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様式的に写実する

平成21年2月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」〜大川端庚申塚の場

坂東玉三郎(お嬢吉三)、市川染五郎(お坊吉三)、尾上松緑(和尚吉三)


1)

「三人吉三」のようなお芝居は本来は通し上演でやるべきもので・「大川端」だけの見取り上演は好ましいことと思いませんが、それだけ現代の観客には「三人吉三」の因果のドラマが実感として受け入れにくい・通し上演であると特におとせと十三郎の件が暗くてやり切れないということなのでしょう。「大川端」の場だけなら三人の吉三郎のアウトローの魅力でレビュー感覚で楽しめるということかと思います。まあそれも分からぬことはありませんが、それならば「大川端」は吉之助としてはお嬢吉三の名台詞「月も朧に白魚の・・・」をどう際立たせるかということを指標に置いて舞台を見たいものです。ベルトルト・ブレヒトは「三文オペラへの註」のなかで、ソングについてこう書いています。

『歌を歌うことで、俳優はひとつの機能転換を行なう。俳優が普通の会話から無意識のうちに歌に移っていったような振りを見せるほどいやらしいことはない。普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの平面は、いつもはっきりと分離されねばならない。高められた会話が普通の会話のたかまりであったりしては決していけないのだ。』(ブレヒト:「三文オペラへの註」〜ソングを歌うことについて)

ブレヒト:三文オペラ (岩波文庫)

「普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの要素をはっきりと分離しなければならない」ということをブレヒトは言っていますが、これは芝居とミュージカル(あるいはオペラ)との中間である「三文オペラ」においては・どっち付かずという印象を観客に与えてはならぬということです。 写実の台詞・様式のソングの亀裂を観客に突きつけることで、それぞれの特質を際立たせるのです。同じことがお嬢吉三のツラネ「月も朧に白魚の・・・」にも言えます。「大川端」だけの見取り上演ならばなおさらのことです。そのツラネは状況から切り離された詩として語られなければならぬと思います。それは間違いなく台詞ではありますが、ドラマの機能としてはブレヒトのソングに実によく似ています。

お嬢のツラネ「月も朧に白魚の・・・」には静かに流れる隅田川の 川面にユラユラと揺れる月の光の揺らめきが感じられます。お嬢吉三はその直前におとせから百両の金を奪い・彼女を川に突き落とし、さらに刀(庚申丸)を振り上げて・周囲の人を追い払い(ただし残された駕籠のなかにお坊吉三がいることにお嬢は気が付いてはいませんが)誰もいない状況で月の光を浴びながら詩心を刺激されたのか・ゆったりとした気分で台詞を言うのです。ですから「月も朧に白魚の・・・」という文句がお嬢の口からこぼれ始めるまでにしっかりとした段取りが欲しいと思います。 そしてコーンと鐘が鳴った瞬間に舞台の空気が写実から様式にパッと切り替わる・そういう乖離感覚が欲しいのです。これは今回の玉三郎のお嬢に限ったことではありませんが、今回もその点が十分とは言えません。いつも思うことですが、手順が慌しくて・お嬢のなかに詩心が十分に見えてこないうちに・お定まりの台詞に入るという感覚なのです。但し書きを付けますと、お嬢のなかに詩心が見えるかどうかという問題は・ブレヒトが言う「普通の会話の高められたもの」ということではなくて、もっとワープしたところの・次元が違う言葉としてツラネはあるということなのです。

もうひとつ指摘しておきたいことは、玉三郎のお嬢は上を見て・つまり空に浮かぶ月を見てツラネを言っている心持ちに見えるということです。(注:これは平成16年2月歌舞伎座で玉三郎がお嬢吉三を初役で演じた時もそうで した。)これは吉之助は下を見てツラネを言って欲しいなあと思いますねえ。隅田川の川面に光る月を見て欲しいのです。川面に映える月の光の揺らめきのなかに詩があるからです。「月も朧に白魚の・・・」の七五調の台詞のリズムは月の光の揺らめきの美しさ・それを見たお嬢吉三の感動から生まれています。その台詞のリズムよってお嬢の目のなかに映る月の光の揺らめきが観客に伝えることが出来るはずです。吉之助は「月も朧に白魚の・・・」の台詞によって黙阿弥の七五調の様式が完成したと考えています。それは西洋音楽のバルカローレ(舟歌)に共通した揺れるリズムなのです。(別稿「アジタートなリズム・黙阿弥の七五調」をご参照ください。)

