1971年  kaori memo
華々しく桃井かおりデビューの年となる。3才から母方の祖母の強い望みで古典バレエを習い、12才から3年間英国ロイヤルバレエアカデミーに留学していたほどのバレエ少女だった彼女だが、海外で演劇に目覚め帰国後文学座の研究生となる・・・が、すぐに映画に転向。この三段跳びの思い切りの良さに周囲はさぞ驚かされた事だろう!『あらかじめ失われた恋人たちよ』が雑誌に掲載され、ヌードの写真を見たお母様が卒倒して救急車で運ばれたという逸話がある。


1973年  kaori memo
初のTVドラマ出演の年。一流脚本家早坂暁氏、山田太一氏の作品に起用され注目を集める。ドラマ初出演から早くもその存在感を見出した両氏は、その後も数々の作品に桃井かおりを起用している。特に彼女が「女優の方の父」と慕っている早坂暁氏には「女優として行き詰まった節目ごとに出させてもらている」と絶大な信頼を寄せている。また、映画では藤田敏八監督作品『赤い鳥逃げた?』『エロスは甘き香り』に立て続けに出演し、個性派女優としてのスタートを切った。


1974年  kaori memo
「大好きなクマちゃん!」こと、神代辰巳監督との出会いとなった『青春の蹉跌』では、その個性を益々開花させることになる。当時の映画界において斬新かつ話題となった作品。桃井かおりの代表作の一つと言えるだろう。映画初共演の萩原健一とはTVドラマでも共演が続く。


1975年  kaori memo
前年の『青春の蹉跌』で初共演した萩原健一とのコンビで、倉本聰脚本のTVドラマ『前略おふくろ様』が一躍脚光を浴びる。”海ちゃん”を演じたあのけだるい独特のしゃべり方は、本人によると「こんな人がいたら面白いだろうナ〜という小娘の発想で創ったキャラクターだった」はずだが、観ている側はあたかも桃井かおり本人のキャラクターそのものだと思った人は多いだろう。それだけインパクトのある”海ちゃん”イコール?”桃井かおり”の出現であった。
神代辰巳監督作品『櫛の火』『アフリカの光』にも次々と出演し、神代作品には欠かせない女優として更に脚光を浴びる。


1977年  kaori memo
77年度の映画界の頂点ともなった『幸福の黄色いハンカチ』で、初の助演女優賞を総ナメにした輝かしい年となる。「親に観てもらえる最初の映画」だったそうで、受賞の喜びの大きさがうかがえる。TVドラマでもNHK名ドラマ『男たちの旅路』で文化庁芸術祭大賞を受賞した。
映画・ドラマにとどまらず、音楽の分野でもファーストアルバム『ONE/KAORI MOMOI』を出すなど、多方面にわたって目覚しい活躍の年となる。


1978年  kaori memo
演技だけでなく文章の才能にも恵まれている。雑誌【ユリイカ】に”しなやかな時の鏡のように”と題して連載されたエッセーを1冊にまとめた処女作『しあわせづくり』が発売になる。演技にも増して独特の文体、しなやかな感性、キラキラと輝いたひらがなことばは誰も真似出来ないKAORI文学の世界!たちまちベストセラーとなる。
初の本格的な一人芝居『モノローグドラマ 恋・女ひとり』に挑戦。演技と歌と踊り・・・全てが要求される難しい舞台をしなやかに表現し、見事に演じきった。
また、NHKラジオのDJをつとめた『若いこだま』がきっかけとなり、集まったファンが自主的に【Kaori Land】というファンクラブを発足。解散となった1988年まで10年間活動を続けた。


1979年  kaori memo
時代は”桃井かおりの時代”と言っても過言ではない!『もう頬づえはつかない』『神様がくれた赤ん坊』『男はつらいよ・翔んでる寅次郎』で初の主演女優賞を総ナメにし、実力・人気共に日本を代表する女優としての地位を確立する。特に『もう頬づえはつかない』は原作が女子大生・見延典子さんの本の映画化で、時代そのものだった”桃井かおり”を映し出した映画だったように思う。桃井かおりのヘアースタイルを真似たボブスタイルの女の子達が街に溢れていた印象がある。
TVドラマでは初の主演となる連続ドラマ『ちょっとマイウェイ』が半年間放送される。コミカルなドラマの中に彼女の感性がかもし出されていた。桃井ファンの走りとなったドラマと言えよう!後日談だが再放送の方が視聴率が高かったというエピソードがある。(これは大変珍しいことなのかも・・・)
『WATASHI/KAORI MOMOI』など全曲本人の作詞によるレコードも次々と発売され、渋谷公会堂で初めてコンサートが行われた。
また、深夜のDJ番組『ひとり身ポッチ』(TBSラジオ)がスタート!ある意味で、彼女の人気の底辺となった番組ではないかと思う。


