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玉三郎のお三輪・松緑の鱶七

平成27年12月歌舞伎座・「妹背山婦女庭訓・御殿」

坂東玉三郎(お三輪)、尾上松緑(漁師鱶七実は金輪五郎)


○平成27年12月歌舞伎座・「妹背山婦女庭訓・御殿」・その1

玉三郎にとっては平成24年1月・ル テアトル銀座以来のお三輪ということになります。このところ歌舞伎座に集中的に出演して大役を次々に演じているのは、体力・技芸のバランスにおいてピークにあると思われるこの時期にひとまず区切りを付けておこうということかと理解します。10月歌舞伎座での政岡・11月歌舞伎座での阿古屋を見てつくづく感じることは、玉三郎が役の心持ちを重視し・これを裏打ちとして「型」(つまり演技)を積み上げて行くこと、つまり「型とは心だ」ということを身を以て同じ舞台に立つ若手に示そうとしているということです。「どうしてこの役にこんな型があるのか・それは役にこのような心理の綾があるからそれ が型にこんな風に反映する」というようなプロセスです。しかし、それは心理主義的に自分なりの演技手順を突き詰めていくということではなくて、先人の型がまずあって・それを踏まえたうえで・玉三郎はその心理的な裏付けを求めているのです。この点において玉三郎は変革者ではありません。一方、玉三郎は論理(ロジック)の人であるようです。(そう云えば、どこかで玉三郎が「私は意外と理科系なんです」という趣旨のことを書いていたのを読んだ記憶があります。)だから論理の積み上げの過程で・これでは自分をこの役が演じられないと感じた時には、玉三郎は型を変更することを躊躇しないようです。例えば10月の「「先代萩・御殿」で小槙が八汐の悪事を暴露するように筋を変えた件などがそうです。今回のお三輪の疑着の相の件もそうです。玉三郎の心持ち重視はこのようなふたつの様相で現われます。しかし、それは同じところから発しています。それは心理的な裏付けのあるリアリズムなのです、

お三輪は玉三郎にとって仁の役です。恋する娘の気持ちとそれが裏切られる哀れさが等身大で表現できています。「それでこそ天晴れ高家の北の方」と持ち上げられてもホントはお三輪には実感が 全然ないのです。それでもお三輪は「たとへこの世は縁薄くとも、未来は添ふて給はれ」と自分に言い聞かせながら死んでいきます。そこに時代物の「・・然り。しかし、それで良いのか」という懐疑が生まれます。それは玉三郎の心持ちを裏打ちした行き方がリアルな重みを以て観客にしっかり伝わってくるからです。前回(平成24年1月)のお三輪の疑着の相表出の過程については、吉之助は若干不満を書きました。今回(平成27年12月)の玉三郎のお三輪でもその手順にさほど変化があったと見えませんでしたが、今回、吉之助が感じたのは落ち入りの時のお三輪の心理描写が良ければ、疑着の相の件はそう大した問題ではないのだなあと思えたことでした。疑着の相はどこにでもある村娘のほのかな恋心を無理やり時代物の論理に結び付けるための装置に過ぎない、そのように素直に思えたのは、それだけ玉三郎のお三輪の落ち入りがリアルに儚く感じられたからでしょう。(この稿つづく)

(H27・12・8)


○平成27年12月歌舞伎座・「妹背山婦女庭訓・御殿」・その2

松緑の鱶七はこれが3演目ということになります。だいぶ練れて来たようで、後半の鱶七の二度目の出(外見は鱶七のままですが・性根はもう金輪五郎になっているわけです)からは文句なく良い出来であ ったと思います。立派な時代物役者の風格が見えました。しかし、前半の鱶七についてはまだ改良の余地がありそうです。妹背山・御殿は時代物だから鱶七は時代の人物 である ・だから線が太い感じで押し通すべきだと考えるならば、これでも十分な出来だと評価する方もいらっしゃることかと思います。しかし、松緑の鱶七を見ると前半と後半の鱶七の印象にあまり差が見えません。吉之助が見るところでは、これでは物足りない。前半の鱶七 にもっと世話の味を濃くした方が良い。世話の軽みを出すことで鱶七の演技のダイナミクスを大きくできます。これが後半の鱶七 ・つまり金輪五郎のスケールの大きさを表出する時に効いて来るのです。

為政者の立派な宮殿に漁師の成りをした者が闖入してくる、この奇妙さを考えて欲しいと思います。「どうしてこんな男がこの場所にいるんだ」という不自然さ・ミスマッチングがこの場の面白さです。 漁師鱶七とは一体どういう男なのでしょうか。庶民の恰好をしているということは善方ということでしょうか。しかし、それは表面的にそう見えるだけのことであって、後半に金輪五郎の正体を顕わすところを見れば、入鹿とは立場は違えど、結局、庶民感覚から縁遠い冷たい政治の世界の同じ穴のムジナなのです。「妹背山・御殿」では訳の分からないことばかり が起こります。豆腐買もそう。いじめ官女もそうです。御殿の世界は、正常な感覚の庶民(ここではお三輪)から見れば、どこかズレた・捻じれた異常な世界です。そのような場において、前半の鱶七が 御殿の額縁にぴったりとはまる時代の様相を呈するのでは、ちょっと不満を感じますね。そこに世話の様式によって亀裂を強く入れて見せることで、御殿の世界の欺瞞をもっと明確なもの にできるでしょう。松緑の前半の鱶七は時代と世話の活け殺しを強くすることで、さらに良いものにできます。次いでながら、吉之助は平成27年9月歌舞伎座の松緑の髪結新三について注文を付けましたが、吉之助の言いたいことはどちらも同じことであって、大事なことは時代と世話の揺れ動きなのです。そこが松緑の当面の課題です。前半の鱶七が巧く出来るようになれば、髪結新三もきっと良くなるはずです。

(H27・12・10)


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