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試論:「なぜ歌舞伎の舞台は平面的なのか」


『「六十三歳になって初めて鳥や魚や草や木の真の形と性質が分かり出した」と北斎は書きました。同じことをロダンも感じていましたし、たいそう長生きしたレオナルドについても考えられます。彼らは、いつもその芸術のなかに生き、ひとつのものの周りにほかの物のすべてを集め、成長させたのです。けれど、自分の神聖な仕事場にめったに来ない人は、どうして不安にならずにいられましょう。そこを離れては、自分に逆らう生活にいつも捕らえられ、あらゆる障害にぶつかってとまどうばかりでしょうから。だから、私は仕事を、仕事場を見出そうといらだち、あせるのです。生活はそれが仕事となった時に初めて芸術となることができるのですから。』(ライナー・マリア・リルケ:「ルー・アンドレアス・サロメへの手紙」)

1)平面的な舞台

歌舞伎の舞台は平面的で立体感がないということは別稿「かぶき者たちの心象風景」において少し触れました。タッパが低く・奥行きのない装置・そして陰影を出さない照明、いずれもが舞台面から立体感を消してしまうことを意図しているように思われます。

もちろん江戸時代の劇場が木造建築であったことも原因ではありましょう。また、劇場の構造については幕府の規制が入っていました。しかし、ご承知の通り、廻り舞台や花道などの舞台構造は歌舞伎が発明したもので・西洋の劇場にはないものでした。花道は額縁様式・つまり観客と舞台との間を幕で仕切ってしまう劇場空間を破壊するもので、西洋演劇のそれまでの固定観念からすると革新的なものだったと思います。廻り舞台はスピーディーな舞台転換を可能にし、芝居の進行中に舞台転換を行なうような映画的な演出も可能にさせました。西洋演劇の観点ならば、歌舞伎の舞台は江戸幕府の規制から解き放たれた時に「もっと高く・もっと奥行きを深く」という方向を志向してもおかしくなかったように思われます。

しかし、明治になっても歌舞伎の舞台はこの立体感のない構造を守りつづけたのです。このことはいろいろな角度から照明を当てて影を消してしまう舞台照明についても言えます。あの歌舞伎の照明方法は何もしてないように思うかも知れませんが、しかし、あれはなかなか高度な技術を要するものだそうです。それは電気照明だからこそ初めて成り立つものなのです。江戸の昔の蝋燭による照明であのように影が消せたとは思えません。だとすれば明治後期に電気照明が取り入れられて歌舞伎の平面的な舞台は最終的な完成を見たということになります 。

それは歌舞伎は本質的にその舞台に立体性や奥行きを求めない演劇であったということなのではないでしょうか。そういう演劇になってしまったということなのかも知れません。それは何故なのでしょうか。

この問題を考えるには浮世絵を考えてみるのがいいかも知れません。浮世絵には中国からの鳥瞰図法を取り入れたものも・オランダからの透視図法の影響を受けたものもありますけれど、浮世絵はついに独自の遠近法を持つことはありませんでした。平面的だというのは、日本画の特徴であると言っていいものです。これは歌舞伎の舞台にも共通 した印象です。

*左は18世紀後半の菱川師宣の見返り美人図

なぜ浮世絵が平面的なのかを考える前に、絵画において「立体的」であるということはどういう意味があるのかをまず考えてみる必要があります。江戸において洋画の画法を学んだ代表的な絵師として司馬江漢がいます。彼はもともと鈴木春重と名乗った浮世絵師でした。その江漢が次のように言っています。

 

 

『西洋画の方法は色彩の濃淡をもって、陰陽凸凹遠近深浅を表すものでその「真情」を描写した。・・・和漢の画法では「真」を描くことはできない。その理由は丸いものを描くのに輪を描いて弾丸の形とする。中心のうず高いところを表現することができない。正面の像を描くとしても、鼻の中心の高いところを描くことができない。』(司馬江漢:「西洋画談」・寛政11年)