1980年  kaori memo
[女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞 第1回優秀賞] 受賞作品のドラマ化『小児病棟』では、それまでの”つっぱり女優””シラケ女優”というレッテルを貼られていた彼女が、一変してひたむきに生きる看護婦の役に挑戦した。「かわいそうな話には照れる」と語っていたが見事に演じ、桃井かおりの新機軸となった作品。
映画では吉行淳之介原作『夕暮れまで』に出演し、原作者も絶賛する透明感あふれる作品に仕上がり話題となった。また、巨匠黒澤明監督作品『影武者』に出演した年でもある。
エッセー第2弾『うつむきかげん』が発売になる。処女作『しあわせづくり』同様好評となり、出筆活動は彼女のライフワークとなったようだ。


1981年  kaori memo
TVドラマでは話題となった向田邦子原作の『隣の女』に主演し、桃井かおりの実力・存在感をさらにアピールする作品となった。
歌手活動も活発になり『THE CONCERT』では初めて6日間のコンサートに挑戦した。「ステージは苦手」だったはずだが、満席の観客を酔わせ歌手・桃井かおりが誕生した。
映画では今村昌平監督作品『ええじゃないか』に出演。群像劇という今までにない難しい大役、更に半年間にも及ぶ長い撮影をこなし高い評価を得た作品となる。


1982年  kaori memo
コンサートで始まり、コンサートで締めくくったような一年となった。昨年8月に行われた『THE CONCERT』の異常人気にあおられ、アンコールコンサートからスタートした82年。年頭から全国7ヶ所でのステージを行った。また、『おもしろ遊戯』『SHOW?』とアルバムも次々と発売され、暮れには16ヶ所の全国ツアーが繰り広げられた。
映画『疑惑』では”桃井が桃井を演じた”とまで言われた初の悪女役に挑戦し、実力派桃井かおりの腕の見せ所となった傑作。報知映画賞・最優秀主演女優賞およびイタリア・カトリカ国際ミステリー映画祭・最優秀主演女優賞他沢山の賞に輝き絶賛を浴びた。
TVドラマでは『人間万事塞翁が丙午』『ホームスイートホーム』と2本連続ドラマが続き、映画女優としてはもとよりTV女優としても押しも押されぬ人気女優となった感がある。


1983年  kaori memo
深夜のDJラジオ番組『ひとり身ポッチ』で、それまでに出演した14本の映画(「愛ふたたび」から「影武者」まで)に託して語った自分史を一冊にまとめた本(同タイトル)が出版された。さらに婦人公論に『卵を抱えて』と題したエッセーがスタート!2年半という長い連載となる。
また、78年に発足した自主ファンクラブ【Kaori Land】の第1回集いが乃木会館で行われ、”生桃井”がファンの前に初めて姿を現した記念すべき年。彼女がようやくその存在を認めたという事は、KAORI流に例えれば、会にとって”市民権を得た”という事なのかもしれない。


1984年  kaori memo
TVドラマは単発・連ドラと切れ目なく出演する売れっ子ぶり。『妻たちの熱い午後』はじめ多くの作品が、彼女を想定して台本が書かれたとの事。どの作品も桃井かおりでなければ・・・という作品ばかり・・・『生きていた男』のラストシーンは今でも印象深いのではないだろうか!
映画では森田芳光監督作品『メインテーマ』で初のジャズ歌手役に挑戦した。これが一つのきっかけとなりジャズを歌ったアルバムを86年に出す事になる。
また、"現代の吟遊詩人"というニックネームを持つフランスのシャンソン歌手ジョルジュ・ムスタキが、自ら作曲を手がけたアルバム『愛のエッセイ』のレコーディングに立ち会うため来日した。「気持ちの通じあう友達との仕事はいいものだ」そう話してくれたムスタキ・・・話題になるのも当然だろう。
さらに、暮れには初めてディナーショーを行い、ジャズを盛り込んだムードたっぷりのステージを披露した。


1985年  kaori memo
85年は何と言っても80年8月19日に起きた[新宿バス放火事件]を映画化した『生きてみたいもう一度』に出演した年と言えよう。「ある種の体験を通して自分を深く見つめ、生きる意味、愛の何たるかを見つけた女性の生きざまを真剣勝負で演じてみたい」と語り、女優が嫌うやけどの傷や「坊主頭になるのもいとわない」と体当たりで挑んだ作品。被害者であると同時に原作者でもある杉原さんも絶賛するほどの作品に仕上がった。
またTVドラマでは桃井かおりの代表作となった早坂暁脚本『花へんろ』に出演。早坂氏自身の自伝的ドラマで母親役に抜擢された。それまでのつっぱり、シラケはみじんもない真っ直ぐな役柄は、もう一つの彼女の魅力を引き出した作品となった様だ。早坂氏からは「本当は誰よりも都会がピカピカしているのに、田舎の人を演ると実にいい」と言われているとか。火曜サスペンス劇場・元祖『女検事霞夕子』がスタート!全10作シリーズ化され、どれも単なるサスペンスの枠を越えた深みのある作品に仕上がったのは、桃井の功績によるところが大きい!


