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道成寺の「娘」〜謡曲「道成寺」の主題による変奏曲

平成20年12月歌舞伎座:「京鹿子娘道成寺」

坂東三津五郎(白拍子花子)


1)立役の「道成寺」

別稿「菊五郎の道成寺を想像する」において、『初代富十郎の「道成寺」から・九代目団十郎の「道成寺」・そして六代目菊五郎の「道成寺」と・三人を結んだ線上に江戸歌舞伎の大輪の陽性の華ともいえる「娘道成寺」の本質を見るような気がする・だから「道成寺」は立役が踊ったほうが「道成寺」本来の味に近くなる』ということを書きました。舞踊の系譜を紐解く ことはなかなか難しいことです。流派・踊り手によって振りや曲が微妙に・あるいは微妙と言う以上に異なることも少なくありません。どうしてその振りは他と違うのかと聞いても、「ウチではこのようにやっております」で答えは終わりということがほとんどです。ですから源流は何か・何が正しいかということを、現在目の前にある個々の踊り手の舞台 だけを材料に考えることはとても難しいことです。かと言って文献研究でも具体的なイメージを掴むことは困難です。ですからそのことを考えてみるには遠い過去から現在に向かって線を引いてみて・そこに漠然とした或る流れを想像してみる方がむしろ早道なのです。そうすると吉之助には現代においては「娘道成寺」は真女形より立役が踊る方がもしかしたら「娘道成寺」本来の味に近くなるのではないかという気がするわけです。

また別稿「獅子物舞踊のはじまり」では吉之助は『「鏡獅子」を作った九代目団十郎の作意と若干違うかも知れないが真女形の後シテの狂いのイメージにも未練が残る』ということを書きました。これも女形の獅子物舞踊の系譜から見れば、前シテ(小姓弥生)と後シテとの落差を意識して勇壮な獅子を作ろうとしてすっかり立役の舞踊にしてしまった現在の「鏡獅子」の方がむしろ異端に感じられるということです。 これも「娘道成寺」は真女形より立役が踊る方が本来の味に近くなるという思考回路と同じことで、「鏡獅子」は真女形が踊る方が獅子物本来の味に近くなるという想像は遠い過去から現代に線を引いて初めて見えてくるものです。

「京鹿子娘道成寺」は女形舞踊の大曲と言われます。「娘道成寺」を舞台に掛けるということは女形役者にとってそれは誇らしいことです。それはその通りだと思いますが、そのイメージのせいで現代のもっぱら女形が踊るところの「娘道成寺」は艶やかではあるが・嫋々とした方向に傾いており、凛としたところがちょっと見失われていると思います。吉之助が「娘道成寺」に凛としたところが欲しいと思うのは、そこにルーツである謡曲「道成寺」 との接点を見たいと思うからです。そうであってこそ「娘道成寺」は「謡曲「道成寺」の主題による変奏曲」になるのであると思うのですねえ。嫋々としたイメージを凛とした方向に「娘道成寺」を引き戻す為には立役が踊った方がやり易いのではないかということです。

まず道成寺伝説について考えます。ご承知の通り・道成寺伝説の主人公は清姫です。清姫は紀伊国牟婁(むろ)郡真砂の庄司の娘ということになっていますが、 その源説のひとつとされる平安期の「本朝法華験記(ほんちょうほっけげんき)」第129紀伊国牟婁(むろ)郡悪女の話ではそれは娘ではなくて・若い後家さんでした。また室町期に成立した「道成寺縁起絵巻」でも娘ではなく・「娵(よめ)」となっています。清姫という名前が出てくるのは寛保2年(1742)の操浄瑠璃「道成寺現在蛇麟」が最初のことで、宝暦3年(1753)3月中村座で初代中村富十郎が初演した「娘道成寺」では娘の名前は横笛とされていました。また初代富十郎の「娘道成寺」は「男伊達初買曽我」の三番目として踊られたもので・独立した舞踊演目ではなかったのです。このことから分かることは、道成寺伝説のなかで主人公が真砂の庄司の「娘」とされたのはそう昔のことではなく、清姫という名前が定着したのも比較的新しいということです。

