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新歌舞伎の行方

平成27年1月歌舞伎座:「番町皿屋敷」

中村吉右衛門(青山播磨)、中村芝雀(お菊


○新歌舞伎の行方・その1

武智鉄二は論考「武智歌舞伎の演出」(昭和30年)のなかで、歌舞伎の様式の十二のパターンということを提唱し、歌舞伎役者はこの十二の様式を的確に描き分けねばならないと しました。十二というのはまあ数字合わせにしても、歌舞伎の様式を分類してみれば凡そそのくらいあるということです。歌舞伎は四百年の歴史のなかでさまざまなパターンの芝居を試行錯誤し、 様々な様式を蓄積して財産としてきました。しかし、吉之助が現状を見る限りは、平成歌舞伎は「十二の様式を的確に描き分ける」どころではなくて、どれもこれも 区別なく・ 一様な感覚で処理する傾向が強まっているようです。つまり吉之助がよく言うところの、いわゆる「歌舞伎らしさ」という感覚ですがね。 これがあれば近松でも出雲でも南北でも黙阿弥でも新歌舞伎でも新作でも歌舞伎らしくなるという、魔法の方程式です。

昨今は世話(つまり写実)の描写が下手になって、世話と時代の活け殺しということがホントにできなくなりました。だから表現の彫りが浅くなり、全体の感触が時代の方に傾いています。台詞の末尾を引き延ばして抑揚を付けて転がせば、「どうだい、これで歌舞伎らしいだろ」というような風潮がある。「歌舞伎らしさ」という様式が、出来上がりつつあるようです。 観客はそういうのが歌舞伎だと刷り込まれつつあり、そのことを劇評家も全然指摘しようとしません。特に吉之助が危惧するのが、黙阿弥の世話物と新歌舞伎です。現状、とても危なっかしいところに来ていると思います。

ところで今月(平成27年1月)歌舞伎座で上演され ている新歌舞伎名作「番町皿屋敷」は大正5年(1916年) 2月本郷座の初演ですから、本年で初演99年目ということです。歌舞伎四百年の歴史から見れば、ついこの間のことです。吉之助もその半分 ほどの時間をシェアしてるわけです。初演の二代目左団次は昭和15年没ですが、左団次劇団の副将格であった初代猿翁は昭和38年・三代目寿海は昭和46年まで存命でした。吉之助はこの二人を生(なま)では見ていませんが、吉之助が歌舞伎を見始めた 頃にはこの二人と共演した役者が大勢 いましたから、左団次の新歌舞伎群(岡本綺堂や真山青果など)はまだまだ大正浪漫の雰囲気を残していたのです。六代目菊五郎の新歌舞伎群(長谷川伸や宇野信夫など) でも、菊五郎劇団の二代目松緑や十七代目勘三郎・七代目梅幸が元気でしたから、彼らの舞台を観ながら・吉之助は在りし日の六代目菊五郎を想像したもので した。

しかし、実は吉之助は四十年前頃に見た新歌舞伎の舞台と、現在歌舞伎座で見る新歌舞伎はずいぶん感触が違うなあと思うことが多いのです。どこが違うかというと、まずテンポが違います。新歌舞伎の台詞は本来タンタンタンと機関銃のように小気味良く出るものです。しかし、現在は台詞が粘って伸びている役者が多い。特に厭なのが 、台詞の語尾が伸びることです。すべての役者がそうだというわけでもないですが、芝居というのはアンサンブルですから、 様式に沿わない役者が混じるとそれだけで全体が崩壊してしまいます。たとえば、これは長谷川伸の作品ですが、「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛の幕切れの台詞、「棒っ切れを振り回してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛かんざし巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんにせめて見てもらう、駒形のしがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」という台詞の「横綱の土俵入りでござんす」 ですが、故・十八代目勘三郎は大きく張って引き伸ばしていました。これは全然ダメです。新歌舞伎の様式になっていません。親父さん(十七代目)だって・二代目松緑だってあんな張り上げ方はしませんでした。 伝統を受け継ぐことに敏感であったはずの十八代目勘三郎でさえこうでした。歌舞伎役者というのは 「らしさ」にはこだわるけど、フォルムということをあまり考えないのだなあ。