1986年  kaori memo
前年第一章がスタートしたTVドラマ『花へんろ第二章』そして、単発の『インタビューアー冴子』がギャラクシー奨励賞を受賞した。「私にとって静子のようにいけないことをしない普通の役は、すごくやりたかったありがたい役・・・一つの役で年をとっていく顔を見られたら嬉しい」と体当たりの出演となった。脚本の早坂氏も桃井の静子役を「大成功」と絶賛。
今までイケナイ役どころが多かっただけに、おっとりと柔らかく影のない台詞が、四国の風土を象徴するように、桃井かおりの魅力となって全編を通して快く響き、TVドラマならではの秀作となった。賞につながったのは当然だろう。
83年12月号より【婦人公論】に連載していた『卵を抱えて』が、中央公論社より出版される。”しなやかな言葉の遊び人”と称されるほどその文体は群を抜いている。「私の言葉はいつも遊ぶためのもの」と本文にあるが言葉が実に自由に、心地良く流れてころがって独特の詩的な世界を創り、その中に柔らかい感性と、生真面目なシンを持つ彼女の姿が見えてくる。卵を抱えて生きる年月、文中にキラリと光る真実が見え隠れする絶品の一冊となった。
音楽ではもともとJAZZが好きで、憧れのシンガーはビリー・ホリデ−!「本当はボーカルがないJAZZが好きなんだけどね」と言いつつも、ついにJAZZのレコード『KAORI SINGS THE LADY』が発売に。さらに新宿ピットインで初ライブが行われJAZZシンガー桃井かおりが誕生した!


1987年  kaori memo
人生には何か転機になる年というものがあるとするならば、彼女にとってドキュメンタリーTV番組『ネイチャリングスペシャル 大砂漠サハラ縦断幻想行』は、まさにその大きな一つになると思う。
アフリカ縦断1万キロの旅という2ヶ月間ものハードなキャンプ生活、24時間密着団体生活・・・一番苦手としていた事への挑戦だった。雑誌のインタビューで「ホントはね、いろんなこと考えようと思ってたの。つまんないこともひっくるめて、キッチリ考えて結論出して帰ってこようと思ってた。ヒマだろうって。だげど、とんでもなくてさ、もうナーンにも考えられないで、ただ生活してただけ。寝て起きて、食べて歩いて走って。それだけ。サイコーだったわよ。」「あそこでは生きる事より死ぬ事の方が簡単・・・」とそんな物言いの中に、いかに過酷な旅だったか想像に難くない。「同じ地球なのにその土地その土地で時間のカウントの仕方も道徳や美意識までも全然違う・・・」「価値観も五感のカウントの仕方も違うとこで、いろんなもの見ちゃうと、どうでもいいんじゃないかって感じになってきちゃって。自分にいちばん合った、いちばん正しい、いちばん気持ちがやわらかくなれるルールでやっていけばいいんじゃないかって。人のものさししで自分をはかることないよね」「可愛い体には旅をさせろよね」「自分が思っていたのと自分はずい分違う人だってのもわかったし、自分の中のステキなものを大切にしたいなァって思った。親や友達や恋人、仕事もね。」そんな数々のステキな言葉を産み落としたアフリカの体験は、ますます桃井かおりを大陸的にしたように感じる。
その後のインタビュ−に”旅”という言葉が頻繁に出てくる。「旅するように暮らしたい」「旅するように眠りたい」・・・旅は彼女のエネルギーの源になっているのは間違いないだろう。そして、もしかしたら彼女にとっての”旅”は”夢”の延長上にあるのかもしれない。


