(TOP)        (戻る)

あなたでもあり得る

平成16年(2004)1月歌舞伎座・「京鹿子娘二人道成寺」

坂東玉三郎(白拍子花子)・尾上菊之助(白拍子桜子)


1)花のような美しさ

平成16年1月・歌舞伎座の初春興行での・玉三郎と菊之助の「京鹿子娘二人道成寺」を見てまいりました。 「二人道成寺」と言いますと歌右衛門が最後に芝翫と踊った時のように・「道成寺」一曲を踊り通す体力がないので踊りのパートを二人で振り分けるというようなケース (つまり芸の継承ということも兼ねているのでありましょう)と、若手花形の役者がその芸を競演するケース(つまりふたりの人気役者の踊り比べが眼目です)が考えられましょう。いずれにせよ 「二人道成寺」というと、踊りのパートを分けるか・二人が並んで踊る時にはまったく同じ振り・いつもの道成寺の振りを楽しむというのが普通であったかと思います。

 そこで、今回の玉三郎と菊之助との「二人道成寺」の組み合わせを聞いた時に吉之助が感じた疑問は、この組み合わせは二つのケースのどちらを意図しているのであろうか、ということでした。 まさか玉三郎が「上がり」というわけでもあるまいし・と言って菊之助と同格のはずがないのですから。

舞台はその疑問をいとも容易く氷解させてくれました。 玉三郎と菊之助のふたりはまったく別々の振り付けで、絡んだり離れたりしながら変化のある踊りを見せてくれました。なるほどその手がありましたか。そこでは先輩格の玉三郎が後輩菊之助を前面に押し 立てつつも、しっかりと後ろで守っているような余裕が感じられました。また菊之助も初々しく・すがすがしい踊りを見せてくれました。玉三郎はもちろんであるが、菊之助は良ろしゅうございました。これからが楽しみだぞ。まずはこの二世代の花形の競演は大成功・乱れ咲く花のような美しさ であったと評しておきましょう。

・・と褒めておいてから・少し苦言を呈したいと思います。次の機会に同様の企画をするならば、演出において考え直して欲しいところがあります。「道行」の場面において玉三郎の登場・退場に花道スッポンを使用したことです。これはよろしくない。「道成寺」においてはスッポンは使うべきではないと思います。

二十年ほど前のことでありますが、清元志寿太夫の会で玉三郎・孝夫が清元舞踊「梅川」を踊った時にスッポンからふたり揃ってセリ上がって大喝采を受けたことがありました。しかし、これは識者からかなりの批判を受けました。スッポンは物の怪・妖怪が登場する時に使用するのが約束で、梅川・忠兵衛のような生身の人間の登場において使用するものではないのです。たとえショー的な要素の強い舞踊であっても安易なテンポアップの手法としてスッポン を使用してはなりません。これは歌舞伎の基本的な約束事なのです。同様の意味から「娘道成寺」においてもスッポンは使用すべきではありません。その理由を以下に考えていきたいと思います。

2)どこの誰でもあり得る・あなたでもあり得る

紀州の道成寺に伝わる「道成寺伝説」が伝えるものは何でありましょうか。あの不道徳で業の深い・陰惨な物語がどうして仏教説話になって人々に語り継がれたのでありましょうか。それは「このような業の深みに陥ることは誰にでもあるものだ・自分のなかにもどこかに潜んでいるものだ」ということを説話が教えているからです。つまり、主人公はどこの誰でもあり得る・あなたでもあり得るということです。

ということは、清姫・あるいは真砂の庄司の娘でもよいのですが、彼女はその身のなかにもとから特別な魔性が宿っていたというような・呪われた存在ではないのです。彼女はごく普通の・どこにでもいる娘 ・生身の人間なのです。それが邪恋に身を焦がして・あのような魔性に変貌してしまう、それほどに人の心には底知れぬものが潜んでいるのだということです。そこに人間の業の深さがあるわけです。だからこそ、道成寺伝説が仏教説話になるのです。

謡曲「道成寺」には登場する白拍子が実は怨霊であるとはどこにも書いてありません。彼女は普通の・生身の女性であって、しかし、白拍子という性別を乗り越えた存在だからこそ・ 女人禁制の結界のなかに入ることを許されるわけです。その白拍子が鐘の魔力で化け物に変わってしまうのです。その不条理にこそ「道成寺」の恐ろしさがあると思います。化け物が女性に化けてやって来て鐘のそばでその本性を現す ・そういう論理ならば変身は当たり前であって別に怖くはないと吉之助は思います。このことについては別稿「本当は怖い道成寺」において書きましたから、そちらをご覧下さい。

すなわち大事なことは、「道成寺もの」においては、白拍子が魔性に変身することが最後の最後まで伏せられねばならぬということです。これが肝要なのです。これが約束事としてなければ「道成寺 もの」は成立しないということを肝に銘じるべきです。

例えば、円地文子が六代目菊五郎の踊る「道成寺」を見て「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」と書いたその気持ち、前半があまりによく踊れたので・思わず「鐘を上げるのをよせ」と言ってしまった六代目菊五郎の気持ちがお分かりになりましょうか。(別稿「菊五郎の道成寺を想像する」をご参照ください。)そこに「本当は怖い道成寺説話」の心が蘇ってくるからに他なりません。だからこそ歌舞伎は伝承芸能なのです。

ところで、歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」では「白拍子花子・実は清姫の霊」と明記がされている・だから怨霊の花子がスッポンから登場する正当な理由があるのではないかというご指摘があるかも知れませんね。