これは恐らく現代歌舞伎が急速に保守化していることが背景にあると思います。まあ見方によれば、新歌舞伎が古典化して来たということなのでしょう。「歌舞伎らしさ」という様式で練れて来て、「新」歌舞伎ではなくなって来たということ でしょうか。

 


○新歌舞伎の行方・その2

「新歌舞伎というのはどこが歌舞伎なのですか?ちょっと見たところでは新劇役者の時代劇とあまり変わらないようですが・・」という質問を受けることがあります。そういう疑問を持つのは、よく理解ができます。歌舞伎という芝居が筋が荒唐無稽で・派手な化粧や衣装で・仰々しい身振りをして・デフォルメされた抑揚を持った台詞廻しで・テンポが間延びして・・というイメージがあって・そういうのが「古典」だと思っているので、新歌舞伎というと時代考証もしっかりして戯曲としては出来ているのだろうけれど、どうも「古典」に思えないというところにあると思います。しかし、新歌舞伎の 名作「番町皿屋敷」 でさえ実は出来てから100年経っていないわけです。だとすると新歌舞伎 というものを「古典」とするのに異論はないですが、いわゆる古典・黙阿弥とか義太夫狂言などと同列で考えることには無理があるわけです。それはまだまだ生ものの香りを残した・生まれ立ての「古典」です。だから新歌舞伎には別の捉え方をせねばならないと思います。

新歌舞伎 は明治以降に座付作者ではない文芸作家によって歌舞伎上演のために書かれた作品のことを言いますが、厳密に言えば明治末期から大正〜昭和初期までに二代目左団次のために書かれた歌舞伎を中心とした同時期の作品群を指します。さらに同時期の左団次とは関係ない坪内逍遥の作品・あるいは六代目菊五郎の初演した長谷川伸などの作品群も含めることが出来ます。時期としては大正期を中心としたもので、つまり大正浪漫・教養主義の香りを芬々(ふんぷん)させるものです。そのような時代の空気を濃厚に反映したフォルムを持つ歌舞伎なのです。武智が歌舞伎の様式の十二のパターンとし、最後の十二番目に「二代目左団次による外国演劇の影響を受けた新歌舞伎」(武智鉄二:「武智歌舞伎の演出」・昭和30年)を置いたのはそういう意味です。

二代目左団次の新歌舞伎のフォルムについては、吉之助は別稿「左団次劇の様式」に詳しく述べましたから、それをご覧ください。だから吉之助はいつも思うのですが、歌舞伎の十二番目の様式である「二代目左団次の新歌舞伎」というのは確立されてまだ百年も経っていない、しかも左団次の腹心の部下(初代猿翁・三代目寿海)がついこの間(と云ってももう五十年くらい前だが)まで生きていたのだから、 今の歌舞伎役者が、いちばんバッチリ表現できなければならない・もっとも近しい様式であるはずです。ところが、吉之助から見ると昨今の新歌舞伎はフォルムが実に崩れているのです。昨今の歌舞伎役者が黙阿弥の生世話の感覚が取れないとか・義太夫狂言がどうも巧くないとか云うけれど、新歌舞伎はそういう次元でないところでもっと崩れている。このことは、要するに歌舞伎役者は「新歌舞伎のフォルム」なんて ものがあることを端から考えていないということだと思います。大正期に初演された新作歌舞伎だくらいにしか考えていないのではないか。

このことは実に信じがたいことです。人によって差はあれど歌舞伎役者に「伝統を受け継ぐ」ということを真面目に考えない人はいないと思います。けれど現実としてはこういうことなのです。昭和31年・二代目左団次十七回忌ということで・「今様薩摩歌」が再演され、初代白鸚(八代目幸四郎)が菱川源五兵衛を演じました。この舞台稽古で新内を聴きながらじっと座っている源五兵衛を左団次がどう演じたのかが問題になったそうです。左団次劇団の名脇役であった荒次郎に・この場面を左団次がどう演じたかを訊ねると、荒次郎は「何もしませんでした」と答えたそうです。「じゃあ、ここはどうしたんだ」と聴くと荒次郎は「じっとしていました」と答える。「これでは何も分からない・この場面を何もしないで持たせるとはやっぱり伯父さんは偉いんだなあ」ということになって、仕方なく、白鸚はこの場面を自分で工夫して勤めたということです。このエピソードを紹介していた評論(出典は敢えて伏す)はこう結論していました。「二代目左団次は型を残さず、作品だけを残した」。