1988年  kaori memo
昨年のアフリカの旅で「ここから先伸び伸びと女優やれるわ」という言葉を裏付けるように、さらなる意欲的な活躍を見せ、TVドラマ『花へんろ第三章』がギャラクシー大賞を受賞。さらに『喝采』がギャラクシー奨励賞の個人演技賞を受賞した。
続いて映画ではそれぞれ違った役柄を見事に演じ分け、役者桃井の力量を見せつけた3作品『木村家の人々』『噛む女』『TOMORROW/明日』に出演し、88年度のキネマ旬報主演女優賞、ブルーリボン賞最優秀主演女優賞、報知映画賞最優秀主演女優賞、他数々の映画賞を総なめにした。文字通り日本を代表する女優として、その地位を不動のものにしたと言えるだろう。<受賞kaori message>でも分かるように79年度の受賞とは重みが違ったのだろう・・・受賞の喜びに涙ぐむ場面も。
舞台では二人芝居『愛人』(共演:堺正章)に挑戦!本格的な舞台に取り組み、映画・TVドラマにとどまらず舞台女優・桃井かおりの新しい出発となった。のちに89年『盲導犬』、94年『月光のつつしみ』、95年『渦巻』へとつながることになる。
10年間活動が続いた自主ファンクラブ【Kaori Land】が諸事情により解散することに・・・その報告もかねて、恵比寿の羽沢ガーデンで最後の集いが行なわれた。突然の解散の知らせに涙ぐむファンの人たちに「解散っていっても別にファンやめてって言ってるんじゃないんだからサァ〜」と明るく和やか雰囲気の中にも【個・桃井かおり】の新たな覚悟と決意がみなぎっていたように思う。


1989年  kaori memo
この年は単発・連ドラと9本のTVドラマに出演。1年間出ずっぱりの印象がある。どの作品も桃井かおりを想定した企画・役柄だけに一つ一つ挙げたらきりがないが、88年放送のドラマ『かあちゃんは犯人じゃない』(主演:ちあきなおみ)を偶然見て「この人ステキ!」と直感し、彼女自ら出演交渉をして成立した、林宏樹演出『出張の夜』は1時間ドラマだが、作品がかもしだす独特の色合い、肌ざわりは桃井かおりでなければ到達出来ない作品になったと思う。その後も年に一度の林監督と創りだすドラマが、彼女の大きな楽しみの一つとなったようだ。
『盲導犬』の初演は73年アートシアター新宿文化での公演だった。この時桃井かおりは”婦人警官サカリノ”役。それから16年が経ち再び『盲導犬』が蜷川幸雄演出で日生劇場という大劇場で再演された。今度は主役の”奥尻銀杏”役。蜷川氏は「桃井かおりは今本気で変わろうとしているのがわかる。その変わり目の現場に立ちあえるのは演出家としても幸せですよ」と。
本物の盲導犬が登場し舞台は異常な迫力。しかし桃井かおりの迫力はそれさえもはるかに上回るものだった。共演の一人に当時16歳の木村拓哉がいる・・・彼の初舞台となった作品。少女の頃からバレエをやっていただけに、舞台での動きがとても大きくそして何よりも美しい・・・大舞台を経験し、また新しい桃井かおりが生まれた。
この舞台が始まる少し前に戦友・松田優作が亡くなった。その悲しみを越えての大舞台挑戦だった。


1990年  kaori memo
85年の映画『生きてみたいも一度』の原作者・杉原美津子さんのドキュメントとも言える二作目『老いたる父と』に出演。「杉原さんって、あったかくて魂がきれいな人なの。前の作品でそれがわかっちゃったから、表面だけで演じるのはいや。杉原さんの役は誰にもやらないぞって思ってる」と言うほど入れ込んでの熱演。実際の老人ホームで撮影、現実感あふれるドラマとなった。また、88年から年に一度のペースでドラマ創りをしている林宏樹監督は、これまでに芸術祭大賞など多くの賞を受けている”賞盗り男”の異名を持つ人物。二作目となる『凍え』では、「桃井さんは日常的ななんでもないシーンを思いきりうまく演じてくれる。新しい試みを存分にやってみたいと思わせてくれる人」と絶賛。さらに久々となる倉本聰脚本の連続ドラマ『火の用心』にも出演。優しく、おかしく、ペーソスにあふれたホームコメディーはとんねるず・後藤久美子との共演で話題になった。
舞台では『イッセー尾形VS桃井かおり・二人芝居』に挑戦!実験的試みの即興芝居は、あ・うんの呼吸以上のものが要求されるに違いない。表現者として独特の個性を持つ”くせ者”二人のステージ・・・その空間に身を置かなければ分かりえない快感がある。
友人だった故・松田優作氏から「かおりがアクションやったらおもしろいな」と言われて以来、温め続けた『女がいちばん似合う職業』。追悼映画として自ら企画・主演した。ハードボイルド・アクションで知られた松田優作の”女性版”女性刑事となって体当たりの熱演!役作りの為、猛暑の中走り込みの特訓を続けた。「刑事はいつでもやめられるけど女であることはやめられない」とは、『女がいちばん・・・』に登場する印象的なセリフだ。


