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「恐ろしいのはお前の心」

平成18年(2006)4月・香川県琴平町金丸座:「色彩間苅豆」

市川海老蔵(与右衛門)・市川亀次郎(かさね)


与右衛門「ヤヤ、そなたの顔は・・」/かさね「ナニ、私の顔、とはエ」/与右衛門「テモ、恐ろしい。」/かさね「恐ろしいのはお前の心・・・。」

1)怪談話の明るさ

江戸の三大幽霊はお岩(「四谷怪談」)・お菊(「播州皿屋敷」)・そして累(るい=かさね・「色彩間苅豆」)だと言われます。特に累は江戸の怪異ブームのはしりと言える存在で興味深いものですが、 ここでは江戸民衆が好んだ怪談話の明るさについてちょっと考えてみたいのです。怪談話の明るさと言うと・「陰惨さ」の間違いじゃないかと思うかも知れませんが「明るさ」です。折口信夫は次のようなことを書いています。

『盆の祭り(仮に祭りと言うておく)は、世間では、死んだ精霊を迎えて祭るものであると言うているが、古代において、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、いわば魂を切り替える時期であった。すなわち、生魂・死霊の区別なく取り扱うて、魂の入れ替えをしたのであった。(中略)盆は普通、霊魂の遊離する時期だと考えられているが、これは諾はれない事である。日本人の考えでは、魂を招き寄せる時期と言うのが本当で、人間の体のなかへその魂を入れて、不要なものには、帰ってもらうのである。(中略) 七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言えば、すぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、われわれの国の古風では、これは陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であった。』(折口信夫:盆踊りの話・折口信夫全集・第2巻)

現代の我々は怪談話・因果話に科学では解明されない霊魂の存在などを感じてなんだか非合理で不可解な・それゆえになにやら底知れぬものを感じて・怖くもあり・おぞましくもあり・また畏れ多いと感じるものでしょう。しかし、江戸の人々の感覚は感じ方のプロセスがこれとはまったく逆で した。当時の人々は霊魂の存在を信じておりました。だからこの世に思いを残したまま死んだ人の霊魂が怨霊となって事を引き起こすことは、そう考えるのなら自然のことであって・別に不思議なことではなかったのです。むしろ怨霊の仕業だと説明できないような場合・何が原因なの だか分らない場合の方が恐ろしい。誰それの怨霊の仕業だと説明が付くならお弔いするなり・お祓いするなり ・仇を討つなり何がしか対処が出来るからです。怪談話や因果話は不思議な出来事をまるで推理小説を読み解くように・合理的に説明するものだと考えてよろしいのです。だから怪談話は明るいわけです。

「色彩間苅豆」においても・かさねの顔が醜く変ってしまったのは、与右衛門がかさねの母のお菊と密通し、その夫の助(すけ)を殺したからです。かさねの目が腫れあがるのは与右衛門が助の左目を火箸で突いたから ・かさねの足がびっこになるのは与右衛門が助の足を包丁で刺したからと説明できます。与右衛門の前に鎌が食い込んだ髑髏が流れてきますが、これは与右衛門が助を鎌で殺したから です。この鎌でかさねが殺されなければならないのも因果なことですが、そこには理屈があるのです。不思議な現象は殺された助の怨念であった・それを引き起こしたのは与右衛門 が働いた悪事であったということです。因果の律で説明が付いて・ああなるほどそういうことかと納得が出来るのです。だから舞台が明るいのです。

2)色悪というキャラクター

しかし、すべてが明るみに照らされたなかでただ一点だけ・まるでブラックホールのような暗黒の一点だけが残されます。そして、その一点が「色彩間苅豆」の物語を支配していることに気が付きます。その漆黒の闇こそがこの物語の怖さの原点です。その正体はかさねのひと言で示されています。

