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青春の息吹き・戦後歌舞伎の息吹き
               〜十一代目団十郎・七代目梅幸の「なよたけ」

昭和31年3月歌舞伎座:「なよたけ」

七代目尾上梅幸(なよたけ)、九代目市川海老蔵(後の十一代目市川団十郎)(石ノ上文麻呂)、二代目尾上松緑(清原ノ秀臣)、三代目市川左団次(讃岐ノ造麻呂・竹取ノ翁) 、十七代目市村羽左衛門(大納言大伴ノ御行)、二代目尾上九朗右衛門(小野ノ連)他


1)歌舞伎の王朝物

加藤道夫の戯曲「なよたけ」は、太平洋戦争下の昭和18年秋から翌年春に掛けて書かれ、昭和21年に「三田文学」に発表されたものです。本来は新劇として書かれたものですが、初演は歌舞伎としての上演で、ただし時間の都合で「なよたけ抄」という部分上演ではありま したが、昭和26年6月新橋演舞場でのことでした。配役は七代目梅幸のなよたけ、十一代目団十郎(当時は九代目海老蔵)の石ノ上文麻呂など。(以後の文章では海老蔵は十一代目団十郎で通す。十一代目団十郎襲名は昭和37年4月のこと。)

ちなみに、この3か月前のことですが、昭和26年3月歌舞伎座で舟橋聖一脚色による「源氏物語」が初演されています。この上演は戦後歌舞伎の大スター・花の海老さまと呼ばれた十一代目団十郎の人気を決定付けたエポック・メイキングなものでした。この時、戸板康二が新聞評で『「源氏物語」で歌舞伎に初めて王朝の風俗をした人物が舞台に乗った、こういう作品が成功したならば、次は「なよたけ」を見てみたい ものだ』という主旨のことを書いたのです。この記事を見た松竹社長大谷竹次郎から戸板へ「なよたけとは何か」という問い合わせがあり、説明をしたら大谷はすぐさま台本を取り寄せて、6月演舞場での上演を即決したそうです。ということは、「源氏物語」は慎重に時間を掛けて準備がされたようですが、「なよたけ」の方は企画が立って上演用台本が出来て役者 が台詞を練習する時間が二か月弱しかなかったわけで、この慣れない現代語の長い台詞を役者が覚えてよく上演に漕ぎつけたものだと思います。幸い演舞場での「なよたけ抄」上演は好評を以て迎えられました。

「なよたけ」の完全上演は、昭和30年9月末・大阪毎日会館での文学座公演(その後京都・東京へ巡演)でのことになります。やや遅れて歌舞伎としては昭和31年3月歌舞伎座で、「なよたけ」が初演とほぼ同じメンバーで再演がされました。今回取り上げる映像は、この時のものです。よくもまあこういう貴重な映像が残っていたものだと感謝したい気分です。この時の上演は「抄」ではなく、ほぼ全編を通しています。ただし原作台本と対照すると 文麻呂の台詞は半分くらいにカットされてはいます。しかし、これでも歌舞伎の感覚からすると飛び抜けて長ったらしい台詞が多い。しかも現代語で観念的な語句が頻出し、しゃべりにくそうです。レーゼ・ドラマ(読むための戯曲)の気配 がありますが、「なよたけ」は戦時中に書かれたものですから、もしかしたら作者は上演が想像できなかったのかも知れません。「なよたけ」には、書き残さずにはいられないと云う、そういう切迫感があります。歌舞伎役者には難儀なもので、さすがの十一代目団十郎も時折台詞をつっかえそうな危ない場面もなくはないですが、それでも何とか切り抜けて、良く頑張ったなあと、映像を見終わって吉之助も息をホッと付いたほどでした。

