入れられました。このように長唄初期の作品である「娘道成寺」と「執着獅子」は、今日ではまったく別系統の作品のように思われていますが、じつはその起源をひとつにしているのです。その昔は道成寺の所作事で獅子の狂いを見せる趣向があったのです。

そのことからも分かるように、歌舞伎舞踊の「獅子物」は「道成寺物」から枝分かれしたもので、女性の身を焼かれるような狂おしい恋心のイメージが獅子の狂いのイメージ と重ねられて・謡曲「石橋」の枠組みを借りて女形舞踊として独立したものと推察できます。

以上の考察から、「鹿(しし)=女性=獅子(しし)」、「道成寺の妄執=狂い=石橋の獅子の狂い」というふたつの連想プロセスが複合して女形舞踊としての「獅子物 (石橋物)」を成立させていることが 想像できましょう。一見結びつかないと思いますが、あの長い毛を振り回す獅子の狂いが優美な女形の演し物となるのはそういうわけなのです。

3)真女形の「鏡獅子」

ところで 「獅子」は想像上の動物ですが、時代を下るにしたがって「獅子」というとライオンのイメージが強くなっていきます。桃山時代の狩野探幽の「獅子図」などもライオンの感じに近いようですが、歌舞伎の「獅子物」でも同じようなことが言えます。時代が下るにつれ歌舞伎の獅子物はライオンの勇壮なイメージに近くなっていくようです。

「連獅子」(文久元年・作詞河竹黙阿弥)は百獣の王獅子は千尋の谷に我が子を突き落とし・這い上がった子を我が跡継ぎとするという話から来ていますが、ここには明らかにライオンのイメージが混入しているようです。この間狂言は「宗論」ですが、登場するふたりの僧は獅子の声が聞こえると「恐やの恐やの」と退散してしまいます。わざわざ清涼山に来ているのだから・獅子が現れれば「有難い」のが本来であろうかと思いますが、これもライオンのイメージなのです。

「春興鏡獅子」(明治26年・作詞福地桜痴)は、九代目団十郎が娘(二代目市川翠扇)が「枕獅子」を練習しているのを見て思いつき・傾城を御小姓に変えて「鏡獅子」を仕立てたものと言われています。団十郎は立役でありますから、優美な小姓が一転して・後シテで勇壮な獅子に姿を変えて豪快に毛を振り回す・そのイメージの変化がこの作品の「売り」なわけです。この後シテにもライオンのイメージが混入しているようです。市川翠扇の思い出話によれば、九代目団十郎はこう語ったそうです。

『お前の稽古を見てふっと思いついたので、早速福地(桜痴)さんに相談して、傾城を御守殿に作り変え・筋のないものに筋を付けてまったく生まれ変わったのであるが、自分の考えでは女が獅子の精に変わる・いわば白から黒に変わるような変化に最も興味を覚えたのであって、それには傾城の必要はない。(中略)どこまでも女らしい・しとやかさを持った・言い換えれば、しとやかさそのものであるという概念を持つ御守殿の小姓を選べば、そうした変化はより以上に認めらるるものであろうと考えたのに始まった。』(二代目市川翠扇:「「鏡獅子」・「演芸画報」・昭和5年10月 号から断続的に掲載)

それ以来、「鏡獅子」と言えば六代目菊五郎や十七代目勘三郎・当代勘九郎のような立役がどちらかと言えば踊ることが多い舞踊になっています。立役の方が後シテが映えるのです。もちろん七代目梅幸も見事な舞台を見せましたが ・梅幸は立役も勤めた人ではありますし、「鏡獅子」といえば「真女形の舞踊」という感じがあまりしてきません。

しかし、「鏡獅子」本来の作意とは違うと思いますが、やはり真女形の後シテの狂いのイメージにもちょっぴり未練が残るのです。女形の獅子物舞踊の系譜からすれば、そういう「鏡獅子」があってもいいのではないでしょうか。

例えば六代目歌右衛門と言えば・これは 確かに「枕獅子」の人でしたけれど、その「鏡獅子」の舞台(歌右衛門は昭和26年から昭和31年にかけて6回ほど「鏡獅子」を踊っています)は是非見たかったという気がいたします。 歌右衛門の前シテはもちろん素晴らしかったでしょうが・後シテはどう考えても勇壮豪快ではなかっただろうと思います。どことなく「頼りない」・優美な後シテではなかったかと思います。しかし、後シテの狂いに女性のくるおしい恋心を見せてくれたのではないか・そこに大和ごころのシシ(鹿)のイメージを見せてくれたのではないかと 吉之助は想像するのですが。

(H16・3・28)

名作歌舞伎全集 第19巻 舞踊劇集 1 (19)

(付記)

写真館「獅子物舞踊の系譜」もご参考にしてください。

 

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