「恐ろしいのはお前の心・・・。」

恐ろしいのは与右衛門の心の闇なのです。助を殺し・菊を捨て・今またかさねを醜くしたのもすべて与右衛門の心の闇に因るのです。六代目菊五郎が「かさねはお化けになってはいけない。幕が閉まった後でお客がああ可哀想な女だなあと思わせなければならない」と言ったというのはそこのところです。「この世からなる鬼女のありさま」であっても、かさねをそのような姿に変えたのは与右衛門の心なのです。

ところで「東海道四谷怪談・夢の場」は最近は滅多に出ませんが、この場が蛇山庵室へ転換するのは南北劇の変化の妙が味わえるところです。この「夢の場」は伊右衛門の心象風景ですが、最初美しい娘が出てきて伊右衛門は思いを寄せるのですが・ふっとその面差しがお岩に似ている・・と思った瞬間に娘が「うらめしいぞや、伊右衛門どの・・」と言うのです。これはお岩の顔が変化したと見ることも出来ますが・伊右衛門の心が娘の顔を醜く変化させたと言えます。あるいは物理的に娘の顔が変化したわけではなくて・伊右衛門の眼には変化したように見えただけと考えてもよろしいかも知れません。つまりそこに伊右衛門の本質的な冷たさがあるのです。姿は良くて・女性にはモテるけれども、その生き方は虚無的で・周囲を不幸に巻き込んでいくような性(さが)です。色悪(いろあく)というキャラクターはそのような役柄 なのです。「色彩間苅豆」での与右衛門も同じように考えてよろしいでしょう。

理屈から言えば悪いのは与右衛門なのですから・助は与右衛門に祟ればいいのです。ところがここでは罪がないはずのかさねが祟られます。まったくひどい話ですが・いつの場合にも 一番弱いところに歪みが来るものなのでしょう。そして、次のようにも考えられます。この「色彩間苅豆」は因果話仕立てで・この場の与右衛門はかさねに振り回されて何だか被害者面をしていますが、どう考えたってやはり与右衛門が加害者なのです。そう考えれば前半の美しい色模様も本来は決して甘いムード一辺倒ではあり得ません。与右衛門は甘いムードに決して酔っているわけではない・というより本質的に酔えない性格なのです。それは与右衛門の薄っぺらな性格・ひと皮剥けば冷酷で自己中心的な人間性を示すものです。与右衛門のそのような人間性がかさね の面相を変えるわけです。連理引きの幕切れはかさねの怨念の見えない糸が与右衛門も引いているように見えますが ・別の見方もできます。物理の法則は引っ張られている物体は実は逆に引いているのだと教えています。連理引きは本人は意識をしていないが実は与右衛門の身に絡まり出た宿業そのもので・それがかさねを引いているのです。与右衛門はそこから決して逃がれることはできないのです。

海老蔵は素材として色悪に向いたキャラクターですから・与右衛門は期待しましたが、今回の舞台を見ると色悪と言うよりは若衆の悪という感じでありましょうかね。登場すると確かに姿は奇麗で・ 憂い顔で流し目をくれたりして甘いムードが漂います。しかし甘いムードはホントは清元の方に任せておけばよろしいのです。色悪は本質的にニヒルで冷たい美しさでなければなりません。そこのところ 今回の海老蔵はやや甘ったる過ぎたようです。まあ、再演を重ねればいい味が出てくるでしょう 。

今回の舞台だけのことではないですが、「色彩間苅豆」はお化け芝居とまでは言わないまでも・総じて前半の甘い色模様と後半の暗い因果劇との対照を際立たせることに関心が行っているよう です。舞台効果から見ればそれも理解できないことはありません。特に金丸座で見ますと和蝋燭を模した黄色味がかった暗めの照明で舞台がそれらしく見えてくるのが興味深いところですが、怪談話の明るさということを考えて見れば舞台がスッキリ 筋が通ってもっと面白くなるだろうと思います。
 

(H18・4・23)
 

 

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