2)

ブレヒトは「普通の会話・高められた会話・歌唱という三つの要素は分離しなければならない」ということを言っていますが、まあこれは芸術上の立場によっても違ってくるでしょう。ブレヒトと同時代の人気オペレッタ作曲家であったカールマンの代表作「伯爵令嬢マリッツァ」や「チェルダッシュの女王」のクライマックス・シーンでは台詞から歌唱へ切れ目なく移行し・芝居と音楽が渾然一体となっており、まさに現実と夢が交錯する音楽劇になっています。 例えば令嬢マリッツァとタシロ伯爵が歌う第3幕の二重唱「ハイと言って頂戴」を挙げておきましょうか。これなど恐らくブレヒトが最も嫌う形態でしょうが、写実と様式の揺れという点で実に興味深く・かつ魅力的な実例なのです。しかし、ブレヒトが目指すところはまったく逆の手法によって、様式としてのソングを ドラマと連関なく・切り取った絵のように提示してみせることで逆説的に芝居(ドラマ)のリアルさを際立たせようという意図であると思います。つまりブレヒトのスタンスとしては写実の芝居の方に重点があるのです。西欧においても「三文オペラ」を芝居とするか・オペラと分類するかについては見方が分かれるところですが、実際ブレヒト・ソングは役者が素人っぽく歌った方が面白味があって 、節の付いた台詞というような感じで歌う方が良ろしいようです。(別稿「音楽ノート・三文オペラ」を参照ください。)ブレヒトにとってソングが必要であったというより 、歌うという反演劇的行為が必要であったということでしょう。

そこで「三人吉三・大川端」に話を戻すと、この芝居は世話狂言ですから・基本スタンスは当然ながら写実(世話)に置きます。写実の芝居のなかにツラネという様式(時代)の要素が入り込んでくるそのギャップが面白いのです。それならばお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」という長台詞は大時代に朗々と歌うべきでしょうか。吉之助はそうではないと思いますねえ。この芝居は世話の地狂言(台詞劇)なのですから、ツラネとしての様式的な要素があり・また独白でもあるから時代の感覚はあるにしても、やはりこの台詞の基本は写実であるべきなのです。ではどこで時代の要素を出すのかと言えば、それは美しい娘だと思って見ていたはずが実はそれが男性であり・しかも盗賊であったという衝撃(ショック)ということです。お嬢さまが男性であったという真実・つまり世話においては 本来的に自然であるべき「真実」という要素が、ここでは歪んでグロテスクなものである。この逆転した感覚が黙阿弥の仕掛けなのです。この場面においてはシチュエーション自体がすでに十分に時代の感触なのですから・そのように段取りをしっかりと取るべきで、台詞は写実に重きを置く方が時代を際立たせることになり・ドラマ的に正しいということが分かると思います。つまりお汁粉の甘味を引き立てるために食塩をちょっぴり加えるのと同じことです。またその方がこの後の三人の吉三郎がぶつかる場面にもスムーズにつながります。台詞を様式的に歌うことは捻じれたバロック的な感覚をかえって嘘事・絵空事にすると思います。

ですから「大川端」の場合はお嬢が庚申丸で人を追い払った後・川端に向かって歩いて決まり・「月も朧に白魚の・・・」という台詞を発し始めるまでの段取りに十分な間合いを取って欲しいのです。例えば「楼門五三桐」で楼門上の五右衛門が観客席を眺めながら・十分な間合いあって・ゆっくりと「絶景かな絶景かな・・」と言います。それは五右衛門が眼前に咲き誇る満開の桜を見ている思い入れであるわけですが、これに似た間合いが欲しいと思います。もちろん「大川端」は世話場ですから「楼門」ほどの大時代ではないにせよ・お嬢が眼前に川面に映る月の光の揺らめきに思わず詩心を湧き上がらせる・そのような間合いが欲しいのです。その間合いの感触が時代に似るのです。そうすると「月も朧に白魚の・・・」の七五調の写実(世話)のリズムが生きてくるのです。

3)