1991年  kaori memo
TVドラマ林宏樹監督三作目『ポールニザンを残して』では「林さんの演出だったらギャラ払ってでも出演したいし、生きた小道具のように使ってもらえれば、という気分。とにかくクオリティーがすごく高くて、林さんだったら、何でもいいです。」と絶賛。ドラマはほとんど二人の会話だけで進められる。役者ならいちどはやってみたい役・作品なのではないかと思う。
オムニバス映画『ご挨拶』第3話『NOW IT'S THE BEST MOMENT IN OUR LIFE ! !』では映画監督に初挑戦した!極秘で撮影が進められたとの事。点滴を打ってのハードな撮影・・・主演もこなしながらの大変さに「スタッフってこんなに大変だとは思わなかった・・・ずっと立ちっぱなしで・・・」とその経験はその後の女優として映画に関わる際、大きく影響したようだ。【第16回湯布院映画祭】に出品され、大好評を博した。「狙い通り描けてもう一度、監督に挑戦してみたい!」とさらなる意欲がほとばしる。


1992年  kaori memo
NHK連続ドラマ『コラ!なんばしよっと』(原作:武田鉄矢「母に捧げるバラード」)がスタートした。九州博多が舞台。うわっぱりをはおって自転車に乗る、鉄矢をたたく、それも本気で。鉄矢の母・キクさんの役に挑んだ、桃井かおりの変貌ぶりに驚いた方も多いだろう。
いつも不思議に思うのは、桃井かおりと子役とのからみの上手さ・・・それも絶品だ!
「どうせドラマやってる間しか付き合わないんだから、”憎悪か熱愛かどっちでもいいからいちばん強いエネルギーでわたしに付き合ってほしい”って、お兄ちゃんから鉄矢まで子供達全員にささやいた(笑)。後は信頼関係ですね。こっちも投げない、裏切らない、怠けないっていうのがルールだったんだけど・・・。お商売的なおつきあいじゃ、家族になれない。なれなれしいだけじゃプロじゃないでしょう。だから撮影が終わったら”電話番号聞いてもいいですか”って言われても”教えてあげない!”」これも全力を出し切ったからこそ言える、桃井流”愛の作法”なのかもしれない。
82年度の作品『人間万事塞翁が丙午』で初めて2人の子供の母親役を演じた時、演出を担当した久世光彦氏の文章を抜粋したい。「・・・略・・・子供と一緒のシーンがある日は、朝からふたりの子役を両脇にかかえていました。昼休みにもふたりを抱きかかえてご飯を食べに連れて行きました。子供達の涙が出るように、本番前のセットの片隅薄暗がりでふたりに悲しい悲しい話をしてやってました。シラケ女優と言われたかおりが、そんな素朴で泥くさい芝居の作り方をしていた事、あんまり人は知りません。そして人前ではふたりの子供をわざと雑に扱ってみせる、かおりはそんな女です。ぼくがちょうちん持ちだと思う人はどうぞ今度のドラマを見てください。テレビカメラは恐ろしいものです。それらをすべて映しとっています。」


1993年  kaori memo
前年のパート1に続くNHK連続ドラマ『コラ!なんばしよっと−2』がギャラクシー奨励賞の個人演技賞を受賞した。
一般的なサスペンスの枠にはまらない一味違ったサスペンスとして好評を得てきた『女検事霞夕子』が、シリーズ10作目で最終となる。日本版・刑事コロンボを彷彿とさせる女コロンボ・桃井かおりの演技が見事というほかはない。罪を犯した人間への裁きと、温かい眼差しが余韻となって素晴らしい作品の数々となった。終止符を打つことになった事は、大変残念である。
初の処女創作集『まどわく』が出版に。「これまで”処女作文集”だったのが”処女創作集”と呼べるようになった(笑)。これから?そうねえ、いつか父親のことを書いてみたいなぁ。」と作家の顔を覗かせる。
6年ぶりにレコーディングしたCD『モア・スタンダード』が発売された。80年代から90年代に渡るヒット曲をカバーした(全10曲)。
〜ある作家からのラブ・レター〜「・・・略・・・彼女を俳優としてしか知らなかった人たちに驚きを与えるはずだ。ここで取り上げたどの曲も間違いなくオリジナル作品の出来に匹敵するものだし曲によっては、オリジナルを実に軽々と乗り越えてしまっている。それはもはや桃井かおりが”表現者”としての紛れもない確かさを備えているからに他ならない。・・・略・・・彼女が好きなシンガーとして上げているトム・ウェイツ同様、唯一無二の個性として彼女はある。」
「唯一無二の個性」という表現は桃井かおりの仕事全体において共通していると言えるだろう。


