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人情を細やかに描くことこそ肝要なり「あらしのよるに」

平成28年12月歌舞伎座:「あらしのよるに

中村獅童(ガブ)、尾上松也(メイ)


○平成28年12月歌舞伎座:「あらしのよるに」・その1

平成28年12月歌舞伎座での新作歌舞伎「あらしのよるに」を見てきました。これはきむらゆういち(文)・あべ弘士(絵)による絵本を歌舞伎化したもので、初演は昨年9月・京都南座のことでした。それが好評 だったので、今回は東京の歌舞伎座での再演 となったということです。実は吉之助は最初見るつもりなかったんでやんす。(とガブの口調になる。)ところが近所の行きつけの喫茶店に絵本「あらしのよるに」シリーズが全巻置いてありましてねえ。それをパラパラめくっているうちに、やっぱりこれは歌舞伎の方も見ておいた方がよいかなあと思って、それで見たんでやんす。

それにしても歌舞伎に狐忠信や葛の葉など動物を擬人化する伝統的手法があるとは云え、オオカミとヤギが主役の絵本を、子供からお年寄りまで幅広い客層を満足させる歌舞伎に仕上げることは、 大変な苦労だったと思います。 脚色は「NINAGAWA十二夜」や「陰陽師」を手がけた今井豊茂だけに、一見すると歌舞伎にならなそうな題材を、手際よく芝居に仕立てています。狂言作者と役者と裏方が一体となって、これをエンタテイメントにしようと懸命に努力していることも、よく伝わって来ました。そこのところを認めたうえで、吉之助が感じた作劇上の問題を書いてみたいと思います。

まず吉之助が感じるのは、「歌舞伎らしい芝居にしよう」ということを過度に意識し過ぎだということです。もうちょっと肩の力を抜いて、原作絵本の持ち味を素直に芝居にする、それで十分良いはずだと思います。例えば歌舞伎らしいってどういうことでしょうか?見得してツケを打つことですか。立ち回りですか。今回の芝居では隈取はオオカミの化粧のなかに溶け込んでいるので 違和感はないですが、隈取のことも挙げておきましょうか。隈取して見得して立ち回りをしてれば、派手でダイナミックで面白くて、それで歌舞伎らしい芝居に仕上がると、そういう安直な思い込みが、狂言作者のなかにないかということです。しかし、数ある古典歌舞伎の名作を御覧なさい。歌舞伎には、隈取も見得も立ち回りもない芝居がごまんとあります。そういう芝居の方が多いのです。

歌舞伎らしい手法・歌舞伎らしい芝居というイメージを、もう一度見直してもらいたいと思います。真山青果の「元禄忠臣蔵」はもう押しもおされぬ歌舞伎のレパートリーですが、吉之助がこの四十年超歌舞伎を見てきて、「元禄忠臣蔵」の幕が下りた後、近くの観客が「こういうのも歌舞伎なの?」と呟くのを何度も聞きました。しかし、隈取も見得も立ち回りもないけれど、「元禄忠臣蔵」は立派な歌舞伎です。だから歌舞伎は、自らの芝居にもっと自信を持つことです。歌舞伎には、作劇上の・演出上の引き出しがまだまだいっぱいあるのです。自らの可能性を限定しないことです。

吉之助が原作絵本を見ながら、頭に浮かんできたのは、オオカミのガブとヤギのメイ、このふたりの会話だけで進むこじんまりとした世話物、そんな感じでしたねえ。他の登場人物は要 らないと思います。例えば彼らがそれぞれの仲間たちから責められて、相手の事情を聞き出してこいと送り出される場面、そういうところはガブとメイの独白・あるいは対話のなかで描けば、それで十分なのです。吹雪のなかで立往生するふたりを、仲間のオオカミたちが追ってくる。そういう場面はオオカミの遠吠えだけで描けば良いのです。ガブはメイを守る決意をして、追っ手のオオカミたちと戦うわけですが、そんな場面も立ち回りにせずに、ガブが必死の形相で花道を駆けていくことで示せば良いと思います。大事なことは、主人公であるガブとメイの心情の揺れを、原作絵本以上に細やかに描いてみせることです。つまり、ふたりの会話が大事なのです。ガブ(獅童)とメイ(松也)はなかなか良いのに、残念ながら、今回の芝居を見ると、ふたりの 友情の機微が十分に描かれているとは言えません。一方、余計な枝葉のストーリーが長くて、何だかオオカミたちの御家騒動か仇討だかが中心みたいになって、肝心の友情の主題がどこかへ行ってしまいます。「あらしのよるに」には、見得もツケも立ち回りも要らないのじゃないで しょうか。歌舞伎の歴史のなかで、近松門左衛門から河竹黙阿弥に至るまで、歌舞伎で最も大事なことは、人情を細やかに描いて見せることだったはずです。(この稿つづく)

(H28・12・8)