江漢は西洋画の色彩の濃淡・遠近法は立体を「真」に描くものであると言っています。「真(まこと)」とはそのまま・見たまま・在るがままということです。つまり写実ということです。逆に言えば、写実であろうとすれば、その絵は立体的であろうとする・必然的に色彩の濃淡と遠近法が必要になるということなのです。江漢にとっては絵画が写実であるということは立体的だと言うことであり、また、絵画が立体的であるということは写実であると言うことなのです。そこに江漢は西洋画の技法の優位性を見ているわけです。

*上の写真は司馬江漢:富嶽図(寛永元年筆)

「写実」という言葉は「歌舞伎素人講釈」でも演技論においてしばしば使ってきました。では「写実」であるとはどういうことなのだろうか・見たものをそっくりそのまま写せばそれが本当に「写実」であり「真」なのであろうかということが更なる疑問として湧いてきます。そのためには、 個人が外界(社会共同体・そしてこの世のなかの様々な現象)に対してどう対してきたかを考えてみなければなりません。

2)原始人と古典人

原始時代の人間は、死者の魂が存在すると信じているのと同時に、この世には動物の精・木の精・水の精などが存在すると考えていました。彼らはそのような魑魅魍魎が動き回る世界に住んでいると感じていたのです。原始人の作り出す装飾品というのは、現代の我々が考えているような美術的見地から作られたものではありません。それは悪霊から自分たちを守ってくれることを目的とした魔術的な意図があるのです。その装飾は抽象的であり無表情です。また平面的であり直線的なのです。

ウイルヘルム・ヴォリンガーはその著書「ゴシック形式の諸問題」のなかで、原始人はその芸術的意欲にしたがって反自然を目指すと書いています。ヴォリンガーによれば、自然というのはすべて曲線で出来ていて・立体的かつ具象的である。それに対抗するかのように原始人の造形物は平面的で直線的で抽象的である。だからそれに宿る精霊は自然の悪霊から彼らを守ってくれるというのです。

*左の写真は悪霊を防ぐトーテム像

ヴォリンガーの指摘は非常に示唆的なのですが、しかし、吉之助はちょっと違うことを考えます。原始人の装飾が無表情であるのは、彼らの作り出した装飾に宿る精霊が勝手に動き回るのを恐れるからなのです。原始人は、精霊を・精霊の魂をその抽象と無表情のなかに封じ込めます。そうしていれば精霊は勝手に動き回らず・悪さをせず・何も語らず、しかし、常にその造形物のなかに精霊は確かに在 って・彼らを守ってくれるのです。マックス・ピカートは次のように書いています。

『形象は人間の心のなかに言葉以前の存在への追憶を呼び起こす。形象が人間をあれほどまでに強く勘当させるのは、そのために他ならない。形象は人間の内部に、あの言葉以前の憧憬を呼び起こすのである。しかし、形象の前に。立って、その憧憬のために彼の本質をーそして人間の本質とは言葉なのだー放棄しようとするならば人間とは審美的なものによって損なわれる恐れがある。そして形象の美は、その危険性を高めるのである。』(マックス・ピカート:「沈黙の世界」)

またヴォリンガーは、原始人にとって超越者を認識することは恐怖であり苦痛であるので・原始人は超越者の認識を拒絶すると書いています。これも 吉之助は違うことを考えます。原始人は超越者の認識を拒絶するのではなく、超越者があまりに彼らの想像を越えた存在なので・その姿をどう思い描いていいかが分からないのです。超越者を思い描くことは、それがどんな形をしていたと しても・彼の世界観を示すものです。彼がもし自分と外界との関係をしっかりと把握し・この世の有様を想像することができるようになるならば、彼は必ず超越者の姿を しっかりと描くことができるでしょう。

ところで、 ヴォリンガーは「原始人」と対立する概念として「古典人」という概念を設定しています。古典人にはギリシア人を想定するのが適当です。古典人が原始人と異なる点は、古典人が自ら進んで超越者の姿を描こうとすることにあります。古代ギリシアの神々の像のなかでも最も賞賛されてきたのは、フィディアスが製作したゼウス像でありましょう。それはエジプトのピラミッドなどと並んで世界の七不思議とまで言われたのです。これについてローマの弁論家クリュソストモスがその感動をこう記しています。