1994年  kaori memo
TVドラマでは曽野綾子原作『天上の青』に出演。次々と若い女性を殺していく殺人犯と”青い朝顔”が縁で知り合う女の愛を軸に描いたサスペンスドラマだが、人間の悲しみ、苦しみを深く描いた傑作。文化庁芸術作品賞を受賞した。
また5作目となった林宏樹監督作品『私は悪女?』でギャラクシー奨励賞を受賞。全シーンを一つのカメラで丹念に撮っていく手法は林監督ならではと言えるだろう。
好評だった前年の『モア・スタンダード』に続く『モダンダード』が発売になった。”横浜Lady Blues””予感””スカイレストラン”・・・どの曲も桃井かおりの手にかかるとまったく生まれ変わった個性をもつ不思議さがある。
劇作家・岩松了の作品はさりげない静かな日常とどこにでもありそうな人間関係を提示しながら、それがどれほど劇的な時間であり、緊迫感と謎に富む関係であるかを描いたら天下一品だ。久しぶりの舞台となった『月光のつゝしみ』では竹中直人の会の客演として出演。絶賛を浴びた。「恥ずかしいくらい一生懸命になっちゃって」と弟役の竹中直人とのケンカのシーンでは手首を痛めるほど熱が入った。
映画では神代辰巳監督の遺作となった『棒の哀しみ』に友情出演した。ワンシーンだけのゲスト出演・・・「思い切りわけありげに登場して」という発注だったそう。神代監督は「ピアノ・レッスンのような映画を死ぬ前に撮ってみたい」と最後まで映画への執念を燃やし続けた。車イスに乗り、酸素ボンベにつながる管を鼻に付けての撮影現場。帰り際、監督のところに挨拶に来た桃井かおりは「クマちゃん、元気でね。あまりたばこ吸いすぎないでね。さよなら」と言って突然泣き出した。監督は車イスに座ったまま、ニコニコと何度も上半身を折り曲げていた。全身全力で創り上げたこの作品は、94年度のキネマ旬報賞、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞と数々の賞に輝いた秀作となる。


1995年  kaori memo
昨年『月光のつゝしみ』での演技が舞台女優として絶賛されたが、95年も引き続き舞台づいている。常に良質の舞台を送り続けるT.P.Tの新作、英国劇作家ノエル・カワードのストレートプレイ『渦巻』に主演した。退廃的な上流階級の生活を送る元女優・フローレンスとその息子・ニッキー(山本耕史)の葛藤・・・難しい心理劇を見事に表現し、その存在感と迫力は「じつに洗練された出色の舞台」「舞台の中心軸としてまばゆい輝きを放っていた」「桃井かおりのコメディエンヌとしての抜群の才能」「そこに登場する桃井かおりの魅力は圧倒的である」「きめ細やかなせりふを駆使する俳優としての実力、見せ場を心得た役者としての花、すべての面で卓抜であった」と演劇評論家をもうならせた。ベニサン・ピットの劇場内は十字形に分断する形で花道兼舞台が組まれ、約百八十人の観客は前後左右4つに分断されて配置され、観る角度によってドラマが無数に出現する。劇場空間全体を一つの舞台にしてしまった、ルーシー・ホールの美術が新鮮だった。間違いなく『月光・・・』と同様、桃井かおりの代表作と言えるだろう。
ZIPPOにまつわるショートストーリーを桃井かおりならではのシャレた語り口で聴かせる、ラジオドラマ『ZIPPOストーリー』が始まった。
映画では衝撃の話題作、内田春菊原作の『ファザーファッカー』に春菊の母親役で出演。凄絶な演技で魅了し、モントリオール映画祭等海外でも高い評価を得た。


1996年  kaori memo
映画では市川準監督作品『トキワ荘の青春』、岩井俊二監督作品『スワロウテイル』と話題作に出演の一方、広島の原爆を題材に脚本の早坂暁氏たっての希望で『夏少女』に主演した。幻想的なタッチで描く反戦作品で監督は社会派作品で知られる森川時久氏。広島からほど近い離島・下蒲刈島で真夏の1ヶ月にも及ぶ撮影が行われた。この作品は広島で被爆死した三歳年下の妹・春子さんがモデル。春子さんは早坂氏の実家の前にに置き去りにされた子供だったが実の子と同じように育てられた。早坂氏に会いに行く途中の広島で被爆、あまりに辛い体験だったためこれまで脚本にしなかったが、被爆五十年を機に「原爆の恐ろしさを伝えたい」と映画化にこぎつけた。6/28に完成披露試写会が安田生命ホールで上映された。しかし採算面などから一般公開が敬遠された為、自主上映で全国を巡る、全国行脚という形となった。たとえ時間がかかっても是非多くの人に観ていただきたい映画である。
また、この頃から映画祭の審査委員又はゲストとして招かれる機会が多くなった印象がある。ゆうばり映画祭、HAGI世界映画芸術祭、TAMA映画祭・・・と日本を代表する・今を生きる女優として、その確かな眼力が求められているのかもしれない。


