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幽霊の御講釈

*本稿は「幽霊の御講釈」の意味を考えるために、「陣屋」の床本を後ろを見たり・前を見たりして話が飛びますから、別掲の「熊谷陣屋」床本を参照して芝居全体の流れを掴んでからお読みください。


1)現行「陣屋」での「熊谷桜の段」のカット

「陣屋」において熊谷が首実検を終えた後、真相を知った梶原平次が「このことを鎌倉へ注進」と駆け出します。その梶原が弥陀六の投げた石ノミで殺されます。登場した弥陀六は、「お前の邪魔になる、こっぱを捨て て上げましたわい。さて幽霊の御講釈。承ってまづ安堵。もうお暇」と言います。

弥陀六はここで「幽霊の御講釈」と言っていますが、現行の舞台を見ているとどこに「幽霊の御講釈」があるのかがサッパリ分かりません。これは「陣屋」のなかにいくつかカットがありますし、また前場(三段目端場・宝引の場)との関連がないと理解がしにくいところです。そのため現行の上演では「幽霊の御講釈」を「制札の御講釈」と言い換える場合が多いのです。こうす れば筋の齟齬は目立たなくなりますが、それでも「制札の御講釈」らしきものがないわけですから意味が分からないことに変わりはありません。

現行の「陣屋」における大きなカットは、前半「熊谷桜の段」がほとんどすべてカットされて相模・藤の局が陣屋に到着する場面、及び梶原と弥陀六が登場する場面が省かれることです。「熊谷桜の段」があれば、熊谷登場前に登場人物の関係はひと通り理解できるようになっているのです。それをカットするのは 上演時間を短くして・なおかつ「陣屋」を熊谷ひとりに 焦点を当てる目的があるのでしょう。しかし、どの人物も本来はこの陣屋にいるはずのない人物なのに・それらが突然登場してくるので訳が分からないことになってしまいます。 (「熊谷桜の段」には、藤の局と熊谷夫婦との関係が詳しく説明されていることでも重要ですが、これについては「熊谷陣屋・床本を読む」において触れています。)

さきほどの「幽霊の御講釈」の意味もその背景は前の場があると分かってきます。「熊谷桜の段」では梶原が石屋の親父弥陀六を引っ張って熊谷の陣屋へ来た理由をこう語っています。

「ヤイなまくら親仁め、おのれ何者に頼まれ、敦盛が石塔は建てたやい。平家は残らず西海へぼっくだし、誂ゆべき相手なければ、察するところ源氏の二股武士が、頼みしに違ひはあるまい。」

つまり梶原は、須磨の浦に建てられた敦盛供養の石塔建立を頼んだのは熊谷であろうと睨んでいるわけです。しかも、聞けば熊谷は「志あって廟参」だと言う ・敦盛を討ったのを熊谷は後悔しているのだろう・ますます怪しい、ということになります。観客も「平家物語」の基礎知識として「熊谷直実は敦盛を斬ったことで世の無常を感じて出家した」ということを事前に知っていますし、ここでは「組討」で討ったのは敦盛であるということになっていますから、梶原がそう疑うのもそもありなんと観客が思うように出来ているのです。一方の弥陀六は変なことを言っています。

「テモさても御無理な御詮議。さきほども申した通り石塔の人(あつらえて)は敦盛の幽霊。五論のことはさておき一厘も手附は取らず、建つるとそのまま石塔の喰逃げ。せめて人魂でも手附に取ったら、小提灯の代りにいたしませうに、冥途へ書出はやられず、本のこれが損しゃう菩提。有りやうの申上げ願以此功徳施一切。かくの通りでござりまする」

