(TOP)         (戻る)

七五調を写実にしゃべるためのヒント〜松緑初役の髪結新三

平成27年9月・歌舞伎座:「梅雨小袖昔八丈・髪結新三」

尾上松緑(髪結新三)他


○松緑初役の髪結新三・その1

平成27年10月歌舞伎座・千秋楽の、松緑初役の「髪結新三」を見てきました。松緑の新三は富吉町新三内で、弥太五郎源七に甘く見られてカッと来て金を叩き返して啖呵を切る勢いに、気が短く・喧嘩早い新三の性格が良く出ていました。等身大で演じた新三に好感は持てますが、まだまだ課題が多い新三だと思います。総体に時代っぽい新三だと言えます。まあそういうところは松緑らしいと言えますが、これが「四谷怪談」の直助権兵衛ならばまあ良しとします。しかし、これは黙阿弥の生世話狂言なのですから、もっと世話に・写実にやることを心掛けてもらいたいのです。顔の化粧もなんだか隈を取ったみたいな時代の印象が強いものです。もっと自然にやれば良いのではないでしょうか。

『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。昔の人は、よく空っ世話っていったんですよ。空っ世話でいいねとか。いま言いませんけどね。それは要するに七五調にならないんですね。今で言う現代劇ですね。』(宇野信夫の対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)

「昭和の黙阿弥」と言われた作家宇野信夫が先代国太郎との対談でこんなことを言っていました。「世話物」とは本来・江戸の市井の人情・風俗を写実に(リアルに)描くものです。宇野は「空っ世話」ということを言っています。最近は「空っ世話」という言葉は死語同然ですが、要するに様式の要素が少ない 、写実の芝居のことです。つまり普通の話し言葉が世話物の台詞の原点です。しかし、宇野の「黙阿弥なんて時代物だ」という主張には吉之助は首肯できませんねえ。吉之助は黙阿弥も写実を志向していると考えるからです。黙阿弥を写実に演じられない役者が悪いのです。黙阿弥のせいではありません。

「髪結新三」で云えば、永代橋で忠七を蹴倒して「オイよく聞けよ・・」で始まる七五調の台詞、あるいは閻魔堂橋で源七と対決する時の七五調の台詞というのは、これはドラマ的に盛り上がっている時の・聞かせ所の台詞ですから、当然これは様式(時代)の方向に傾いて も良い台詞です。(それでも写実に近づける手法はありますがね、それについては後述。) しかし、問題なのは、ドラマ的には日常の会話の・なにげない台詞まで七五に割って言うことです。確かにこういう台詞も黙阿弥は七五調で書いていますが、これを真正直に七五で割ってしゃべったら駄目なのです。黙阿弥は役者がしゃべりやすいように台詞を書いたので、そのご親切が結果として七五になって表れただけのことです。こういうところは作者(黙阿弥)が一番隠したい所なのですから、七五のリズムを際立たせないようにして出来るだけ台詞の息を工夫して写実に崩す、そういうことを心掛けねばなりません。そうすることで黙阿弥を世話に出来るのです。ところがいつ頃からか・歌舞伎役者は、黙阿弥は七五の様式の芝居だと決め込んで、どんな台詞も七五で割るのがお約束だと思い込んでいるのです。だから宇野のように「黙阿弥なんて時代物だ」なんてことを言う人が出て来ます。(これ昭和57年の発言ですよ。二代目松緑も十七代目勘三郎も元気だった時期の発言です。なのにどうして?ということをちょっと考えてみてください。)

白子屋見世先の場の・どこの台詞でも良いですが、例えば新三の「もし忠七さん、あなた、お隠しなさっちゃいけませんぜ、何をって、あの、お熊さんをどうするつもりでございますか」という台詞で言えば、これを「もし忠七さん(七)/●あなた●( 五)/お隠しなさっちゃ(七)/いけませんぜ(五)/何をってあの(七)/お熊さんを●(七)/どうするつもりで(七)/ございますか(七)」という風に五と七で割って言うことは、役者にとっては言いやすいかも知れませんが、二拍子の七五のリズムにどっぷり浸った時代の言い回しです。この言い回しが写実に聞こえますか。聞けばお分かりだと思います。そこは黙阿弥が一番隠して欲しい箇所なのですから、七五の調子を息次ぎの間合いで崩して、台詞のリズムをできるだけ自然な方向へ持って行くことです。それが役者の工夫の見せどころです。「粋な男になりますぜ」なんてところが聞かせ所だと言う方がいますが、「粋な男に●(七)/なりますぜ(五)」なんて言い方は「ここで掛け声ください」という言い方であって、写実に言うならばこの台詞は一息でサラリと言うべきです。掛け声されるのが嫌いだった六代目菊五郎ならばこの台詞はそう言っただろうと吉之助は思いますね。六代目の台詞は調子が良かったに違いないでしょうが、これを七五で受け取っちゃうと間違えます。

そこで松緑のことですが、松緑は声が良く通り発声が明瞭で台詞の輪郭が強めに出ますから、それで時代の印象が自然と強くなるという面もありますが、全体的な台詞の印象として二拍子で七五の割りが明確に過ぎるようで、「七五で割って言うのが黙阿弥のお約束です」と云う臭みが強い。だから様式の感覚が強くなって、端っから時代の新三という印象になります。何度も言いますが、そういうところは作者・黙阿弥が一番隠して欲しいところなのですから、そこを工夫して如何に写実に聞かせるかが役者の仕事なのです。(この稿つづく)