『人間のうちに誰にしても、その生涯に多くの悲しみ・苦しみを経験し、甘い眠りにつくこともできず、精神が完全に打ちひしがれている人でも、もしこの神像の前に立つならば、彼の人生の耐え難いことをすべて忘却してしまうであろう。』(クリュソストモス:「弁論集」)

ギリシアの神々は神像としてそこに存在し、何も語りはしません。しかし、そこに在ることでこの世界の完全なことを人々に啓示します。そこで人は、自分が何者であるか・生とは何であるのかを 自然に悟るのです。そこには人間の世界認識の最高の ・もっとも幸福な状態が存在します。だからこそ、古代ギリシア人は長くヨーロッパ人の理想像であるとされているのです。

『沈黙がこれらの彫像のなかに堰き止められて、そして白い彫像のうえに漂う光輝となったのだ。彼らの沈黙は神秘に満ちている。彼らはあたかも人間が彼らの前に立っている間だけ沈黙しているかのようである。そして彼らだけになるや否や、語り始めるのである。彼らは神々に向かって語るのだ。そして、人間たちに向かっては沈黙するのである。』(マックス・ピカート:「沈黙の世界」)

*写真上はミロのビーナス(紀元前200年頃)

ギリシアの神々は多少の例外もありますが、概ね美しく健康的な男女の人間の姿をしています。彼らはまったく人間そのものです。間違いもするし、喧嘩もします。道徳的にも褒められたものでありません。 こうした擬人化された神々の姿がどうして生まれるのかというと、それが一番想像し易い姿であったということに他なりません。古代ギリシアの哲学者クセノパセスは、もし動物に手があって筆を持たせれば・馬は馬に似せて・牛は牛に似せて自分たちの神を描くだろうと言っています。ギルバート・マリーは次のように書いています。

『風や河を擬人的な神としていった過程は、その大部分が特に活発に想像を駆使した結果ではない。それはそうしなかった結果なのである。風は明らかに生きている。どんな愚かな人間でもそれを目にすることができる。それは生きているから吹くのである。どのようにしてか。もとより当然、あなたも私も吹くようにである。それは事物を打ち倒し、叫び踊り、囁き語る。そして、もし私たちが想像力を大いに用いようと怒らず、科学的人間のように事実何が怒っているかを実験しようと試みないならば、私たちは当然、風はこれらのことを平常の仕方で、つまり私たちの知っている唯ひとつの仕方でするのだと見る。』(ギルバート・マリー:「ギリシア宗教発展の五段階」)

古代ギリシア人は精神的に満ち足りて・安定していて、その日常生活の実感がそのまま世界の認識と直結しています。人がそう感じることが世界観と合致していて・その世界観が正しいことが感覚的に実感されているのです。人類史上実に稀有な・しかし最も幸福な精神状態がそこに見られます。

これらのことから、人間の外界認識と・その精神状態における関係をまとめて見ますと、次のようなことが考えられるでしょう。個人の精神状況が満たされている時・日常生活の実感はそのまま世界の認識に直結するのです・そして生活はそっくりそのまま(写実のまま)で「真 (まこと)」になるのです。写実であること がそのまま芸術になると実感されるのです。古代ギリシア人の生活は、だからこそ西欧人にとっての永遠の理想であると見なされてきました。(注:ここで大事なのは、古代ギリシア人自身は まだ「写実」という理念を意識して いるわけではないということです。「写実」の理念はルネッサンス期において初めて意識されるのです。)

*上の写真は古代メソポタミア(紀元前2000年頃)の飛牛像:「ラマス」と呼ばれる・人間の頭を持ち 、翼(つばさ)のついた雄牛(おうし)かライオンの姿をした神像です。下の写真は、古代エジプト(紀元前1400年頃):ネブケドの死者の書:

逆に言えば次のようにも言えます。個人の精神状況が満たされず安住の地が見出せない時には・写実そのままでは決して「真(まこと)」にはならないのです。写実であることが芸術の基本的な態度であるとは 決して言えななくなるのです。例えば古代オリエントの神々の神像をご覧ください。その姿は人間そのままではありません。その表情は豊かではなく人工的で・どこか抽象的で無表情です。その姿は、どこかに原始人の持っていた・あの超越者への畏れや恐怖を引きずっています。それは古代オリエントの都市国家における 個人と集団との緊張した関係・さらに自然的条件との関連から起こるものです。