「石塔の人(あつらえて)は敦盛の幽霊」というのは弥陀六の突拍子もない嘘ではなくて「三段目端場・宝引の場」に出てくる話です。ある若者が敦盛の石塔を建てることを頼みに来て・それで弥陀六が造ったのが敦盛の石塔であったのです。その若者は見目麗しい姿で石屋の娘小雪が惚れてしまうほどでありましたが、小雪に笛を渡したまま、 若者は忽然と消えてしまうのです。結局、弥陀六はお金を取りそびれ で、あれは敦盛の幽霊であったのだろうかという巷のうわさになっているわけです。

「陣屋」を最後まで見た後で振り返ってみれば、なるほどと謎が解けてくることがいくつかあります。まずひとつは、弥陀六に石塔建立を頼みに来たのは熊谷が我が子小次郎を身替わりにして助けた敦盛その人であったということです。 敦盛は自分の身替わりになった小次郎の供養をするつもりであったのでしょう。そのために敦盛は陣屋からひとり抜け出して・弥陀六のところへお忍びで来ていたのです。ただし敦盛は熊谷にかくまわれて・自分の身分姓名は明かせない立場ですから、すぐに消えてしまうわけです。やんごとなきお方だから、こういう時にはお金が要るということもご存知ないようである。

ふたつめに分かるのは、弥陀六(実は弥平兵衛宗清)が敦盛の顔を知らなかった・敦盛も弥陀六の正体を知らなかったということです。これは「陣屋」での弥陀六の述懐に「今度敦盛の石塔誂へに見えし時も、御幼少にてお別れ申せしゆゑ、御顔は見覚えねども、心得ぬ風俗は、ヒャ世を忍ぶ御公達ならんと思ふより、心よく受合ひしがさては命に代りし小次郎が菩提のため、この浜の石塔は敦盛の志にてありけるか」とあることで も分かります。

弥陀六が敦盛の顔を見知っていれば・敦盛が石塔建立を頼みに来た時に大事の敦盛を当然押さえていたでしょう。しかも、上記の「陣屋」の弥陀六の台詞を見ると、弥陀六は敦盛が生きていること の確信は持てたが・この時点では敦盛の身柄は源氏に確保されており、したがって弥陀六は決して義経への警戒心を解いているわけではないことが明らかです。弥陀六の警戒心は 、渡された鎧櫃のなかに入れられた敦盛の姿を確認した時に解けるのです。そこには間違いなく・あの時に石塔建立を頼みに来た若者の顔があったのでした。

「イヤこのなかには何にもない。ヲヲマ何にもないぞ。ハアこれでちっと虫が納った。イヤナウ直実。貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」

さらにみっつめ、「陣屋」半ばにおいて藤の局が敦盛の青葉の笛を取り出して吹きますが、どうして藤の局がそれを持っているのかが「宝引」において分かります。 そのことが分かるとダレ場と見えた「陣屋」半ばの幽霊の件の意味が分かってきます。

「アヽ思ひ出せば不憫やなア。今はの際までも肌身放さず持ったるはコレ、この青葉の笛。われとわが身の石塔を建てゝ貰うた価にと、渡し置いたこの笛のわが手に入りしも親子の縁。魂魄この世にあるならばなぜ母には見(まみ)えぬぞ。聞えぬわが子やなつかしのこの笛や」

この藤の局の台詞は「陣屋」において青葉の笛を取り出した時の台詞です。この台詞は「陣屋」だけ見ているとその意味がよく分かりません。それは「宝引」での、須磨浦で討たれた敦盛の幽霊が弥陀六のもとに現れて・自分を弔う石塔の建立を頼んでいった・その対価に形見の青葉の笛を置いていったという噂話から来ています。弥陀六・小雪がその話をしている時に、偶然居合わせた藤の局の手にその青葉の笛が渡るわけです。 なお、敦盛の代名詞でもある「青葉の笛」は、青葉が付いたままの若竹を切って作った笛であります。