今回(平成21年2月歌舞伎座)の「三人吉三・大川端」 ですが、三人の吉三郎が三者三様にそれぞれの七五調をしゃべっていて・様式の統一感など眼中に無きが如しという・まことに不思議な舞台です。そのなかで特に玉三郎のお嬢吉三は問題が多いように思われます。玉三郎のお嬢 は平成16年2月歌舞伎座が初役で・これについては別稿にて触れましたからそちらをご覧いただきたいですが、今回はあれこれ考え過ぎで・初役の時より随分と崩れた感じになりました。もしかしたら玉三郎は「三人吉三」は写実の世話物でもあるから台詞にリアルな感覚を持たせたいし・その一方で様式的な美しさも欲しいし・いろいろ役作りを試行錯誤した挙句何だか良く分からなくなってしまったかなと も思えるお嬢なのです。

ひとつはおとせを騙る間の娘を装っているお嬢、二つ目は「月も朧に白魚の・・・」とツラネを語るお嬢、三つ目はお坊に男の正体を見極められてからのお嬢、玉三郎のお嬢ではこの三つの局面の調子(声の調子だけでなく・役全体の雰囲気も)がバラバラになっています。この三つは 決してバラバラになってはならず・ひとりの人物の三つの側面という様相を見せて欲しいのです。ちなみに「月も朧に白魚の・・・」は本来は世話の長台詞というべきですが・ツラネの様式を取り入れたものですから・ここでは世間で言われる通りにツラネと呼ぶことにしますが、玉三郎のツラネは早めでサラサラですが・ これはまあいつもの調子の七五調(要するにダラダラ調)です。これがお坊・和尚との会話になると、一転してバラ描きで(散文調にパサパサとした調子で投げるように)言うとまるで七五調の 面白さが出てきません。もともと太い声質でないのに・無理して太い男声を作ろうとしているのも不自然に感じます。まあ現行の歌舞伎の解釈では男性が女性を騙る技巧ということで・ひとつめと二つ目は分ける考え方であろうと思います。そこは解釈に拠るということで・この場は譲りますが、二つ目と三つ目で調子をあれほどガラリと変えるのは問題があると思います。一応玉三郎の立場に立って考えれば、ツラネはお約束であるからいつもの通りに言うが、会話の場面は様式的な陳腐さに陥らないようにして・写実で意味のある会話にしたいという意図ということかも知れません。確かにそれも分からないこともないですが、お嬢が「月も朧に白魚の・・・」と言う時・そこで既に彼の男性が完全に顕れているのですから、二つ目と三つ目の局面をガラリと切り替えるのは役の解釈としてやはり無理があると思います。ツラネというものが「歌う」という時代の要素を持つ(この場面の勘所としてここは譲れない)のですから、時代(歌う要素)を基調にして・そのなかにどうやって写実(世話)の感覚を入れていくかという方向で役に筋を通して欲しいのです。事実・後半の三人の吉三郎の応酬は「鞘当」の不破名護屋のかぶき者のドラマに似て・江戸の盗賊(彼らは幕末のかぶき者なのです)の男気を見せる芝居掛かった場面なのですから、全体が時代(様式)の方に寄るのは仕方ないところです。しかし、もちろん「大川端」は世話場ですから写実(世話)を意識しなければならないのは当然です。もう一度言いますと・本来写実というのは真実を映すものですが、この場の真実とは「美しいお嬢さんが実は男性で盗賊であった」というグロテスクで歪んだ真実なのであり、それは世話に相応しくない要素ですから・時代の感覚になるということです。それでは写実(世話)が表現すべきものは何かと言えば、それは三人の吉三郎が見掛けはツッパっていても・実はその裏にナイーヴな感性を持ちつつ必死で生きている若者たちであるという真実です。ですからお嬢吉三は・声の調子だけでなく役全体の雰囲気として時代(歌う要素)を基調にしつつ・絶えず写実(世話)の方向へ行きつ戻りつする感覚が欲しかったなあと思うのですねえ。玉三郎は性のチャンネルの切り替えのことを意識し過ぎに思われます。そういうことは吉之助にとっては二の次で良ろしい ものです。

4)