このような精神分析は各民族の生活する自然的条件・さらに政治的条件などを分析すればある程度のパターンは見出せます。大事なことは芸術において「写実」であるということは個人の精神的な安定と密接な関係があるということです。

3)写実と反写実

西洋画の遠近法・つまり透視図法が生まれたのはイタリアのルネッサンス期のことですが、このことも民衆の精神的安定から説明ができます。ルネッサンスというのは、古代ギリシア精神の復興を目指した芸術運動でした。 この時代においては世界を自分の感覚において生き生きと捉えて、その姿その感情をそっくりそのまま描くことが理想とされました。 この時に初めて「写実」という理念が登場するのです。その芸術的精神が科学的手法と結びついた時に絵画における遠近法が生まれるのです。遠近法というのは司馬江漢が書いていたように「真」を描写するための写実の技法なのです。 レオナルド・ダヴィンチは次のように書いています。

『経験は決して誤らない。ただ諸君の判断が、我々の経験のなかに原因を有しないような結果を自分勝手に判断して誤ったのである。何となれば、ひとつの端緒が考えられれば、それから引き続いて生じることは障害をこうむらない限り、必然的にこういう端緒の正しい結果である。だがもし何らかの障害を伴うとしたら、前述の端緒から生まれるべき結果は、その障害がかの端緒より強力であるか否かにしたがって、その端緒からより多く・あるいはより少なく干渉を受ける。』(レオナルド・ダヴィンチの手記)

左写真は、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描「聖アンナと聖母子」・1498年頃

ここには合理的科学思考に裏付けられた自己への信頼が見られます。写実の理念も・遠近法の技法も対象を観察する画家の視点への信頼から生まれたものです。

なぜ「写実」の理念が理想とされたのかを検証しておきましょう。それはひとつには、「神の創り給うた世界の完全なことを証明するためのもの」でした。このことは、西洋科学のひとつの到達点であったアイザック・ニュートンを見れば分かります。ニュートン力学・例えば万有引力の法則により太陽の周りを一定の周期を以って惑星が公転する・そのことに、ニュートンは神の意志の完全なことを見ているのです。実は ニュートンの惑星の公転 の理論についてはひとつだけ欠陥があるのです。そのことにニュートン自身も気が付いていました。惑星が公転するためには誰かが惑星を最初に力を込めて宇宙空間に投げ出さなければ、そうしなければニュートンの法則は始まらないのです。 その「最初の衝撃」こそは神が与え給うたものだとニュートンは信じていました。

ある時期においては、まるで写真のように精密な写生画が理想的な絵画とされました。音楽も文学 においても、人間の生活感情の襞を細やかに描写すること・生活のなかにこそ芸術があるとする・すなわち写実が芸術の基本的態度であるとされました。(注:本稿は、ヨーロッパにおける科学的精神も「写実」の理念も、 もちろんキリスト教的精神の背景を持っているのですが、そこから直接的に引き出される理念ではないという立場に立っています。それよりも自己と外界との認識と精神安定の状況に重きを置こうとする立場です。このことはもう少し紙数を費やす必要があるかも知れませんが、本稿においては概略にとどめます。)

このように芸術が写実を理想とするのも長くは続きませんでした。西欧においては「我思うゆえに我在り」としたデカルト的合理主義的世界の体系が崩壊した 時に・あるいは社会における個人の自由の問題がより深刻化してきた時から、芸術の世界では「写実」と「反写実」との葛藤がずっと続いているのです。反写実とは抽象化・様式化・平面化・直線化・無表情・無機化その他すべて一切の写実ではないものを指します。それは、現代の世に住む我々がその生活のなかに安住の地が見出せないところから生じます。その時に再び我々はかつての原始人と似たような精神状況になるのです。その時には我々はこの世における超越者の認識をはっきりとした意志で拒絶することになります。

「安住し得ない境地においては、たとえ彼がどのように感じ、どのように行動しようとしても、またその状況がどんな意味を持っていても、彼の行動はその動機・意図・結果をむし取られ、状況はその意味を奪われる。』(R・D・レイン:「自己と他者」)