「陣屋」において藤の局がこの青葉の笛を取り出して吹きますと、その音色を聞いて奥に潜んでいた敦盛が思わず表へ飛び出そうとします。それが障子に映った敦盛の影なのでした。 しかし、それまでの幽霊の話を聞かされていた観客は、その障子の影を見て、やはり敦盛は死んだのであったか・石塔の件といい不思議なことが続くものだ、と感じたでありましょう。観客は敦盛の死をさらに強く意識させられ たでしょう。これはそのように作ってあるのです。それはダレ場のように見えるかも知れませんが、その後の首実検の場に向けて作者は用意周到な段取りを付けているわけです。

さらによっつめ、弥陀六が育てている美しい娘小雪のことです。 「弥陀六住居」の場で小雪はすっかり敦盛に惚れ込んでしまうのですが、敦盛は訳ある身ゆえ「思い切ってくだされ」と断ります。小雪が「むごい」と言って泣くと、敦盛は「いやとよ、恨むはさる事ながら逢ふは別れの始めといふ例へに洩れぬわが身の上、頼み置きたる石塔が今にも成就してあらば、再び此家へ来らぬ故逢見る事も叶ふまじ。只儘ならぬは世の習ひはかなき物は人の身の、一生は皆夢と思へばさのみ迷ひも有るまじ。さりながら今を限りの別れといへば、誰しも名残惜しい物。若しも恋しき折からは心のいさめともならん、いで形見を参らせん」と言って、青葉の笛を小雪に渡すのです。(その青葉の笛が ひょんなことから藤の方の手に渡ったことは前述の通りです。「陣屋」で敦盛が笛の音を聞いて思わず飛び出そうとしたのは、あるいは敦盛は小雪が来たと思ったの かも知れません。)「陣屋」での弥陀六の述懐に は小雪について次のようなことを言っています。

「これにつけても小松殿御臨終の折から、平家の運命末危うし。汝武門を遁れ身を隠し、一門の跡弔へと、唐土(もろこし)育王山(いおうざん)へ祠堂金と偽り、三千両の黄金と、忘れ形見の姫君一人預り、御影の里へ身退き、平家一門先立ち給ふ御方々の石碑。播州一国那智高野、近国他国に建置きし施主の知れぬ石塔は、皆これ弥平兵衛宗清が、涙の種とサ御存じ知らずや」

娘小雪は弥陀六の娘ではなくて・じつは平家の嫡流平重盛の姫君であったのです。重盛の長男維盛は熊野沖において入水自殺を遂げたというのが「平家物語」の伝える史実です。(「義経千本桜」ではその維盛はいがみの権太によって救われて高野山へ落ちのびることになっています。)義経が「コリャ親仁。その方が大切に育つる娘へ、この鎧櫃届けてくれよ。コリャ弥陀六」と言って、敦盛の入った鎧櫃を弥陀六に渡すのが何故かがここで分かります。 つまり、義経は弥陀六に「敦盛は娘小雪と夫婦になって・堅固で暮らせよ」と言っているわけです。そうすれば、院の血筋と平家の血筋は守られる、ということなのです。

2)現行「陣屋」での「幽霊講釈」のカット

さらに「陣屋」において、カットされている重要な部分がもうひとつあります。それは、『折節風に誘はれて耳を突抜く法螺貝の音。喧(かまび)すく聞ゆれば、義経は勇み立ち「ヤアヤア熊谷。着到知せの法螺の音、出陣の用意々々」と、仰せに直実畏り急ぎ一間に入りにけり』の直前、つまり梶原平次が鎌倉へ注進と駆け出す場面の前にある 部分です。