ですから初代富十郎の「娘道成寺」で「道成寺」ものは固定したわけではなく、それ以後にもかなりの変遷があったのです。その流れのなかに歌舞伎の「娘道成寺」の本来のイメージというものを想像してみなければならないわけです。「娘道成寺」の舞踊史を見れば、時代順にまず三代目三津五郎(永木の三津五郎) ・九代目団十郎・六代目菊五郎という重要な踊り手が浮かび上がってきます。いずれも立役の踊り手です。もちろん真女形の「娘道成寺」にも素晴らしいものがあったわけですが、女形舞踊の最高峰と言われる踊りの流れのなかにポツポツと立役の踊り手が・しかも非常に重要な役割を以って立ち現れます。これは決して偶然ではないと吉之助は考えます。立役の「娘道成寺」というものがその本質を想起させるべく・ある必然を以って現れていると吉之助は思うわけです。これら3人の立役の「娘道成寺」を想像した延長線上に・初演者である初代富十郎の「娘道成寺」が想像できると思います。初代富十郎は女形技芸の創始者というべき重要な役者ですが、荒事も演じた芸域の広い役者でした。決して嫋々とした役者ではなかったわけですから、吉之助は初代富十郎の「娘道成寺」を立役に近いイメージで想像したいのです。まずここに「娘道成寺」の発想ベクトルのひとつを置きたいと吉之助は考えます。

2)謡曲「道成寺」の主題による変奏曲

「娘道成寺」の発想ベクトルのもうひとつを考えます。謡曲「道成寺」の場合は中年の女性という考え方です。例えば喜多流では赤い色を使わない衣装で・面は曲見という中年女性の顔の面をつけるのが本来のやり方です。しかし、これだと印象がくすんで陰惨な感じになり勝ちなので・これを嫌ってか、深見というちょっと年齢的に若い中年女性の面をつけることが昔も多かったようです。しかし、近年は増というさらに若い女性の面をつける例が喜多流でも多くなっているそうです。年増の女性と言っても・昔は成人が早かったので、色気のある女盛りの女性ということです。まあ二十代半ばという感じでありましょうか。これだと見た目も華やかになるので演る方も嬉しいということがあるようです。ですから能の方でも中年女性から若い女性の方に傾いていく流れが確かにあるようです。ただし能では娘というところまでは行きません。

「道成寺縁起絵巻」でヒロインが娘ではなく・「娵(よめ)」となっているのは、なるほど本来はそうあるべきであろうなあと思います。仏教伝説というものはどうにもならぬ人間の業を描いており、それを聞く人に我が身の業の深さを戒めさせるものなのですから、ヒロインがまだ恋に恋する状態の娘であっては・それは何だか実体のないものになってしまって・ドロドロの肉欲の情念のイメージにはならぬのです。逆に言えば・このように道成寺伝説が年増の後家さんから・恋に恋する娘のイメージに変化していく所に「娘道成寺」の大事なポイントがあるのです。これを「娘道成寺」のふたつめの発想ベクトルとします。

ヒロイン像が年増の後家さんから・恋に恋する娘に変化していくということは、民衆は道成寺伝説のなかに暗く陰惨なドロドロした要素を見たくなかった・人間が蛇に変わってしまうなんてそんな空恐ろしいことはあまり考えたくなかったということです。それは仏教説話の風化であるという風に考えることも出来るかも知れません。これが「娘道成寺」の発想ベクトルの一面であることは確かですが、もうひとつの面があると思います。それは民衆が 道成寺伝説というものをとても明るく理性的に解明しようとしているということです。吉之助はそれを江戸の民衆の明晰さ・あるいは科学性とも呼びたいのですが、江戸の民衆は 謡曲「道成寺」で白拍子が蛇に変身するのはまず鐘の魔力のせいだとするのです。その基になっている説話の暗い情念のことはとりあえず置いておく。すると「娘道成寺」が謡曲「道成寺」と重なってスッと論理的に見えてくるのですねえ。鐘にこもった殿御を想う心(主題)と白拍子が舞う娘の恋心(変奏)とが ・ドロドロした肉欲の情念ではなく・スッキリとした論理において無理なく重なってきます。つまり「娘道成寺」は「謡曲「道成寺」の主題による変奏曲」だと言うことです。吉之助はそのように「娘道成寺」を見たいと思います。