このような西欧芸術における「写実」と「反写実」の葛藤を念頭に置いたうえで、日本において・なぜ歌舞伎の舞台は平面的なのか・なぜ浮世絵は平面的なのか、を考えていきたいと思います。

東洋のアミ二ズム的宗教は一般的に多神教と呼ばれていますが、古代オリエントの多神教とはちょっと異なるということを知っておかねばなりません。東洋の宗教は、豊かな風土自然とも関連してか・精霊信仰的な要素も残しつつ、明確な超越者の姿を描かないのです。例えば仏教は神の観念を用いず、ダルマすなわち永遠の法を想定するのです。仏教は多神教的な形態をとりながら、じつはダルマという法の下に統一された曼荼羅的な世界観を持ちます。その点において、古代ギリシアと同じく安定的な精神状況を生み出す条件が日本には昔からあったと言うべきでしょう。このことは岡倉天心らが天平 文化を理想としていたのとも重なります。天心は、日本の奈良の天平の世を西欧の古代ギリシア時代に比すべき時代と考えていました。

このような環境において、ゆるやかに進行していた個人の外界認識が大きく変化してくるのは「中世期」・すなわち鎌倉時代から室町時代です。中世期は日本史ではあまり面白くない時代とされていますが、民衆 ・個人という存在を視点に置いた時には実は非常に重要な時代なのです。この時代の個人の主張は「バサラ」とか「風狂」であるとか・あるいは後においては「かぶき(傾き)」と呼ばれました。そこには写実への欲求がふつふつとたぎっているのです。演劇で言えば、このころから神のための芸能から人間のための芸能に次第に変化していくのです。田楽・猿楽から能・狂言へと、表現は人間の感情を描く方向に緩やかに写実の方向へ変化していくのです。 絵画で言えば、マルローが激賞した「平重盛像」の写実・雪舟の水墨画の写実をご覧下さい。

*左上は文亀元年(1501)頃に描かれたとされる雪舟晩年の傑作「天橋立図」(部分)。

別稿「女形の哀しみ」において、初期の「かぶき踊り」の本質は「写実」であったということを考えました。そして、その写実の理想の実現のために最も必要であったのは女優の起用であっただろうということを考えました。江戸幕府は芸能が民衆に与える影響を熟知していました。個人の主張・かぶき者の横行 が封建制度の崩壊につながることを最も恐れたのです。そして芸能から写実の手段を奪い去ることが、芸能支配の有効な手段であると幕府は考えたのです。その代表的な例が、女優の禁止であり・当世の事件をそのまま実名で劇化してはならぬという規制でありました。そして、もちろん鎖国政策も決定的な要因のひとつであります。それでも歌舞伎は写実の意志は曲げなかったのですが、しかし、これにより歌舞伎は本来は意図しない方向へ変質せねばならなかったのです。そのひとつの現象が歌舞伎の平面的な舞台構造にも表れているように 吉之助は思うのです。

ここで大事なことは、江戸時代の民衆は「個の存在」を既に知ってしまったということです。芸能においては「写実」の理念をすでに知ってしまったということです。いったん染まってしまった思想 ・観念からは人は逃れることはできません。彼らには「個を奪われた・写実を奪われた」という思いが常にどこかに残ることになります。この時に「写実」と「反写実」の葛藤が江戸時代において起こることになります。

*左は東洲斎写楽の「二世大谷鬼次の奴江戸兵衛」(寛政6年・1794)

それは西欧での合理主義的世界観の崩壊とはまた違った形で、江戸の民衆に降りかかるのです。ここが大事なところです。西欧の場合は芸能においては写実の道を突き詰めて、 それが豊かな実を結び、しかしやがてそれが行き詰まったところで写実が次第に崩壊していくという過程をとりました。音楽で言えば、形式重視の古典学派から描写的なロマン派へ変化して、やがて和声調性が崩れていくという過程を示します。絵画ならば豊かな自然主義の絵画が、やがて抽象的な記号のような絵画に変化していきます。こうした変化は写実を突き詰めたところが発展形として崩れていくから その意義があるのです。しかし、日本の場合はそうではなくて、写実追求の過程を途中で遮られ・捻じ曲げられた形で表現の追求が進むのです。そのことが表現を不思議な形に固定化させたのです。歌舞伎の舞台が平面的であることも・浮世絵が平面的であることも、そこから起こる現象なのです。