証言した荒次郎が悪いのではないです。二代目左団次の源五兵衛は確かにただ何もせず・じっとしていたのでしょう。これは貴重な証言です。しかし、初演者二代目左団次が傍目から見れば「ただ何もせず・じっとしていた」ように見えたところに、左団次の型を見なければならないのですよ。傍目から見れば「ただ何もせず・じっとしていた」ように見えたところに、左団次の役の解釈(心)を 読まねばならないのですよ。傍目から見れば「ただ何もせず・じっとしていた」ように見えたところに、左団次劇のフォルムを感じなければならないのですよ。そのように考えてこそ歌舞伎という演劇は伝統芸能だといえるのではないのでしょうか。

 


○新歌舞伎の行方・その3

芝居でも小説でも音楽でも、作品というものは、それが成立した時代を離れて論じることはできないものです。「番町皿屋敷」は大正5年(1916年) 2月本郷座の初演ですから、この時代の空気を何かの形で取り込んでいます。大正5年というのは第1次世界大戦の真っ最中です。世界が戦乱の渦に巻き込まれており、社会のなかの個人の責任・役割と、個人としての思いにどう折り合いを付けるかということが、特に若者の切実な問題でした。かつての江戸の暴れ者・旗本奴も、また社会の締め付けに息苦しさを感じており、自分が生きることの意味を問い続けました。(別稿「行き過ぎたりや」をご覧ください。)元禄の旗本奴と大正の若者の心情がそこで重なってきます。だから「番町皿屋敷」は新しい歌舞伎なのです。

「番町皿屋敷」 の大筋は、女は恋人の心を試すために家宝の皿を割り・心を疑われた男は怒って女を殺すと、表面的には確かにそういう筋です。しかし、この芝居をそんな風に読んだのでは本作を理解したことになりません。お菊を殺そうとする播磨に奴・権次が止めに入ります。「なんぼ大切の御道具じゃというても、ひとりの命を一枚の皿と取り替えるとは、このごろ流行る取替べえの飴よりもあまり無造作の話ではござりませぬか」これは権次が言うことがまったく正しいのです。播磨だってそんなことは分かっています。しかし、播磨はそういうことで怒っているのではないとはっきり言っています。

「播磨が今日の無念さは、おのれ等の知るところでない。いかに大切の宝であろうとも、人間一人の命を皿一枚に換えようとは思わぬ。皿が惜しさにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡ちがいだ。」

それでは播磨は何を怒っているのか。播磨が怒っているのは、もっと大きなことです。これは世界苦と呼ぶのがふさわしいものです。そのことは1916年前後の世界の芸術思潮を考えれば理解ができます。このことは別稿「左団次劇の様式」のノイエ・ザッハリッヒカイトの項をご覧ください。

但し書きを付けますが、これを「絶望」だと解釈してはいけません。絶望が何かを生み出すことはありません。恋人に自分の誠の心を疑われた播磨の絶望して自暴自棄の心から播磨がお菊を斬るのではありません。むしろ播磨がお菊に箱から皿を取り出させ、「一枚・・二枚・・」と割っていく行為に、播磨がお菊のことをどれほど愛していたかが表れています。これは播磨の無上の愛の表現です。これについては別稿「禁問とかぶき的心情」をご覧ください。この場面は官能的でなければなりません。播磨はお菊の眼を見つめながら皿を割り、お菊は播磨の眼をぐっと強く見返す・そして播磨の眼のなかに愛を見出すようでなければなりません。現行の歌舞伎みたいに、お菊は震えながら床に突っ伏し皿を割るのが正視できない、まして播磨の眼も見れないようでは官能的な場面が現出しません。それは元本の「播州皿屋敷」のイメージを引きずっているからなのですが、綺堂がそのような材料からまったく新しい愛のドラマを作り上げたというところが大事なことなのです。