3)江戸の明晰さ

「娘道成寺」の花のほかには松ばかり・・という舞台面はそれだけで観客の心をパーッと明るくさせるものです。一面の桜の光景の明るさは実は江戸の民衆の明晰さから来るものです。と同時に民衆は桜の美しさのなかに何か得体の知れない不気味さを感じてもいるのです。

『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』(坂口安吾:「桜の森の満開の下」・昭和22年(1947)6月)

坂口安吾:桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

安吾の小説「桜の森の満開の下」の冒頭部です。大昔は桜の花の下は怖しいと思っても・絶景だなどとは誰も思いませんでした。花見という風習が民間に広まるのは江戸時代になってからのことで、 江戸以前にはなかったことでした。古来桜は人を狂わせると言われ、花見の宴会ではしばしば乱痴気騒ぎが繰り広げられま した。これを陰陽道では桜の陰と宴会の陽が対になっていると解釈するそうです。桜の花があまりに恐ろしいので・その殺気を紛らわせようとして・思わず浮かれ騒ぎをしてしまうということかも知れません。そう考えると「娘道成寺」の舞台面が一面の桜の森に設定されていることには象徴的な意味が隠されていることが分かります。明晰さとその背後に隠された不気味さとです。

ところで舞踊に限りませんが・伝統芸能の場合は何度も上演されているうちに・いろいろな演者の工夫・あるいは仕勝手が紛れ込んで集積されて演出の一貫性が失われることが少なくありません。現行の「娘道成寺」で白拍子花子実は清姫の霊とされること も、そのひとつだと吉之助は思います。こういう設定は白拍子は清姫の怨霊が化けていて・鐘の傍に来てその本性を現わすのだということで多分「娘道成寺」を理屈で説明しているつもりなのでしょう。しかし、こういうのは二流の戯作者の考えることで・論理的なようでいて実は非合理的な世界に落ちていて・ちっとも論理的で はないのです。大体怨霊が最後に姿を変えて現れるならば、そのこと自体当たり前のことで恐ろしくありません。そうでない普通の娘が蛇身に変えられるからこそ恐ろしいのです。その時に観客の脳裏にはるか昔の道成寺説話の記憶がはっきりと蘇るわけです。それが「謡曲「道成寺」の主題による変奏曲」の明晰さの論理プロセスなのです。 (別稿「本当は怖い道成寺」をご参照ください。)

現行の「娘道成寺」は白拍子花子実は清姫の霊としていることで、意識的にか知らずか・その世界を道成寺説話の記憶から離そうとしているのです。ですから「娘道成寺」を源説につなぎとめるためには花子が清姫の霊であることは最後まで伏せられねばなりません。このことは別稿「あなたでもあり得る」で触れました。驚いたことに最近は白拍子花子が花道スッポンからセリ上がるという演出まで現れました。こういう演出は江戸の民衆精神の明晰さを全然お分かりではないのです。江戸の民衆は怨霊とか迷信とかそういう非合理なものを信じていた・その程度だったと思っているのです。まあレビューだと思って見てれば気にはなりませんがね。しかし、江戸の民衆の明晰さをもっと信じて良いのではないでしょうか 。

七代目三津五郎が指南役の坂東三津江に『「道成寺」で芝居をするのは道行だけなのですから・役者衆にとって道行は大事です』と教えられたことを語っています。 (「舞踊芸話」)道行が大事であるのはドラマとしての「娘道成寺」が道成寺説話と密接につながっていることを示すための導入部であるからこそ重要であるわけです。前述の通り・それは白拍子花子が怨霊であることをほのめかすというような安直な方法で行うものではありません。鐘供養の場に 似つかわしくない異様な明るさを持つ何ものかがやってくる・・・そういう感じが道行には欲しいわけです。道行は「謡曲「道成寺」の主題による変奏曲」の主題の提示部です。提示された主題の意味はその場では隠されています。幕切れにおいてその不気味さの意味が明らかになるということです。