ゲーテは次のように語っています。

『「芸術家が、」とゲーテは続けた。「忠実かつ敬虔に、自然をその隅々まで模倣しなけれなばらないことは、もちろんだよ。動物を描くにしても、その骨格、脚や筋肉の状態を勝手気ままに変えて、本来の特徴をそこなうようなことは、絶対に許されないことだ。なぜなら、それはとりもなおさず自然を破壊することだからだ。けれども、一段と高い域に達した芸術家は、一枚の絵を本当の絵にする方法を心得ているから、もっと自由に描くことができる。こうなれば、ルーベンスがこの風景画において二重の光を使っているように、虚構の世界へ足を踏み入れても構わないのだ。芸術家は、自然に対して二通りの関係を持っている。つまり、自然に対して、主人であると同時に奴隷なのだ。理解してもらうために、現実的手法を頼りに仕事をしなければならないから、彼は奴隷だ。だが、この現実的手法を、一段と高い意図の下に従属させて駆使している限りにおいては主人なのだよ。」』(エッカーマン:「ゲーテとの対話」・1827年4月18日)

4)視点の相対化

このことは浮世絵から考えてみた方がより分かりやすいでしょう。美術評論家・高階秀爾氏が著書「日本美術を見る目・東と西の出会い」において、浮世絵の特徴として「画家の視点の移動」を挙げておられます。

高階氏によれば、西欧的な統一感ある空間構成というのは、ある一定の視点・つまりは画家自身の視点からすべてを捉えようとする視覚的世界像に他ならないというのです。近くにあるものは大きくはっきり見え・遠くにあるものは小さく霞んで見えるからそのように描くということですが、そのような構成が成立するためには、画家の視点の位置が不変であるという前提がなくてはなりません。

『ところが洛中洛外図のような細部描写を寄せ集めた画面では、そのような一定不変の視点というものは存在しない。町全体は高い雲の上から見下ろされているが、個々の人物や情景はそれぞれすぐそばで、その場に立ち会っているように描き出される。画家はここで京都の町中を自由自在に歩きまわって、その場その場で眼にしたものを、着物の柄まではっきり見えるほどの至近距離から描いているのである。』(高階秀爾:「日本美術を見る目・東と西の出会い」・岩波書店)

左の写真は洛中洛外図屏風の左部分です。これは16世紀後半の狩野永徳の筆によるもの。高階氏は視点移動において「洛中洛外図」の説明をしていますが、 吉之助はこれを「視点の相対化」という観点から考えてみたいと思います。

例えば幼稚園児に楽しかった運動会の思い出を描いてごらんと言って紙とクレヨンを渡してみてください。子供は画用紙一杯に運動場のトラックを描きます。そしてかけっこをしている子供たちを書く。また、お遊戯をしている子供たちを書く。外では先生の号令で応援合戦をしている子供たち。声援する親たちの姿。お昼の休息の両親とのお弁当の場面も書いておかねばなりません。多分子供の絵には時間も視点もバラバラなものが画面にいっぱい一緒くたに盛り込まれているでしょう。 これはそれでいいのです。そういう場面がある一時に同時に存在したかどうかなんて子供には全然関係ありません。子供は楽しかった運動会の思い出を全部画用紙のなかに盛り込みたいのです。

こういう絵を描くのはじつは日本人の子供だけのことではありません。外国の子供だって同じなのです。子供の絵というのはいつだってどこだって色彩や構図や時間軸の制約がなくて、発想が自由でハッとさせられるものです。しかし、学校の教育のなかで正しい「絵の描き方」なるパターンを押し付けられて、子供たちの絵はだんだんお定まりの詰まらないものになっていきます。遠近法であるとか・ 輪郭の捉え方とか・色彩構図の配置とか、そういう技術を学ぶのが「進歩」であると言うならば、彼らの絵はたぶん「うまくなった」ということなのでしょう。しかし、本当は彼らは「絵はこうあるべき」みたいな固定観念に縛られてしまっているのです。(注: しかし、これを堕落だと言って一概に決め付けられないのは芸術には様式が必要だからです。「絵はこうあるべき」というのはいわば様式の裏づけとなる観念です。すべての人がプロの絵描きになるわけではないのですから、こういう教育を受けてなおかつ自分の個性を発揮できる人がホントのプロになれるということでありましょう。)