まず現行歌舞伎で不満なのは、序幕の播磨の有名な台詞「伯母様は苦手じゃ」です。どの役者もちょっと甘えたような・かすかな笑いも含んで「仕方ないなあ〜」みたい感じでこの台詞を「オバサマハ・ニガテジャア〜」と末尾を長く引っ張って、抑揚付けて転がします。これは左団次劇のフォルムではありません。もっと自嘲的な・苦味を含んだ感じでこの台詞を言わねばなりません。ということは吐き捨てる感じとまでいかなくても、末尾は引っ張ってはならないということです。そうしないと左団次劇のフォルムにならないのです。

恐らく播磨は早くに両親を亡くし・伯母を後見人にして育ってきたと思います。播磨は伯母に頭があがりません。また播磨は伯母を愛してもいます。だから伯母の言うことは絶対です。伯母は播磨に喧嘩を仕掛けた町奴に対しても毅然たる態度を見せます。さすが播磨の伯母だけあって男勝りなところがある・男だったら立派な男伊達であったろうと思わせますが、この伯母がいわば社会常識を体現しています。あるいは絶対的な「家」というものを体現しています。伯母が言うことはまったく正しいことで、そのことを播磨はよく分かっているのです。理屈では分かっているけれど、播磨は素直に従えません。かぶき者の振る舞いをすることで播磨は伯母を裏切り、家を裏切り、社会を裏切っているという意識が播磨にあります。「自分は社会に適応できない人間だ」と感じて、自分を内心責めています。

そのような播磨が安らぎを覚え、このためになら生きていけると感じているのは、まったくお菊ゆえです。しかし、一方で播磨は「白柄組のつきあいにも吉原には一度も足踏みせず・丹前風呂でも女子の盃は手に取らず」と言っていますが、女性に関することだけでなく・恐らく旗本奴にあるまじき「お堅い振る舞い」をしていたに違いありません。ということは、 お菊のことで、播磨はかぶき者の仲間たち(白柄組)に対しても裏切り続けているということなのです。

 


○新歌舞伎の行方・その4

別稿「特別講座・かぶき的心情」において、かぶき的心情の ドラマのバリエーションとして、自ら命を捨てる覚悟を示すことで・その思いの強さによって相手の心を変えようとする行為を挙げました。命を賭けて頼み事をされたら、頼まれた者はそれに応えなければならない 、その答えを聞いた者は死なねばならない、答えた者も命を捨てねばならないのです。歌舞伎にはそのようなドラマが山ほどあります。「盛綱陣屋」・「沼津」然り、「勧進帳」然り。そして「番町皿屋敷」 もそうです。「番町皿屋敷」 は、状況が許さないなかでお菊は命を賭けて播磨に自分を愛することの証を求めた・播磨は命を捨ててそれに応えて共に滅びたという、そのようなドラマなのです。別稿「禁問とかぶき的心情」にワーグナーの手記を引用しましたから是非ご覧ください。「私の名前を聞いてはなりません」と夫(ローエングリン)に硬く止められていたのにその名を聞いてしまったエルザのことです。エルザとはお菊のことではありませんか。

『はっきりこうなることを知りながら・愛の避け得ぬ本質のゆえに倒れ・身を破滅させたこの女性、恋焦がれながら愛する彼をしっかりと捉えられないと感じた時・わが身を破滅させてしまいたいと思ったこの女性、まさしくローエングリンに触れたがために身を滅ぼしていかねばならず・またこの男をも破滅させてしまう女性。そのようにしか愛することのできなかった女性。・・』(( リヒャルト・ワーグナー:「我が友への告知」・1851年)

このことがしっかり掴めていないと、些細な場面の設計までもがブレてきます。たとえば家宝の皿が割られたと聞いて播磨は思わず声を荒らげますが、割ったのがお菊だと聞くとあっさりこれを許して・お菊に優しい声を掛け、そして井戸へ皿のかけらを捨てるお菊を終始笑みを 含みながら見 やるなどという演技では、後でお菊が故意に皿を割ったと聞いて播磨が一転して憤る理由が全然分からないと思います。だからどこにでもある男と女の心の行き違いのドラマにしか見えなくなります。