それは違います。どうして江戸の人々は謡曲「道成寺」に出てくる白拍子をを清姫の怨霊であると解釈したのでしょうか。そこに江戸の人々の時代の科学性・合理性があるのです。程度はちょっと低い のですが、確かにそれは科学性ではあるのです。江戸の人々は、白拍子が変身したのは彼女がじつは怨霊であったからだと、あとから理屈を付けてちょっと安心するのです。普通の女性が内面から変化してしまうなんて・そんな不条理な恐ろしいことは想像したくないのです。だから理屈を付けてとりあえず安心する ・そんなところがあるようです。

現代の人々は「娘道成寺」の白拍子が実は清姫の怨霊だとパンフレットに書いてあるのを見て、江戸の人々は迷信に振り回されて・怨霊の存在を信じて恐れていたんだなと思うかも知れませんが、それは発想のベクトルが江戸の人々とは逆なのです。そんな風に江戸の人々が考えていたわけではありません。昔の「道成寺」の不条理な物語を江戸の人々は科学的に解明・理解しようとしているのです。「娘道成寺」の明るさというのは、そういうところから出てくるものです。(これは「道成寺」だけのことではありません。怨霊・幽霊が登場するお芝居はすべてそのように考える必要があります。)

しかし、それでも不条理な部分がなおも残るのです。だって「娘道成寺」に登場する白拍子が変身した事自体は怨霊だったということで確かに変身の説明が付いたけど、一番最初の・源説の清姫が変身しちゃった理由がやっぱり説明されていないじゃないの。やっぱり元を辿れば不条理そのものじゃないですか。それが「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」という気持ちを引き起こすのです。この心理プロセスがお分かりになりましょうか。 だから「娘道成寺」においても鐘入りまで白拍子が怨霊であることは伏せらねばならないのです。それは決して最後においてワッと驚かせようというような劇的効果のためではありません。それは「主人公はどこの誰でもあり得る・あなたでもあり得る」という道成寺説話の根本に係わる事項なのです。

「娘道成寺」には「つねに鐘に思いを向けることを忘れてはならない」という口伝もありますが、それは踊り手の心情の問題です。鐘見や鞨鼓の踊りの場面で怨霊の本性を匂わすところはありますが、それとてもほんの一瞬のことにすぎないのです。基本的には「娘道成寺」でも白拍子が怨霊であることは最後まで明かされてい ません。それが「道成寺もの」の約束事であると考えるべきです。白拍子がスッポンから登場して・その存在がこの世在らざるものであることが最初から観客に明らかになれば、「道成寺」は確かに理に付いたものにはなりましょう。しかし、その「世界」の持つ意味合いからはどんどん離れていくのです。

美しければそれでいい・楽しければそれでいいかも知れません。それならば、こんなことを書くのは野暮というものです。しかし、こういう「道成寺」の演出を褒める方は「連獅子」の 後シテがスッポンから登場してもおそらく褒めるのでしょう。こういうことを指摘しておかなければ際限がなくなります。理屈っぽいと思われようが、誰かが「これは間違いだ」と指摘しておかなければ伝統芸能の根本は崩れます。

3)虚の踊りと実の踊り

スッポン使用がいけないということは、伝統の観念論だけではなくて・作品の構造上からも言えると思います。 「恋の手習い」のクドキの前半を玉三郎がひとりで踊ります(「ふっつり悋気」から菊之助と絡む)が、この部分で玉三郎がひとりで踊ることの必然が見えて来ないのです。もちろん玉三郎にも見せ場を与えなければならない ・ファンサービスのためにもこの場面が必要なのはわかりますが、しかし、作品のなかで玉三郎がひとりで踊ることの劇的必然が見えて来ません。

それは玉三郎が花道スッポンから登場したからです。 菊之助の白拍子に対する・玉三郎の白拍子とはいったい何なのでしょうか。菊之助の分身・背後霊・守護霊・前世の霊・憑きもの・・・?いろいろ考えられましょうが、いずれにせよ玉三郎だけがスッポンから登場したことで、 菊之助が実なら玉三郎は虚、菊之助が表なら・玉三郎は裏、そういう関係になってしまっているのです。この場合は裏の方が重いとしても、裏は表なしでは存在することはできません。 ふたりをそういう関係にしてしまったのは、スッポンから玉三郎を登場させる演出を採ったからです。だから玉三郎がひとりで踊っていても・「菊之助はいつ出てくるんだ」としか見えない。玉三郎の踊りが虚に映るのです。ふたりが絡んだ踊りが始まると玉三郎の存在が生きてくる・そういう風に見えるのです。これは演出上のミスではないでしょうか。

「道成寺」をふたりで踊ろうが・五人で踊ろうが、彼らは対等でなければなりません。生身の娘として対等でなければなりません。そうすることによって初めて「道成寺」を複数で踊ることの面白さが出るのです。見た目のインパクトでは多少損であっても、やはり玉三郎は菊之助とふたり並んで花道揚幕から登場すべきでした。あるいは両花道の使用が正解であったかも知れません。

それと「京鹿子娘二人道成寺」という外題は初代富十郎のオリジナルの舞台を連想させるので、振り付けをまったく変えてしまったこの踊りでは全く別の外題を掲げるべきではなかったろうかということを言っておきたいと思います。それが初代富十郎に対する尊敬の念というものではないでしょうか。

ともあれ、「二人道成寺」で玉三郎・菊之助という・二人の白拍子にまったく違う振りを付けて絡ませるという発想はじつに面白 く、この発想を是非今後も生かしてもらいたいので、思いついたことを書きました。

名作歌舞伎全集 第19巻 舞踊劇集 1 (19)

 (TOP)       (戻る)