『藤の局は御声くもり、「ノウ相模。今の今まで我が子ぞと、思いの外な熊谷の情け。そなたはさぞや悲しかろ。こうした事とは露知らず、敵(かたき)を取ろうの切ろうのと言うた言葉が恥ずかしい。我が子の為には命の親。かたじけない」と手を合わせ。「この首の生き世のうち、逢い見ぬことの悔しや」と共に嘆かせ給いしが。「これに付き、いぶかしきはこの浜の石塔。敦盛の幽霊が建てさせたとの噂と言い、秘蔵せし青葉の笛、石屋の娘が貰いしとて我が手に入る。最前その笛吹いた時、あの障子に映りし影はたしかに我が子と思いしが、言葉も交わさず消え失せしは」 「アいやその笛の音を聞いて駆け出だし、敦盛の幽霊人目ありと引き止め、障子越しの面影は義経が志し」と、聞いて御台は我が子の無事悟りながらも箒木(ははきぎ)の有りとは見へて隔てられ、またも涙にくれたまふ。』

「箒木(ははきぎ)」とは、信濃国の薗原にあって、遠くから見ればほうきを立てたように見え、近寄ると見えなくなるという伝説の木です。情があるように見えて実のない人、また会えそうで会えないことなどにたとえます。「箒木(ははきぎ)の有りとは見へて隔てられ」というのは、敦盛が生きているのは確かであるようだが・なおもその身柄は源氏(義経)の手中にあり・会う事さえも叶わぬのか、という母親の嘆きです。 いったい敦盛をどうしようというのか・ここでは義経の意図がまだ分かりません。(義経の真意はもう少し後で明らかになります。)

このカットされた部分の重要な点はふたつあります。まずひとつめは、藤の局が熊谷夫婦に感謝の意をはっきりと述べていることです。現行の舞台であると、藤の局は泣きながら相模の方に手を合わせたりはしていますが、台詞としては感謝を述べていないわけです。現行の舞台では敵だのと言って熊谷を斬りつけたりしておきながら・一番御礼を言うべき人が何も言ってないように見えますが、そうではなかったわけです。これがまず大事なことでしょう。

もうひとつは、藤の局が須磨の浜の敦盛の石塔のこと・さらに障子に映った幽霊の影のことに触れていることです。すなわち、「アいやその笛の音を聞いて駆け出だし、敦盛の幽霊人目ありと引き止め、障子越しの面影は義経が志し」です。 この義経の返答こそが、弥陀六の言っている「幽霊の御講釈」なのです。

ここで義経は、敦盛は青葉の笛の音を聞いて思わず駆け出したが、首実検を控えた大事の時にまだ敦盛を会わせるわけにはいかない・そこで障子越しのに敦盛の影を見せて暗に生きていることを伝えるだけにしたわけです。 そこに義経の心遣いがあったわけです。義経は、巷で敦盛の幽霊の噂が流れていること・つまり敦盛がときどき陣屋を抜け出していたことを知っていたのです。この義経の台詞によって、敦盛が実は生きていることが 観客にも明白になるのです。

この「幽霊の御講釈」がカットされるのは、「陣屋」だけが上演される状況においては致し方ないところかも知れません。三段目端場の「弥陀六住居」や「宝引」の経過 を長々説明しないと、「敦盛の幽霊」の意味が観客によく分からないからです。これを前の場なしで説明するのはなかなか厄介なことだと思います。

3)弥陀六の嘆き

以上の「幽霊の御講釈」を踏まえて、さらに「陣屋」幕切れの弥陀六(=弥平兵衛宗清)の述懐について考えたいと思います。

「テモ恐ろしい眼力ぢゃよなア。老子は生れながらに聡く、荘子は三つにして人相を知ると聞きしが、かく弥平兵衛宗清と見られし上は、チエ、義経殿。その時こなたを見遁さずんば、今平家の楯籠る鉄拐が峰鵯越を攻落す大将はサあるまいもの又池殿といひ合せ頼朝を助けずば平家は今に栄えんもの。エヽ宗清が一生の不覚。(中略)ヘッエ、いかに天命帰すればとて、わが助けし頼朝義経この両人の軍配にて、平家一門御公達一時に亡ぶるとは、チエヽ、是非もなき運命やな。平家のために獅子身中の虫とはわが事。さぞ御一門陪臣の魂魄。我を恨みん浅ましや」