青山家の掟は、家宝の皿を割ったなら・いかなる理由であろうと・割った者は手討ちに処すべしです。家宝の皿が割られたと聞いて播磨は思わず怒りますが、犯人がお菊だと聞くと一瞬気が呑まれる。播磨にとってお菊は大事な恋人ですから、播磨も一瞬どうして良いか分からなくなる。もちろん許すしかないわけですが、これで播磨はまたひとつ重荷を背負うことにな るのです。播磨はまたしても「家」を裏切ってしまったということです。イヤハヤとんだことをしてくれた・・というのが播磨の本音です。笑えるはずがない。家宝の皿を割ったのがお菊でなければ、播磨はその者を成敗したでしょう。 お菊だったから許してしまった・・播磨は苦虫を噛み潰した気分であったに違いありません。井戸へ皿のかけらを捨てるお菊を終始笑みを 含みながら見るなんて気分に播磨がなれるはずがありません。

お菊が皿を割るのを目撃したお仙が用人柴田十太夫にこのことを話してしまうのは、お仙のなかにお菊に対するかすかな悪意があったに違いないという解釈があるようですが、これもまったく余計なことです。「家宝の皿を割った割った者は手討ちに処する」という 掟があるということは、目撃したのにこれを知らせなかった者も同罪になるということなのです。連座が怖いからお仙はこれを正直に報告したに過ぎません。それだけのことに、どうして余計な意味を持たせようとするのでしょうか。どうしてそのような解釈になるかと言えば、お仙が告げ口さえしなければお菊は助かって二人は幸せに暮らしていけたのに・・という気持ちが観客に起こりかねないからで、そちらのあらぬ方向へドラマを誘導しようとする意図が働いていますね。おかげで「番町皿屋敷」のドラマの本質がますます見えなくなります。ドラマはシンプルに読まねばなりません。

 


○新歌舞伎の行方・その5

平成27年1月歌舞伎座の「番町皿屋敷」の舞台ですが、恋人の心を疑ってしまった愚かな女と・疑われて怒った潔癖症の男の悲劇には確かに見えます。全体的に幕末芝居の雰囲気がして、よく言えばまあ古典的な感触 です。それは幕末の怪談芝居「播州皿屋敷」の雰囲気を引きずっているからです。だから観客から初春芝居になんで「皿屋敷」なの?という声が出てくることになる。それは舞台が観客に大正浪漫の息吹きを感じさせないからです。

どうしてそうなるかと言えば、一番大きな原因は播磨を演じる吉右衛門が台詞を七五調の歌う感覚で抑揚付けて転がして、末尾を伸ばして詠嘆させるせいです。たとえば終盤の、お菊の遺骸を投げ込んだ井戸を見込んで播磨が言う台詞を見て みましょう。

「家重代の宝も砕けた。播磨が一生の恋もほろびた。」

これを七五の感覚で処理するとこうなります。たとえば「タカラモ」は四ですが、これを五の間合いでゆっくり抑揚つけて転がす。末尾の「ビ〜タ〜」は思い切り引き伸ばして詠嘆する。こうすると何となくいわゆる歌舞伎らしい歌う台詞廻し、要するに「俺たちはいつだってこんな感じでやってきた」という感じになります。これは旧劇(江戸時代の芝居・つまり歌舞伎のこと)の感覚ですね。

イエジュウダイノ(七)/タカラモ(五)/クダケタ(五)/ハリマガ(五)/イッショウノ(五)/コイモホロ(五)/ビ〜タ〜(五)/

これは左団次劇の様式では、こうなるのです。台詞は二拍子が基調ですが、「ジュウダイノ」と「イッショウノ」ではリズムが破たんしています。台詞ではこの言葉が核心の部分であり、そこに台詞の力点が掛かっているからです。

イエ/ジュウダイノ/タカ/ラモ/クダ/ケタ/ハリ/マガ/イッショウノ/コイモ/ホロ/ビタ/

吉之助はよく引き合いに出しますが、作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏がこんなことを言っていますね。