4)道成寺の「娘」

戦前の名優の「道成寺」をご覧になった郡司正勝先生は、『六代目菊五郎のは白拍子の「道成寺」、七代目三津五郎のは娘の「道成寺」という感じがした』ということを仰いました。(雑誌「演劇界」・昭和31年3月号・協同研究「道成寺」) 戦前の六代目菊五郎は「道成寺」を頻繁に踊りましたが、七代目三津五郎が「道成寺」を踊ったのはそう多くありません。このふたつを見た郡司先生の証言は貴重です。しかし、白拍子の「道成寺」の方はともかくとして、娘の「道成寺」とは何なのか。「娘道成寺」なのだから当り前じゃないか・などと考えてはいけません。郡司先生はそれ以上のことを語っていませんが、七代目三津五郎の踊る「娘道成寺」が娘の「道成寺」であることは重要な意味があると吉之助は思います。そして平成20年12月歌舞伎座での曾孫に当たる当代(十代目)三津五郎の踊る「娘道成寺」を見ると、郡司先生の言いたいことが まるで眼前にあるように理解できます。当代三津五郎の「娘道成寺」もまた娘の「道成寺」であるからです。 伝統というものはこういう形でつながっていくものなのか・伝承というものの不思議さを感じさせ、また大和屋という家系の伝承がしっかりしていることを改めて感じさせる舞台でもありました。

娘の「道成寺」とは何かということを考えます。「娘道成寺」の「恋の手習い」のくどきを生娘・遊女・人妻の三つに分けて踊るという説に対して、六代目歌右衛門はこのように反論しています。

「なるほど唄の文句の方からはそうかも知れないけれども、それでは私はいけないと思います。あそこでそれを意識するとムラができます。ふっつり悋気せまいぞ、も何も、どこまでも娘でいっちゃわないと。ええ、「娘道成寺」なんだから娘でいかないと。」(六代目歌右衛門:「歌舞伎舞踊を語る」・歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評」第17号・1996年)

「娘道成寺」なのですから踊りの性根はやはりあくまで娘に置くべきなのです。そして娘の女性たるいろいろな要素・あるいは魅力が形を変えてざまざまに現れるということです。生娘のなかに既に遊女の娼婦性 があり・人妻の貞淑さもあるのです。これを唄の文句通りに三つに分けてバラバラに理解しようとすると踊りがひとつのものになってきません。すべての要素はその本質のなかに包含されていて、ある局面において形を変えてフッと顔を出すものなのです。さらに・このことは「そこに見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。このことを歌右衛門は語っています。

「娘道成寺」の本質が「娘」にあることを歌右衛門はよく分かっているのです。しかし、吉之助の記憶では歌右衛門の踊る「娘道成寺」は濃厚な味わいで・妖艶なもので、「娘」という感じはあまりしなかったかも知れません。これは七代目梅幸の踊る「道成寺」も同じであって、 梅幸のは淡い味わいがあって・可愛らしい感じもしましたが、全体的にはどちらも太夫の「道成寺」という趣きであったと思います。ふたりの名女形の「娘道成寺」を貶めているわけではないので、誤解ありませんように。実はそれは真女形の技芸の根本が太夫(遊女)にあることから来るものです。真女形が踊れば必然的にそのような感じの「道成寺」になるのです。折口信夫は次 のように書いています。

『町女房を演ずれば茶屋女房か・女郎のようになり、娘と言えば男を知った・色町風の娘になるのが歌舞伎を通じての娘であった。姫君から町娘に至るまで・男を知らぬはずに書かれた娘でも、みな女臭い。女臭くない娘というのが歌舞伎の範疇になかったのである。そのくせ世間で想定していた娘盛りは遥かにそういう領域を飛び越えて若かった。お半も・お七も十四か十五かの少・成女の年境が問題になる娘であった。芝居の娘の表現はどうしても十五・六の娘の感覚を表現すべきであった。だが芝居の娘は実際年齢より遥かに長けていた。そうして、ただ数え年を十五・六というばかりであった。だから二十女、時として三十女に近い・女臭い女が舞台上の娘であることが多かった。これは女形の扮する娘の特徴であった。』(折口信夫: 「街衢の戦死者〜中村魁車を誅す」:昭和20年11月・文章は吉之助が多少アレンジしました。)