この弥陀六の台詞ですが、これは義経が敦盛の入った鎧櫃を弥陀六に与える前の台詞です。この時点で弥陀六は敦盛が生きていることを確信していますが、しかし、敦盛の身柄は義経の手許に確保されています。いった い敦盛をどうしようというのか、弥陀六には義経の真意はまだ分かりません。 したがって、弥陀六は義経への警戒心を解いていません。

弥陀六の台詞に現れているのは、情に流されて頼朝・義経の幼い兄弟を助けてしまったことに対する慙愧の念、そして、その兄弟に今また滅ぼされようとしている平家の運命への嘆きです。 何と言う流転の運命・皮肉なる運命でありましょうか。そして、そのきっかけを自分が作ってしまったと感じている宗清の心中はいかばかりでありましょうか。

一谷の戦いの時点ではまだ平氏は滅びる運命と決まったわけではありません。しかし、ここでの弥陀六(宗清)の台詞 はもう平家は滅びる運命であると見定めてしまったような台詞です。これはこれでいいのです。平家がいずれ滅びる運命であることは観客はみんな知っているのですから。平家の人々の足元にひたひたと押し寄せる運命の足音が聞こえてきます。

そこで義経は鎧櫃を弥陀六に渡します。「コリャ親仁。その方が大切に育つる娘へ、この鎧櫃届けてくれよ。コリャ弥陀六」「ヤア弥陀六とは、ムフウ宗清なれば平家の余類源氏の大将が頼むべき筋は、ムヽムヽヽヽヽヤ面白い。弥陀六頼まれて、進ぜましょわい。したが娘へは不相応な下され物。マア内は何でござります。改めて見ませう」と蓋を開けてみれば、鎧櫃のなかに敦盛が隠れているのでした。

最初に呼び止めた時には、義経は確かに彼を「宗清」と呼んでいます。しかし、ここでは義経は「弥陀六」と呼んでいます。これは、義経の用のあるのは平家の一族としての宗清ではなくて・石屋の親父としての弥陀六であるからに違いありません。弥陀六に敦盛を託して・敦盛と小雪は夫婦になって 、源平の争いの関係ないところで静かに平和に暮せというのが義経の意思でありましょう。

「イヤこの中には何にない。ヲヲマ何にもないぞ。ハアこれでちっと虫が納った。イヤナウ直実。貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」ここで初めて弥陀六は義経と熊谷の本当の気持ちを理解して、やっと心を開くわけです。

「陣屋」における弥陀六の役割とは何でしょうか。弥陀六もまた敦盛に付き添いながら共に歴史のなかに消えていくのです。彼は「陣屋」のなかにある時代物の風格を呼び起こします。弥陀六の存在がなくても、敦盛・熊谷のドラマはそれなりに成立する でしょう。しかし、弥陀六(=宗清)が登場することでよりドラマはスケールが一層増して時代物としての彫りが深くなっているのです。

義経が敦盛を助けたのは確かに敦盛が院の御胤ということがあります。しかし、それだけでは決してない。かつて自分たち兄弟を助けてくれた宗清へのせめてもの返礼であったと、そう考えて間違いではないと思います。義経の仕事は平家の追討なのですからすべての平家を助けるわけにはいきませんが、そのなかから救うべき人として選ばれたのが敦盛であったのです。そして義経は助けた敦盛 の身を宗清に託 したのです。

義経は、自分たち兄弟を助けた為に慙愧の念・自責の念に苦しめられている宗清になにがしかの救いを与えたいと思ったのでありましょう。それだけが義経が宗清に施すことのできる 心遣いであったのです。平家の尊い血筋をしっかりと密かに守り続けること、それが義経が弥陀六に与えた・新たな役割であったのです。

(H15・12・7)

一谷嫩軍記 (歌舞伎オン・ステージ (4))
 

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