『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)

「播磨が一生の恋もほろびた」で歌って詠嘆するのは、吉之助にとって、女を殺してもセーフという感覚です。「あ〜あ大事な恋人を殺しちゃった」という自分だけの悲壮感に酔っていて、何の苦悩も・反省も感じられない。世界苦なんてものは感じられない。これでは新歌舞伎になりません。大事なことは、左団次劇の様式は、概念的には旧劇の七五調の感覚を拒否するところから始まっているということです。これについては別稿「左団次劇の様式」を参照していただきたいですが、左団次劇の二拍子のリズムとは急き立てるリズム です。坪内逍遥は20世紀初頭の状況を「無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代」と書いています。これは日本だけでなく・この時代の世界全体を覆っていた気分です。二拍子とは二十世紀初頭の気分を表徴するリズムなのです。

 


○新歌舞伎の行方・その6

現代の我々の新歌舞伎のイメージは直接的には三代目寿海(明治19年〜昭和46年)から来ています。三代目寿海は左団次劇団の副将格で、左団次の死後はその作品のほとんどを寿海が継承しました。寿海は台詞廻しの巧さに定評のある役者で、緩急を巧く使っ た音楽的な台詞廻しと言われました。「新歌舞伎の魅力は台詞に緩急を付けて朗々と音楽的に歌うことである」と書いているのが巷の劇評によくあるのは寿海の印象から来ているところが大きいわけです。

しかし、これについては別稿「左団次劇の様式」で触れた通り、寿海の台詞は微妙な緩急を付けているように聞こえるかも知れませんが、台詞の基調のリズムである二拍子を しっかり守っているのです。野球のピッチャーに例えれば、漫然と見ていると変化球を織り交ぜた緩急自在のピッチングに見えるけれども、実は寿海は最後の胸元直球に左団次の後継者たる意地を掛けているのであって、最後の決め球の胸元直球を最大限に活かすために、その前の変化球を投げているということです。だから台詞の二拍子のリズムを常に意識して、最後は胸元直球で決める・つまり台詞の末尾を引き伸ばさないでビシッと押す、これが左団次の新歌舞伎の台詞のフォルムです。 つまり「緩急つけて歌わせる」というところには新歌舞伎のフォルムの本質はないのです。

そういうことは遺された寿海の映像・録音でももちろん確認ができますが、むしろそういうものは傍証に過ぎないのであって、台詞を息を以て正しく読めば誰でも分かることなのです。多くの作家が左団次の為に芝居を書きました。彼らは 左団次に上演してもらう為に・左団次にしゃべってもらう為に芝居を書いたのです。その台詞は当然左団次の口調を意識して書かれることになります。左団次以外の役の台詞も、また左団次を活かす為の口調を自然と意識して書かれます。そこで綺堂にも青果にも鬼太郎にも、左団次という共通項で括ることができる或る感覚が生まれます。それが左団次劇の様式という共通した感覚を生むのです。そういうことを理解するためには「番町皿屋敷」の播磨を演じる役者の台詞だけ聞いて・あれは調子が良かった・これは 緩急の心地が良かったなどと表面的なところを聞いているだけではとうてい無理です。左団次が初演した作品群の台詞のなかに潜んでいるリズム・つまり作家が左団次の想定してこうしゃべって欲しいと思っているリズムを想像しなければなりません。 大事なことは、フォルムを意識して台詞を聞くことです。

吉之助はクラシック音楽を聴きますから、歌舞伎でもフォルムを意識して舞台を見ることは習い性となっています。クラシック音楽では、ベートーヴェンにはベートーヴェンの、ショパンにはショパンの、固有のフォルムがある、だからベートーヴェンをショパンのように弾くことはあり得ないのです。次いでながら、吉之助の師匠である武智鉄二も出発点にクラシック音楽がありますから、吉之助と同様の態度です。歌舞伎は伝統芸能なのですから、役者はもっとフォルムのことを意識せねばなりません。