大事なことは、遠近法とか絵画の技法に染まっていない子供の絵の視点は「すべての対象にまっすぐに対しており相対的である・そこには位置も時間もない」ということです。子供は頭のなかに思い浮かぶ・楽しかった運動会の思い出のシーンがどれも等しく大事なので、それを無心に画用紙に並べて描いているだけなのです。そこに子供の「真 (まこと)」があると言ってもいいのです。

ご注意いただきたいですが、吉之助は「洛中洛外図」が子供の絵だと言っているのではありません。子供が無心に描く絵と・プロが意識して様式において描くものが同列に論じられるわけはありません。しかし、プロの画家が彼の「真 (まこと)」として描いたものが子供の絵と同じように見えるとするならば、彼は「一定不変の視点」を意識して捨てていると言うことができるのです。そこには位置の座標も時間の座標もありません。しかし、京都の町を上から見下ろす視点は確かにあるのです。その視点は嘗め回すように市中を巡って、絵全体に一定の調和をもたらしています。つまり、統一をもたらしている観念は確かにあるということなのです。

浮世絵も後期になって三枚・四枚と横並びに組み合わせる続絵(つづきえ)になりますと、視点の相対化はい っそう顕著です。

*上下の二枚の浮世絵はどちらも鳥居清長の筆による三枚続きのワイド画面による浮世絵です。上は「橋の下舟遊び(部分)」・下は「飛鳥山の花見(部分)」。

それぞれの絵は独自に人物が最上のポーズで決まっていて、それぞれの視点で細密に描かれています。もちろん一定座標の視点などは存在しません。また、個々の人物の動きの時間関係もじつは一定ではありません。しかし、組み合わさった複数の絵は一定の調和をなしているのです。

視点がそれぞれの対象に等分に当たり・その観察が対象の細部に等分に及ぶならば、その対象は視点においてすべて同じ距離なのであって遠近は存在しないことになります。だから、その絵から 必然的に立体感は喪失することになります。これが浮世絵における「真(まこと)」(=写実)であるということになります。むしろ立体感は浮世絵の「真(まこと)」の邪魔になるのです。

このことを心理面から分析してみます。このことは、「一定の視点」に対する明確な信頼というものが欠けていることを示しています。つまりは、そのような「個の明確な主張」を意識的に避けているとも思われます。つまり、そこに個を主張することへの不安や・警戒・疑いがほの見えるのです。江戸の浮世絵師たちは自分たちの写実の視点に自ら様式の枠をはめて、そして安心するのです。

またまた ご注意いただきたいのですが、子供の絵の視点が相対的であるのは全く逆でして、子供はこれから自我を確立していく過程にあるのですから「視点の相対化」は子供が積極的に外界を捉えようとしている結果だと考えられます。しかし、自我の意識がすでに確立されている江戸の世の・プロの浮世絵師の絵を見る場合はそう ではないのです。江戸の浮世絵師の理念の中には「写実」の概念がすでにあるのです。彼らは「写実」を志向しているのだけれども、そっくりそのままでは自分のなかにある「真(まこと)」が描けないと感じるのです。そっくりそのままでは何かが違うと感じるのです。何かが彼らを束縛しているのです。そ うした状況に彼らが対峙した時に対象はどこか歪んで見えるのです。そっくりそのままには決して見えてこないのです。この時に「視点の相対化」が始まるのです。

ここでヴォリンガーの言った「原始人」に似通った精神状況が現出します。江戸の浮世絵師たちは、この世の「真(まこと)」を描こうとして、写実と様式の狭間で苦しんでいます。それは江戸という時代精神のある状態を示していると言えます。「歌舞伎素人講釈」では別稿「かぶき者たちの心象風景」において、この状態を「精神の監獄状態」と書きました。個人の自己実現を満足させない・安住できない世界、そのなかで見える世界は歪むのです。これこそが浮世絵が平面的であること・そして歌舞伎の舞台が平面的であることの原因です。

