(TOP)         (戻る)

「制札の見得」を考える


1)「制札の見得」を考える

「熊谷陣屋」の制札の見得は歌舞伎の見得のなかでも最も有名なもののひとつです。制札の見得の形のなかには「陣屋」のドラマと熊谷という人間の思いが凝縮され形象化されていると感じます。他の歌舞伎の見得ではこれほど明瞭に形の意味を論議できないと思います。その点において制札の見得は、歌舞伎の見得のなかでもちょっと特異な存在です。本稿ではそのことを考えたいと思います。

『若木の桜に立て置きし制札引抜き恐れげなく義経の御前に差置き「先(さい)つ頃堀川の御所にて、六弥太には忠度の陣所へ向へと花に短冊。又この熊谷には敦盛の首取れよとて、蓋を取れば「ヤアその首は」と駆け寄る女房。弁慶執筆(しゅひつ)のこの制札。則ち札の面の如く御諚に任せ、敦盛の首討ったり。御実検下さるべし」と、引寄せて息の根とめ、御台はわが子と心も空、立寄り給へば首を覆ひ、「アヽコレ申し、実検に供へし後は、お目にかけるこの首。イヤサコレお騒ぎあるな」と熊谷が諌めにさすがはしたなう、寄るも寄られず悲しさのちゞに砕くる物思ひ。』

ドラマの流れから言うと、ここは首実検の直前であって・つまり本当は劇的緊張のクライマックスをそちらに持っていくべきであると思いますから、この部分を あまり拡大してしまうとおかしなことになります。ここは本来はサラリと行くのが正しいのでしょう。

しかし、歌舞伎というのは役者の魅力が前面に出るものですし・観客は「あの首は我が子・小次郎の首である」ということを承知の人が多いわけですから、そうするとこの場面で「首桶の蓋を取ると相模と藤の局が掛け寄ってくる・これを制札で押さえて・首実検へ漕ぎ着ける」という演技に熊谷の思いをどう込めるかという風に観客も見 ることになります。この場面をたっぷり膨らませた歌舞伎の発想は、実に歌舞伎らしくて非常に興味深いものだと思います。

2)芝翫型の制札の見得

歌舞伎の舞台でふつう見られる「陣屋」は明治になって九代目団十郎が作った型ですが、これよりも古い時代の型として残っているのが四代目芝翫型です。まずこの芝翫型の制札の見得を検討したいと思います。

左の写真は二代目松緑による芝翫型の制札の見得です。このように制札を上に向けて担ぐような感じで見得をします。

芝翫型では、熊谷が「一枝を切らば一指を切るべし」とある義経の制札の謎を解き、その答えとして敦盛の身替わりに我が子小次郎を殺すわけですから、まさに制札が熊谷の行為の拠り所となっているのです。だから熊谷は制札をつかみ、首桶にすがり付こうとする相模と藤の方を押し返す時に、制札は二人に突きつけるように(つまり「読めるように」)上に向けて掲げられます。そこに熊谷の確信が形象化されているのです。

3)団十郎型の制札の見得

左の写真は十一代目団十郎による団十郎型の制札の見得です。見て分かりの通り、団十郎型では制札を下に向けて三段に突きます。

制札を上に向けて構えるか・下に向けて構えるか、の違いであります。この違いは、芝翫型はなんだか飛脚が鋏箱を担いでいるみたいで格好悪いとか・団十郎型の方が形がいいとかいう見掛けの問題ではありません。

さきほど芝翫型では制札を熊谷の行動の拠り所として・その確信が示されていると書きました。それならば、制札を逆さまにしていることには、逆の意味が何かあるのでしょうか。 制札への疑問か・あるいは否定のようなものでしょうか。 このことは随分考えて来ましたが、制札が上か下かということ自体に別に意味はないと 、吉之助は考えるようになりました。意味は団十郎型の全体から浮かび上がって来るもので、制札の見得だけ抜き出して論じるものではないのです。

熊谷は制札(義経のかけた謎)の意味に我が子の命を賭けて答えている訳ですから、これは封建制への批判とか忠義の否定という意味があるわけではないのです。熊谷には確信があります。しかし、それでもなおも心が揺らぐのです。自分のしたことは正しかったのか ・人生とは何ぞや、との思いがこみ上げてきます。つまり、団十郎型では熊谷の哀しみが形象化されています。それは明治になって海外から流入した・個人を主体に置いた人間理解をベースにしているのです。

団十郎型では制札を下にして三段に突き、つまり制札にすがって重心を制札に預けるかたちで見得をします。ここでの熊谷は息子を身替わりにせざるを得なかった悲しみ・自分の行為がこれでよかったのか・正しかったのかという想いを振り切るかのように、制札にすがるのです。 熊谷は制札にすがる時、その哀しみを救いとって・清めてくれる人物はもちろん義経以外にはありません。

3)制札を逆さにする発想

芝翫型・団十郎型とふたつの型を比較してみました。この「制札を逆にする」という発想がどうやって出てきたのでしょうか。その過程がずっと気になっていましたが、そのヒントがありました。

左の写真は、初代鴈治郎の熊谷の制札の見得です。ご覧の通り、制札は逆さに構えていますが、三段に突かず、これは明らかに平舞台にいる相模から敦盛(=小次郎)の首を隠しているのです。

熊谷の制札を使う見得を発明したのは三代目歌右衛門だと言われています。それ以前の歌舞伎の型では、首桶の蓋をあけて・二人の女性が「ヤアその首は」と駆け寄ってくると、熊谷は扇を開いて首を隠したのだそうです。したがって、制札を逆さに突くという形はもともと首を隠すという発想から来ていることは間違いありません。

つまり、鴈治郎の制札の見得の形は団十郎型が発想される以前の原型の形なのです。この「制札を逆に突く」形をベースにして、そこに思想的なものを注入したのが現行の団十郎型の制札の見得であることが推測でき ます。

また、この団十郎型が成り立ったのも芝翫型がまず先にあったからだということも認識しておかねばなりません。芝翫型が確固とした丸本解釈に基づいた優れたものであったからこそ、上に向けた制札を下にすることの思想的意味 付けを団十郎は新たに見出すことができたのです。

一谷嫩軍記 (歌舞伎オン・ステージ (4)

      (TOP)     (戻る)