吉右衛門は腹の底から息を絞り出すような台詞をしゃべらせれば、素晴らしい役者です。たとえば本年2月歌舞伎座での「組討」での熊谷直実が敦盛を呼び返す「オーイ、オーイ」の抑揚、「平家の方に隠れなき、無官の太夫敦盛を熊谷次郎直実討取ったり」の台詞の言い回しなどは聞く者の気分を底から持ち上げるようで、実に素晴らしかったと思います。しかし、一方、吉右衛門はタテ言葉のように、息をグッと腹に詰めて二拍子で緊張感を維持して言う台詞は苦手とするようです。たとえば昨年12月国立劇場での「岡崎」での政右衛門の「この倅を留め置き、敵の鉾先を挫かふと思召す先生の御思案・・・」以下のクライマックスの長台詞などはリズムの腰が砕けて、正直に申せば無残な出来でした。新歌舞伎の播磨の台詞(あるいは「修善寺物語」の夜叉王でも同様ですが)も、二拍子の畳み掛ける緊張感を維持できず、息を伸ばして間を取って逃げている ように感じられます。息がつんでいないから、台詞を持ちこたえられないということです。間合いを大きく取れば、息を大きく絞り出すことでその辺を巧く処理できる (はっきり言えば息がつんでないのを誤魔化せる)ということかと思いますが、そうすると左団次劇のフォルムからま すます遠くなる。いずれにせよ左団次劇で肝心なことは、台詞の末尾を引き伸ばさないことです。それだけでも印象はかなり変わると思います。

それにしても、吉右衛門の播磨も・芝雀のお菊も幕末の怪談芝居「播州皿屋敷」の雰囲気を引きずって、いわゆる「歌舞伎らしさ」の感覚にどっぷり浸かった演技ですねえ。二代目左団次と新歌舞伎の作者たちが目指したものは何であったかをよく考えて欲しいと思います。江戸という題材を使っているから・歌舞伎役者を起用しているから、それは一応歌舞伎ということになるのだけれど、同時代の観客のための・新しい感覚の芝居を目指したのです。「古典」というものは新作が繰り返し演じられて・やがてだんだん古典になっていくものです。最初から古典として生まれた新作などないのです。「番町皿屋敷」も、そうやって百年の間、何度も上演されてだいぶ古典になってきたわけですが、左団次劇には左団次劇の様式というものがあるのです。まだ生まれてたかだか百年しか経っておらぬのだから、左団次劇ぐらいはバッチリ描き分けてもらいたいものです。それができるようになれば、現行歌舞伎の、黙阿弥も南北もだいぶ感触が変わってくると思いますが。

 


○新歌舞伎の行方・その7

「番町皿屋敷」初演時に綺堂は雑誌「演芸画報」に次のような文章を寄せています。

『何うかして殺す方にも殺される方にも相当の理屈があって、何方にも同情を惹き得るやうに書いてみたいと思ひ立つたのが、この脚本を書く最初の動機でした。で先づ何かの面倒を避ける為に、主人の青山播磨と召使のお菊を得心づくの恋に陥して置きました。』(岡本綺堂:「皿屋敷のこと」・雑誌「演芸画報」・大正6年3月)

人気役者(二代目左団次と二代目松蔦)が演じるのだから気の悪い役がいけないのは当然ですが、「何かの面倒を避ける為」と綺堂が書いているのは、必ず「たかが一枚の皿を割ったくらいのことで人の命を奪うのは酷い」という世間の批判が出るということです。近代人ならば、播磨の 行為に批判を抱くのは当然です。綺堂はそのために奴権次を登場させて、「ひとりの命を一枚の皿と取り替えるとは、このごろ流行る取替べえの飴よりもあまり無造作の話ではござりませぬか」と随分しつこく言わせています。これは綺堂が世間の批判に備えて いるのです。これに対して播磨は、「皿が惜しさにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡ちがいだ」と言います。

だから播磨は「たかが一枚の皿を割ったくらいのことで・・」という批判を乗り越えるに足る心情のドラマを現出して見せなければなりません。それが現行歌舞伎の舞台で見られるような、
恋人の心を疑ってしまった女と・疑われて怒った男、思いがすれ違ってしまったふたりの悲劇ということでしょうか。「どちらの側にも相当の理屈があって、どちらにも同情を惹き得る」ドラマにするためには、そのような個人的な事情では不十分だと思いますねえ。初演時の大正期の観客にも共感できる・もっと大きい世界苦とも言うべきもの、元禄の旗本奴と大正の若者の心情が重なってくるものが 何か必要です。