吉之助がこの映像を見直したのは、ひとつには「源氏物語」との関連があってのことでした。残念ながら十一代目団十郎には「源氏物語」の光源氏の君の映像が残っていないようなので、歌舞伎の王朝物ならば「なよたけ」だと思って見たのです。しかし、「源氏」のことを忘れて、「なよたけ」の映像に見入ってしまいました。歌舞伎の王朝物について書いておくと、古典歌舞伎で平安朝の風俗を描こうとすると、普通は「王代物」 の世界の範疇に入ります。王代物の世界と云うと、飛鳥時代から奈良時代・平安時代までをざっくばらんに括った漠然としたイメージです。これは「妹背山婦女庭訓」あるいは「積恋雪関扉」のようなものを思えば良いのですが、ああいう感じになってしまいます。要するに江戸時代の庶民にとって「ずっと昔」のこと過ぎて、当時のお公家さんの生活が想像出来なかったのです。これは仕方のないことです。江戸時代に「源氏物語」が歌舞伎の題材にならなかったのも、それが遠因のひとつだったと思います。ところが戦後の「源氏物語」上演で、歌舞伎の舞台に初めて平安貴族の風俗が乗って、ここに「王朝物」という 新しいジャンルが出来たのです。だから「竹取物語」に題材を取った加藤道夫の「なよたけ」も王朝物ということになります。

七代目梅幸のなよたけは、若くて美しい。その口調は如何にも品が良く、おっとりした感じではあるけれど決して歌舞伎臭くはなく、それがそのまま王朝物と云う新しいジャンルの到来を告げています。

対する十一代目団十郎の文麻呂は盛りの時期でもあり、スッキリした若々しい容姿もさることながら、台詞が歯切れ良い。この声の調子は、あの団十郎襲名時(昭和37年4月歌舞伎座)の「助六」の台詞の印象にも通じます。実は吉之助は何の根拠もなく文麻呂はちょっと声の調子を高くして流れ良くしゃべるのかなと想像していたもので、最初は団十郎の調子がちょっと強い感じに思えたのですが、芝居が進むにつれて、団十郎の台詞の歯切れ良いテンポは、若者らしく、この若書きの新劇の、ちょっと硬くて青い果実の雰囲気をよく表現できていると思い直しました。団十郎の「源氏物語」の光源氏の君も、この感じで想像して良いかなと思います。(この稿つづく)

(H29・9・26)


2)青春の息吹き・戦後歌舞伎の息吹き

『「竹取物語」はこうして生れた。世の中のどんなに偉い学者達が、どんなに精密な考証をにこの説を一笑に付そうとしても、作者はただもう執拗に主張し続けるだけなのです。「いえ、竹取物語はこうして生れたのです。そしてその作者は文麻呂う人です。……」』 (加藤道夫:「なよたけ」冒頭)

「なよたけ」は、不思議な戯曲だと思います。独白調の台詞が多く、語句が観念的かつ感傷的な感じがします。構成が冗漫で、戯曲としては拙い印象がしますが、一方で、如何にも若書きの、繊細で傷つきやすいピュアな感性が息づいていて、それゆえとても大切で愛おしい思いが痛切に胸を衝きます。(このことは昭和31年3月歌舞伎座での歌舞伎としての再演の映像でも確実に伝わってきます。)多分、作者には失恋か何かとても大きな喪失体験があって、その思いを「竹取物語」に託したのであろうなあということを想像します。もちろん太平洋戦争下の昭和18年秋から翌年春に掛けて本作が書かれ、その後作者は南方戦線へ出征せねばならなかった事情も大いに関係します。作者は「あとがき」のなかで、次のように書いています。

『僕が「なよたけ」を書いたのは、そういう(南方先生へ出征する)精神の不安を抹殺しようとする気持ち、何か生きていたという証拠を遺して置こうと云う気持ちであったようである。(中略)僕はまったく自分自身の為に、死を決意するためにこの劇を書いたのである。』(加藤道夫:「なよたけ」あとがき・昭和27年)

加藤道夫は、新劇の革新のために「なよたけ」を書いたとも言っています。「なよたけ」が雑誌に発表される以前から、新劇関係者の間で本作は評判になってい ました。ただ話題に挙がっても新劇では上演になかなか至らなかったものを、歌舞伎が新劇より4年も前に上演したというのは、皮肉なことでもあり、とても興味深いことです。戦後歌舞伎の状況を振り返ってみると、戦後、連合軍総司令部(GHQ)によって軍国主義的、封建主義的な芝居、仇討物などの上演が制限されました。その後、昭和22年11月東京劇場で「忠臣蔵」が上演されて統制は解除されますが、歌舞伎は一時的にとても厳しい状況に追い込まれました。民衆が民主主義の時代にふさわしい、新しい時代の演劇を求めていました。新しい時代が求めていたのは、歌舞伎ではありませんでした。そこで脚光を浴びたのが新劇であったのです。歌舞伎ものんびりしていたわけでなく、戦後すぐに昭和20年11月東劇の菊五郎劇団による「銀座復興」(水上滝太郎)など新しい形式の歌舞伎を模索する動きが興りました。その延長線上に昭和26年の「源氏物語」や「なよたけ抄」の上演があるのです。