(H27・11・2)


○松緑初役の髪結新三・その2

黙阿弥の生世話物が重ったるく時代っぽくなるのは、別に松緑に限ったことではありません。 そのような役者は他にもたくさんいます。吉之助が思うには、昭和の終り頃から歌舞伎の黙阿弥の台詞は既にテンポが伸びて重ったるい感じでした。七五調を二拍子感覚で処理する傾向がその頃からありました。吉之助がこれをダラダラ調と呼んでいることは、ご存知の通りです。例えば永代橋で忠七を蹴倒して言う新三の長台詞で云えば、「一銭職(いっせんしょく)と昔から下がった稼業の世渡りに、にこにこ笑った大黒(だいこく)の口をつぼめた傘(からかさ)も列(なら)んでさして来たからは、相合傘の五分と五分・・」は、この台詞を七五で割るならば、

一銭職と(七)/昔から(五)/下がった稼業の(七)/世渡りに(五)/にこにこ笑った(七)/大黒の(五)/口をつぼめた(七)/傘も(五)/列んでさして(七)/来たからは(五)/相合傘の(七)/五分と五分
(五)・・・」

ということになります。これを二拍子のダラダラ調でしゃべるならば、七音と五音の繰り返しですから、五の節が当然短くなります。黙阿弥の七五調は音楽だと云う方がよくいらっしゃいます(そのこと自体は正しいのですが ね)。この言い廻しを音楽として聞くと、五の節を早くしゃべっているように聞こえると思います。松緑の台詞もそうです。松緑は江戸前に小気味良くしゃべっているつもりでしょうが、基調のリズムの二拍子が強いので機械的な印象 です。これでは写実になりません。こういうのは時代の台詞廻しなのです。しかし、昭和の終り頃から黙阿弥の七五調はこの言い方が主流になっています。劇評家もそのことを指摘できません。
演じる方も見る方も感覚が保守化して、こうすると様式っぽい感じがするのでしょうなあ。

黙阿弥の様式というものは確かにあります。しかし、これは黙阿弥の七五調は七の節と五の節を同じ長さでしゃべるのが正しいのです。すると七の節を心持ち早く・五の節を心持ちたっぷりとしゃべる感覚になる。つまり七五調の台詞というのは、そのなかに緩慢なリズムの揺らぎを持っているのです。言い換えれば七が時代の感覚・五が世話の感覚、台詞のなかに時代と世話の揺らぎがあるということです。それが黙阿弥の七五調のリズムです。こういうことは六代目菊五郎の古い録音でも聴けば、すぐ分かることなのですがねえ。(このことは別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」で詳説していますから、そちらをご覧ください。)

ですから新三の七五の台詞を写実の感覚に近づけるためには、五の節をたっぷり言う時にどのように自分の感情をニュアンスで加えるかが、とても大事なことになります。例えば「昔から」という言葉はその後の「下がった稼業の」に意味が掛かっています。ところがどの役者も一銭職と昔から」で台詞を切ってここで息を継ぎますね。これで台詞の流れが途切れてしまうという感覚が全然ないのだな。意味を考えないで台詞をしゃべっているからです。ここは「昔から」を後の「下がった」に息が続くようにイントネーションの作り方を工夫せねばなりません。「世渡りに」はここで台詞を区切っても良いですが、「世渡り」にどのような新三の心情を込めたら良いでしょうか。新三は一銭職の世渡りと言っています。これは自嘲を含んだ台詞か 、胸を張って言うべき台詞か。どちらが正しいは明らかです。ここを強く張ったら時代になってしまうのです。「大黒の」は「だいこく」の二字目にアクセントが来ますから、ここで言葉を膨らませるのが良い。「からかさ」も同様に二字目にアクセントになります。「来たからは」 の箇所をどのように言うのかはとても大事なことです。その次の「相合傘の五分と五分」 は時代に張り上げていう箇所で、台詞の色合いがここで変わるからです。「来たからは」はその前の助走部分に当たるのですから、ここの言い方次第で「相合傘の五分と五分」の印象が変わって来ます。「来たからは」は「からは」の部分を少し引っ張った方が良いでしょうね。

このように七五調の五の箇所は世話の揺らぎなのですから、常に言葉にニュアンスを加える箇所であると心得てもらいたいのです。台詞を七五に割る前に、まず台詞を読んで言葉の抑揚を考えてみることです。黙阿弥は抑揚を考えて台詞を書いていると感心すると思います。五の節のニュアンスの積み重ねによって、黙阿弥の七五調を写実に出来るのです。優れた役者がしゃべる台詞は音楽的に聞こえるものです。台詞を音楽に乗せるのではありません。言葉の自然な抑揚が音楽の感覚を生むのです。「黙阿弥の七五調は音楽である」ということをそのような意味で云うのならば、吉之助はこれを認めるでしょう。その辺を工夫できれば、松緑の新三の印象も随分変わってくると思いますが。

(H27・11・10)

(後記)

黙阿弥の七五調のリズムについては「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」・黙阿弥の七五調の台詞術」を参照ください。


 (TOP)         (戻る)