○平成28年12月歌舞伎座:「あらしのよるに」・その2

三島由紀夫の「鰯売恋曳網」は昭和29年11月歌舞伎座の初演です。十七代目勘三郎の猿源氏と六代目歌右衛門の傾城蛍火の舞台は好評でしたが、後年、三島は座談会でこんなことを言っています。

「ばかなところがないな。ばかになりたくない一心なんだね、逆に。(笑)僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」 (雑誌「演劇界」での座談会での三島の発言:「三島由紀夫の実験歌舞伎」・昭和32年5月号)

三島が言っているのは役者(ここでは十七代目勘三郎)の演技についてですけれど、同じことは現代の新作(復活物も含む)の脚本にも言えます。絵本「あらしのよるに」シリーズに話を戻しますが、原作にヤギのメイが幼い時にお母さんを失ったという話が出てきます。オオカミに襲われたお母さんは、オオカミの耳を喰いちぎって抵抗しましたが、結局、食べられてしまうのですが、お母さんのおかげでメイは逃げることができました。この時に耳を喰いちぎられたオオカミが、群れのボスであるギロでした。

作者のきむら氏はこのエピソードを、お母さんはその身を以て「必死で生き抜け・何としても生き抜け」というメッセージをメイに授けたというつもりで書いたと思います。しかし、耳を喰いちぎられたオオカミがギロだったという設定が、原作ではその後のストーリー展開に効いていないように思われます。そもそもこの設定は読者に余計なことを考えさせます。ヤギに耳を喰いちぎられたギロはずっと恥辱を抱いて生きてきたのではないか、ヤギに憎しみを感じて生きてきたのではないか・・というようなことです。そこからその先のストーリーを何となく想像してしまう、そういう取っ掛かりを読者に与えてしまうのです。原作を読むと、ギロに恥辱とか恨みとか・そういうものがあったかどうかは、結局、見えてきません。そういうものが全体のガブとメイのストーリーのなかで重要な意味を持っていると到底思えません。それは主筋からすると、それは余計なことです。もしかしたら当初はきむら氏は別の展開を考えていたのかも知れませんねえ。いずれにせよここはきむら氏に迷いがあったと感じる箇所です。こういう箇所は、本当は作者が一番隠して欲しいところなのです。ところが、こういう原作の隠してほしいという箇所が、歌舞伎にとっての手掛かりになるのですなあ。歌舞伎版「あらしのよるに」では、そこのところが拡大されて、全体がギロに絡まるオオカミの跡目争いの御家騒動か仇討だかの因果話仕立てに されてしまいました。「この芝居のどこが歌舞伎なんだ」と言われたくない一心で、このため返って最も陳腐なパターンに落ちてしまった感じがあります。これだから歌舞伎はなあ・・という感じがします 。

もっとシンプルに、ガブとメイの友情に焦点を合わせて、「食べたいけれど一緒にいたい、食べられそうで怖いけれど一緒にいたい」という気持ちだけを膨らませて描けば良いのです。もちろん脚色の今井氏の作劇にも、良いところはたくさんあります。お互いの顔を知らないままふたりが嵐の翌日に再開する場面(原作ではここはその後のふたりの回想でしか描かれていません)での、ガブがお土産にとオズオズ差し出した草をメイが思わず「美味しそう」とパクッと食べちゃうところなど、とても良いです。ガブにとって観賞用の・それゆえお土産にふさわしいと思って持ってきた草をメイが食べちゃったことで、ガブはびっくりしますが、それでメイとの違いを意識すると同時に、自分を受け入れてくれてもらえた嬉しさを感じたでしょう。そこにガブとメイの友情の機微がさりげなく表現できています。こういうところをもっと膨らませて描けば良いのです。こじんまりとした世話物で、大きな筋の起伏なく芝居が進んでも良いのです。それでこそ絵本「あらしのよるに」が、それにふさわしい歌舞伎になります。

巷の書評を見ると絵本「あらしのよるに」について「人間社会の暗喩(メタファー)」ということを書いているものが多いですが、作者の創作過程でそういうものが作用したことが確かにあったとしても、そこは作者が一番隠したいところです。童話は、感性において受け取らねばならぬものです。子供はそうやって童話を(読むのではなく)感じるのです。歌舞伎で大事なことは、人情を細やかに描いて見せることです。人情がしっかり描けてさえいれば、それだけで歌舞伎になるのです。作劇にもっと自信を持つことです。

ガブ(獅童)とメイ(松也)は繊細な感情を描けて、好感の持てる演技でした。獅童は平成14年(2002)に「あらしのよるに」がNHKでテレビ番組となった時にガブ役を務め、それ以来、本作の歌舞伎化を熱望してきたそうです 。この絵本から歌舞伎が浮かぶとは、なかなかプロデュースのセンスがあるなあと感心しますね。それだけの意欲が感じられる熱演でありました。

(H29・12・17)

 

完全版 あらしのよるに (あらしのよるにシリーズ)
きむらゆういち(文)・あべ弘士(絵)


 

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