三人の吉三郎の出会いの場面は世話の「鞘当」みたいなものですから・感触はどうしても様式の方へ傾きますが、そこはやはり世話場ですから基本は写実です。しかし、写実というのは玉三郎のお嬢のように台詞をバラ描きに言えばそれで写実の表現になるというものではないのです。「大川端」だけではなく・ 黙阿弥のどの作品にも、世話のなかに時代の影がフッと射す・あるいは時代掛かった場面において世話の風がサッと吹くという場面があるはずです。黙阿弥物は時代と世話に絶えず揺れており、時にそれがどちらかに大きく揺れることがあります。それは「揺れ」なのですから・一旦時代の方に大きく振れたら、今度は世話の方に揺り戻す力が内的に働くものです。だから黙阿弥物がひと色に染まるということは決してありません。別稿「アジタートなリズム」において、黙阿弥の七五調はその揺れるリズムのなかに世話と時代の要素の揺れる要素を持っていることについて考察しました。黙阿弥の七五調は「七」(早く)の部分が時代の要素が強く・「五」(遅く)の部分が世話の要素が強いと言えます。この七五調の性質を利用すれば、「七」の部分にウェイトを置いて・そこを通常の感覚より若干テンポ遅めにたっぷりと言えば時代をより強くすることができ、そこを戻して・「五」の部分をテンポ早めてサラリと言えば世話をより強くすることができるのです。そうやって台詞のなかに世話と時代の揺れの濃淡を大胆に付けていく。それで芝居の局面を時代に・あるいは世話に変化させることができるのです。逆に言えば、だから部分の色調が揺れても・全体としては七五調の様式感を維持することができるのです。こ の技術が大事なポイントです。

しかし、現行のダラダラ調は一音符一語の二拍子が基本のリズムですから・このように台詞の微妙な緩急をつけて・台詞に時代と世話の色調を微妙に変化させるなんて芸当ができないでしょう。現代の黙阿弥物が単調に感じられるのはそのせいです。染五郎のお坊の七五調は適度に音楽的な抑揚がついており、その意味で素直なダラダラ調だと言えます。例えばお坊がお嬢に向かって「にいさん、ちょっと待ってもらいたい」と言う時、この台詞はお坊の第一声で・役の印象 を作るのに第一声はとても大事なのですが、ダラダラ調で言うと末尾が伸びた感じに聞こえて・様式的な時代の感覚が強くなってしまいます。これでお坊の性格が決まっちゃ うわけです。ここで写実の感触を強くするには「・・もらいたい」の部分を若干詰めることです。たったそれだけのことでお坊は世話の役になります。このような些細なことの積み重ねで「様式的かつ写実」の芝居が出来上がるわけです。

松緑の和尚の七五調はどこか亡父・初代辰之助(三代目松緑)の口跡を思い出させるところがあって、その意味で懐かしいところがあります。吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代の歌舞伎の黙阿弥物はすでにダラダラ調全盛でしたが、辰之助はその風潮に反抗するが如くにキビキビした早めの調子で七五調をしゃべったもので、菊五郎劇団のなかでも異色の存在でした。ただし辰之助の場合も基調は二拍子で・台詞に緩急が付いていたわけではないので、やはりリズムの単調さは否めませんでした。むしろ辰之助の台詞術は新歌舞伎の役柄でひときわ光ったものでしたが、それは辰之助の台詞のリズム感覚が二拍子の急き立てる感覚を持っていたからです。(これについては別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)話を松緑の七五調に戻しますと、松緑の早めのテンポで抑揚をあまり加えない口調は、最初に耳にした時はサッパリとした写実の口調に聞こえるかも知れません。ただし、それは最初だけのことで、その台詞をしばらく聞けばリズムの単調さにすぐ気が付くはずです。表面的な感触は違うようでもダラダラ調の範疇を越えていないことが明らかなのです。テンポを速めただけで写実の表現になるわけではありません。

まあ「様式的に写実せよ」と言うのは、様式と写実・それ自体が相反した要素を含んだ命題ですから難しいのはごもっともだと思います。しかし、「様式的に写実する」ことができないと黙阿弥物は成立しないのです。そのためには黙阿弥物には世話と時代の揺れがあるということがまず理解されなければなりませんね。もしかしたら「三人吉三・大川端」は現代の歌舞伎役者にはもっとも難しい演目なのかも知れません。

(H21・9・20)

 

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