「皿屋敷のこと」で綺堂は、「これから先は何うなるでせうかそれは観客の想像に任せたいと思います」と書いています。だから「番町皿屋敷」 執筆時点では、播磨がこの後どうなったか綺堂は考えていなかったということです。ですから播磨のその後について想像が自由に許されます。吉之助は別稿「禁問とかぶき的心情」で、「お菊を斬って・その死骸を井戸に投げ込んだ後に播磨の頭にあるのは、どのような罰を・どのような贖いを自分に課するかということです。旗本奴の本質に戻って・なおかつその罰を自分に課すならば・それは派手に喧嘩して死すということしかありません」と想像しました。

ところで戯曲「番町皿屋敷」 から約1年ちょっと後のことですが、綺堂は小説「番町皿屋敷」を発表して、これには播磨の後日談が書いてあるのです。それによれば、その後、播磨は喧嘩に明け暮れた荒んだ生活をしています。播磨の屋敷にはお菊の幽霊が出ると町の噂になっている。やがて幕府によって白柄組の水野十郎左衛門が切腹の断が下されることになると、「いずれお前にもお咎めが来るから、その前にいっそ見事に腹を切れ」と伯母が説得しに来る。播磨が決意を固めるところに、井戸からお菊の幽霊が現れます。

『幽霊は静かに顔をあげた。それは生きている時とちっとも変わらないお菊の美しい顔であった。怨みも妬みも呪いも知らないような、美しい清らかな顔であった。播磨は思わずほほえまれた。「菊。播磨も今行くぞ」・・』(岡本綺堂:小説「番町皿屋敷」)

映画・舞台の小説化(リライト)、またはその逆のケースもよくあることですが、これらは互いにまったく別物の作品と割り切って読むべきです。小説には小説の・戯曲には戯曲の得意領域、それぞれの良さがあるものです。だからどちらが作品として優れているかということをあまり比較すべきでないと思いますが、小説「番町皿屋敷」の場合はどうしても観念的なものを言葉で解説しようとする余り、播磨の心情が理屈っぽく描写されていて、そのため筋の枝葉が多くなってしまった感じがしますね。その一方、小説では播磨が「一枚・・二枚・・」と皿を割る場面が、たった二行で済まされています。

『播磨は十太夫を呼んで、更に四五枚の皿を持って来させた。そうして、その皿を刀の鍔に打当てて、ことごとく微塵に打砕いてしまった。れて眺めている家来どもに向って主人は説明した。「播磨が皿を惜しむのでないことは、これでおのれ等にも合点がまいったであろう。・・・」』(岡本綺堂:小説「番町皿屋敷」)

大体、「皿屋敷」なのだから「一枚・・二枚・・」と皿を割る場面が核心であるのに小説だとこうなっちゃうのかなあと思いますが、これはずいぶん損なことだと思います。この点はやはり時間的経緯を描写できる戯曲の方が遥かに有利です。かぶき的心情というものは単純なものです。理屈ではありません。ですから心情のドラマということならば、戯曲「番町皿屋敷」の方が簡潔ではるかに力強い印象がします。

吉之助は思いますが、綺堂が自身の「皿屋敷」を書くにあたり、「殺す方にも殺される方にも相当の理屈があって、何方にも同情を惹き得る」ドラマにしようと苦心して、 戯曲「番町皿屋敷」で、結果として「一枚・・二枚・・」と皿を割る場面に或る種の音楽的官能性、あるいは移行の技法(ハンドリング)の効果を生み出したことに感嘆の念を覚えますねえ。これは綺堂が、そして二代目左団次が、大正という時代の空気を如何に取り込んで作品を創ってきたかということを示しているのです。

(H27・3・11)

移行の技法(ハンドリング)については別稿「近松心中論」を参照のこと。

*岡本綺堂の小説「番町皿屋敷」は有難いことに青空文庫で読むことが出来ます。

 


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