*折口信夫: 「街衢の戦死者〜中村魁車を誅す」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

「芝居の娘の表現は十五・六の娘の感覚を表現すべきであった」のですが、それは女形の技芸では無理なことだったのです。女形の芸というのは女臭さを強調することでそこに虚飾の女らしさを表現するものでした。確固とした「男」のイメージがあって・これと対立したところに「女」を置くということで女形芸があるのです。(立役の場合はその逆になります。)ですから女形芸の根本は太夫・遊女に置くものです。言い換えれば女形芸には常に男に対する強い自意識があるわけで、これは道成寺説話の世界に重なるところが確かにあります。だから女形舞踊のなかで早くから道成寺ものが盛んに取り上げられたのです。しかし、「娘」の「道成寺」ということになればそこに若干の齟齬が出てくると思います。それは当時の世間の「娘」の年齢の基準が十五・六あるいはもうちょっと前であったからです。当時は娘は十五・六でも早ければ嫁に行く年齢でした。二十ともなればまさに結婚適齢期です。そういう時代の「娘」なのです。したがって「道成寺」の「娘」は今で言えば中学生くらいの少女と考えなければならぬわけです。

「道成寺」の「娘」が十五・六であると規定したうえで、『ふっつり悋気せまいぞ、も何も、どこまでも娘でいっちゃわないと。ええ、「娘道成寺」なんだから娘でいかないと』と言う六代目歌右衛門の言葉を読み返してみます。生娘のなかに既に遊女の娼婦性もあり、人妻の貞淑さもあるのです。しかし、十五・六の娘の考える遊女の娼婦性・人妻の貞淑さなんて実感のあるものじゃないわけです。遊女を見ながら「綺麗な着物を着て・お化粧していいわねえ」という程度のものかも知れません。人妻を見ながら「好きな旦那さまと一緒にいれていいわねえ」と いう程度のものなのです。実際はいろいろあるわけですねえ。ですから「娘」はそうやって夢想して・ただ恋に結婚に憧れているだけの状態なのです。言い換えると道成寺説話の肉欲の・情念の・ドロドロしたもの・嫌なもの・醜いもの・そういうものを削ぎ落として蒸留して・サラサラの純粋な結晶にしたところの女性の恋心、それを描いたのが「娘道成寺」の踊りであるわけです。そういう女性の恋心は「娘」でないと描けない。だから十五・六の嫁入り前の女の子なのです。それが「道成寺」の表現ベクトルの行き着いたところです。初代富十郎の「娘道成寺」・すなわち謡曲「道成寺」の主題による変奏曲の発想はそこにあると吉之助は思います。

ところがそこまで女性の恋心が純粋化されてしまうと、今度は完成されて成熟した真女形の技芸ではそれがうまく描けないのです。真女形が踊ると、それはどうしても遊女の恋のようになってしまうのです。真女形が持つ過剰な色気・艶やかさ・女臭さが邪魔になってくるのです。女形舞踊の最高峰と言われる大曲がそのようになるということは皮肉なことですね。ですから立役の踊る「道成寺」の方がむしろ「娘」の感触に近くなる のです。真女形の過剰な色気が抑えられて・歌舞伎の女形の基準からすればむしろ中性的な感触に見える「娘」になるわけです。当代三津五郎の踊った「道成寺」はまさしく十五・六の娘が踊る「道成寺」でありました。当代三津五郎の娘の「道成寺」と・当代勘三郎の白拍子の「道成寺」という・ふたつの優れた立役の「道成寺」を持つことが出来た平成の我々は幸せなことです。

(H21・1・25)

七代目坂東三津五郎:舞踊芸話 (1977年)

名作歌舞伎全集 第19巻 舞踊劇集 1 (19)

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