1997年  kaori memo
映画では市川準監督作品『東京夜曲』に主演し、物静かな大人の恋愛映画として高い評価を得た。キネマ旬報賞・毎日映画コンクール・ブルーリボン賞をはじめ、沢山の賞を総ナメにした。今回桃井かおりは初めて市川監督に全てをゆだねた。「20年以上、誠実に”桃井かおり”やってきて、ついた垢も落としたくて。いつも自分のセンスで芝居してると、演技の幅が限られてくるよね。今回は演じるんじゃなく、監督が考えているたみになってみようと思った」演じるヒロイン・大沢たみは夫を亡くしてすすけた女の役。「監督から、顔も手もツヤを消してほしいって言われて。1ヶ月間、化粧水もパックもやめて、手にもクレンザーこすりつけて。もうボロボロ(笑)」この作品への意気込みが感じられるエピソードである。「ねえ、お茶漬け食べていかない?」はこの映画の象徴的なセリフだ。ゆだねる事の心地良い経験はその後の女優人生に、大きく影響しているのではないだろうか!
TVドラマでは大好評でシリーズ化したNHK連続ドラマ『コラ!なんばしよっと−3』に出演し、博多のたくましい母ちゃん役を堂々の貫禄で演じきった。さらにヒロイン・静子を初めて演じた13年前の『花へんろ』のシリーズ『新・花へんろ』に出演した。「一つの役で年を重ねていけるのはうれしい。役者としての自分の変化もよくわかるし、役者としての財産です」と主演女優としての余裕も感じられる。
また、化粧品のCMでは『マックスファクターSK−2』に出演し、CM銀賞を受賞した。「湯上りタマゴ肌と言われた桃井がよ、やっぱり十年位前から疲れが出るっていうか・・・」と独特の口調で語りかけるCMが話題となり、売上が一気に倍増したと言われている。時代そのものの様な桃井かおりの起用は、CM界においても一代旋風を巻き起こしたようだ。


1998年  kaori memo
岡田惠和脚本の連続TVドラマ『ランデヴー』にポルノ作家役で主演した。桃井かおりの魅力が全放出されている作品だろう。桃井ファンの中でひと昔前は「ちょっとマイウェイ・世代」と言う呼び名があるのだが、この作品から「ランデヴー・世代」というネーミングが登場した。それだけ彼女の人気・実力と共に、作品の素晴らしさがもたらした結果だろう。
ドラマの中でも異色作と言える『青い花火』で共演した松尾れい子と共に放送文化基金賞の女優演技賞、およびテレビドラマ番組本賞を受賞した。「出演者もスタッフも全員が共犯者だった・・・とっても勇気のある現場だったんですよ」。現場の物凄い緊張感、そしてエネルギーが伝わってくるようだ。彼女のエネルギーに引っ張られる、巻き込まれたと言えるだろう当時新人だった松尾れい子の「あまりの大変さに撮影中のことは、良く覚えていないんです」という言葉が印象に残っている。表現者でなければその感覚は本当には解らないかもしれない。
8年前の『覆面公演』から二度目、イッセー尾形との『二人芝居』に挑戦した。毎回即興とも思える音色の違う二人芝居・・・だからこそ「毎日観て欲しい!」という言葉になるのだろう。この芝居は言葉で説明する事は不可能な気がする。桃井かおりとイッセー尾形と同じ空間(舞台)に身を置くしかない。その中で一人一人が感じる事が全てなのではないだろうか。