こういう見方は「江戸」という時代の否定的な断面を見ていると言えるかも知れません。しかし、これは徳川幕府の暗黒政治を糾弾するものとは必ずしも言えません。実はいつの時代にも ・どの社会にも程度の差こそあれこのような状態は存在するものなのです。現代もまた違った意味で「精神の監獄状態」であると言えるのではないでしょうか。

西欧において、浮世絵などの日本の美術がもてはやされて「ジャポニズム」という一大社会現象が起きたのはご承知の通りです。それは何故なのでしょうか。

ジャポニズムという社会現象は世紀末という・西欧文明の行き詰まった時代状況と切り離せません。ドビュッシーは北斎の浮世絵「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」(左の写真)を見て感動して、そのインスピレーションを交響詩「海」という曲にしました。しかし、ドビュッシーの音符がきらめくような管弦楽法はモネやスーラといった印象派の画家たちの絵(彼らの絵もまた平明的で立体性を喪失しています)に似た感じではあっても、輪郭線のはっきりした北斎の絵とは直接的には結びつきません。ゴッホは浮世絵を愛し、日本を訪れることを切望していました。ゴッホは ジメジメした日本の風土とは似ても似つかない南仏プロヴァンスの地にあって「僕は日本に来たような気がする」とまだ見ぬ日本への憧れを弟テオへの手紙に書いています。それでは一体、彼らの愛した「日本」とは何 ものであったのでしょうか。

それは合理的世界観の行き詰まり・膨張した経済と帝国主義のなかで個人が巻き込まれていく閉塞感やこれからの時代はどうなっていくのかという不安・いらだちなどが渾然一体となって、この時代の 西欧の芸術家たちを押し潰そうとしていたからなのです。その時に日本の浮世絵が彼らの進むべき表現の啓示になったのです。なぜならば浮世絵が彼ら が対峙している閉塞した時代精神を先取りしていたからです。

5)立体性のない演劇

別稿「立体性のない演劇」において、ドナルド・キーン氏の興味深い指摘を紹介しました。

「(江戸時代の文学は)私に言わせると立体性がないのです。つまり、徳兵衛と治兵衛と忠兵衛、この区別がなかなかつかない。だいたい同じように二枚目で、周囲の事情は違っていたのですけれども、だいたい同じようなことをした。しかし、シェークスピアはもちろん特殊な例ですけれども、ハムレットとマクベスとキング・リアが区別できないということは想像できないでしょう。考えてみると、徳川時代の典型的な美術は浮世絵だったのですね。その浮世絵には立体性がない。たしかに非常に美しい。構図も素晴らしい。色彩も素晴らしい。春信の浮世絵だったら、私はどれを見ても素晴らしいと思います。しかし、春信の浮世絵を十枚ほど見て、この人物はこういう人格であっただろう。この人は非常に悩みが深いに違いないとか、絶対に想像できないでしょう。ただ曲線の美しさや色彩に感激するだけです。そういう点では江戸文学には普遍性がなかったと言えます。」(ドナルド・キーン/司馬遼太郎:対談「日本人と日本文化」・中公文庫)

*上の写真は、鈴木春信の「縁先物語」・18世紀後半

なぜ歌舞伎の舞台が平面的であり・なぜ立体性を志向しないかという問題は、浮世絵は平面的であるのとの事情とまったく同じであることが何となくお分かりいただけたかと思います。それは江戸のかぶき者たちが置かれた精神状況と関連しているのです。

このことは、歌舞伎の描くものが、現代でも・あるいは現代においてこそより切実なものになっていくであろうことを想像させます。それは、社会のなかにあって・個人はどうやって その存在意義を貫いていったらよいのか・あるいはそのなかで社会の大義と個人の心情をどう合致させていけばよいのかという問題に直接的に係わるのです。「かぶき的心情」を考えることは、現代の我々の生き方を考えることでもあるかも知れません。

(H15・9・28)

(付記)

歌舞伎の雑談「歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか・の補説」もご覧下さい。

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