加藤は歌舞伎での「なよたけ抄」初演(昭和26年)稽古の時には、相当面食らったようで、役者が他の役者の台詞を全然聞いてないで、いざ自分の番になると、まるで競泳選手がプールに飛び込むように、大きく息を吸い込んで、自分の台詞を際立たせようと懸命になると云って笑っていたそうです。この辺は、 約65年後の平成の歌舞伎でも、あまり変っておりませんね。

しかし、昭和31年3月歌舞伎座での「なよたけ」再演の映像を見ても、新しいスタイルの芝居を作り上げようという気概は、この頃の方が、今よりずっと強かったように思います。確かにいつもの癖は出ちゃっているようだけれど、新劇は新劇として そのようにやろうと頑張っていることは、確かに分かるのです。それをしないと他の演劇ジャンル(映画やテレビも含む)負けてしまうという危機感もとても強かったと思います。平成の現在でも、いろんな新作が試されていますけれど、その前提にまずあることは「歌舞伎らしい」新作にしようと云うことです。新しいことに挑戦すると言っているけれど、後ろ足は安全地帯に置いていると、まあそういう感じです。昭和26年「なよたけ抄」の上演について、折口信夫がこんなことを書いています。

『演出者に、感謝は感謝として、小言を申し上げたい気がした。役者がそう演出者の語を守るものでないということは聞いているが、あの人たち(歌舞伎役者)は、もっと痛めつけてもらっても、不服は言わない筈の教養人である。以前の歌舞伎の人々は、新劇だって、立派に新劇としてしおうせたものだ。(中略)だが今度の場合、ちょっともめりはりだって変わっていない舞台を見て、演出者も作者も、遠慮が過ぎたという気がした。歌舞伎の脇や三枚目に教えないで何が出来るものか。』(折口信夫:「なよたけ」の解釈・昭和26年8月)

折口信夫:かぶき讃 (中公文庫)(「なよたけ」の解釈を収録)

折口先生もなかなか厳しいことを仰いますねえ。しかし、昭和30年再演の映像を見る限り、吉之助は十一代目団十郎にも七代目梅幸にも二代目松緑についても、よく頑張ったなあと言いたい気がします。まあ新劇畑の方から見れば苦笑かも知れませんが、 新劇らしい息吹きを確かに感じさせます。台詞を七五で割ってしゃべって歌舞伎らしくやってやろうなんてことは、考えていない。新劇に正面からぶつかって、これをそのように具現化しようと苦闘しています。

ところで、この昭和31年3月歌舞伎座は、「二代目市川左団次十七回忌追善」と銘打たれています。云うまでもなく二代目左団次(昭和15年に没)は自由劇場を興し、新劇の基礎を作った役者です。明治42年11月に左団次が上演した「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(イプセン)は、新劇運動の先駆けとなりました。新劇というと旧劇(歌舞伎)の否定から始まったと信じられていますが、最初に新劇をやったのは歌舞伎役者なのです。左団次の新歌舞伎での貢献は云うまでもありません。昭和31年3月歌舞伎座昼の部では、「歌舞伎十八番・毛抜」と「鳥辺山心中」が上演されています。そして夜の部が「なよたけ」一本の通し上演です。これは松竹会長・大谷竹次郎も思い切った企画を実行したものだなあと思います。「なよたけ」は左団次とは関係ないわけですが、ここに込めた大谷のメッセージは、「高島屋さんの切り拓いた新しい歌舞伎への模索を私たちはこれからも継承していきます」という決意表明に相違ありません。その気概は映像からも十分伺えます。

加藤道夫:なよたけ

(H29・9・29)




  
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