1999年  kaori memo
TVドラマでは大作が続く・・・なかにし礼原作『兄弟』では文化庁芸術祭優秀賞、妹尾河童原作『少年H』では日本民間放送連盟テレビドラマ最優秀賞および放送文化基金賞テレビドラマ番組賞を受賞した。
またドキュメンタリー番組『桃井かおり感動ユーラシア大陸横断1万キロ1500円大紀行!』でシベリア鉄道を約1ヶ月で横断というハードな旅に挑戦!英国へバレエ留学していた15歳の時、ボリショイバレエ団に入りたくて聴講生としてモスクワに4ヶ月間滞在したが、夢破れて、泣く泣くシベリア鉄道で日本に帰国した辛い思い出がある。桃井かおりにとって初めての挫折と言えるかもしれない。そのことを払拭するための旅でもあったようだ。これまでサハラ砂漠やヒマラヤ山脈など過酷な旅を数多く経験した桃井だが「今までで一番きつい旅だった」とふりかえる。列車の激しい揺れ、男女混合の四人客室で着替えさえ自由に出来なかったことはサハラ以上に辛い体験だったのだろう。
雑誌”メイプル”に連載していたエッセイに書き下ろし小説2篇他も収録された『賢いオッパイ』が、単行本として発売になる。少女のころからの思い出、仕事、家庭、日常生活、男友達のことなど、エッセイスト桃井かおりの媚薬にも似た魅力に引き込まれる作品だ。女性のバイブルとも名高いロングセラーとなる。
ステージでは『桃井かおり&日野皓正ジョイントライブ・イン・クエスト』が行われた。4月8日は彼女の誕生日であると同時に、会場となったクエストホールの誕生日でもあるそうで、今野雄二氏による日本語に訳されたJAZZを桃井かおり独特の魅力的なムードで聴衆を魅了した。
日本の代表審査員として、PUSAN映画祭に出席したことも記しておきたい。


2000年  kaori memo
2000年の幕明けは日本ボディファッション協会主催の”ミレニアムベストランジェリスト”に選ばれた。単に下着が似合う女性というだけではなく、生き方もひっくるめての賞ということで、桃井の喜び様は女優賞をも上回るものだったらしい。
映画では金子修介監督作品『クロスファイア』に出演し、ベテラン女刑事を見事に演じた。若手の共演者の中において、彼女の存在感・持ち味はやはり特筆すべきことである。
TVドラマにおいても寺田敏雄脚本『ゴーストライター』、井上由美子脚本『秘密』の出演は、桃井の持ち味を充分に引き出した秀作となった。両作品桃井かおりを想定して書かれた作品である。
恒例となった4月のライブは、ジャズピアニスト山下洋輔氏を迎えてのジョイント。また、暮れには久しぶりにディナーショー、六本木スイートベイジルでのライブ、クリスマスコンサートと音楽のステージが目立った。
秋には歌人・与謝野晶子の作品を近藤嘉宏氏のピアノ伴奏にのせた朗読『秋の言の葉コンサート』を6ヶ所で公演し、好評を得た。


2001年  kaori memo
約2年前に撮り終えていた映画『異邦人たち』がようやく公開となる。香港のスタンリー・クワン監督のたっての希望で出演したもので、桃井にとっては初の海外進出となる作品。台詞は95%英語・・・彼女にとっては冒険とも云えるが巧みにナチュラルに言葉を操り、役になりきった上、桃井本来の魅力を存分に表現した作品に仕上がったと思う。その努力はすさまじい!
さらにTVドラマにも6本出演した。単発の他、連続ドラマ『R−17』『ビューティ7』と2クール続く。どの作品も面白いドラマになるためのアイデア・企画・脚本にまで関わるといった徹底ぶり、面白くなければ面白くすれば良いという発想で全力を出し切る桃井の情熱・熱意に周囲も巻き込まれていったようだ。結果は素晴らしい深みのあるドラマ・面白いドラマになったという事は事実!特に『R−17』は単なる17歳をテーマにした学園ものになってしまう危険性を打破し、最終回まで度肝を抜くサスペンスに仕上げたのは見事だ。以前からもそうした傾向はあったが、役者としてのみ作品に参加する事にとどまらず、面白いものにしたいという一念で作品を考えていった時に、全てに関わらざるを得ない状況になったのではないだろうか・・・。日本にはそうした役者の在り方は極めて稀有だが、海外ではすでに存在していると聞く。そうした意味からも桃井かおりはクリエーターとしてトップを走っている事は確かだ。そうした一連の作品への関わり方の中で完成させたドラマがBS−i 放送の『聖夜の肖像』だろう。主演・演出・寺田敏雄氏との共同脚本という形でペンネーム”モモイカオリ”で参加した。この作品への評価はいずれ下されるだろうが桃井のターニングポイントになるドラマではないだろうか・・・。
舞台ではイッセー尾形との4度目の二人芝居に挑戦した。日常というより社会的に大きなテーマに取組んだチャレンジ精神は流石・・・さらにそれを笑いにまで持っていく技量は感服させられる。”「笑い」というのはそれほど重要な事ではないのではないか”というアンケートによる観客の言葉が印象的だ。


2002年  kaori memo
2002年の桃井かおりは舞台、舞台、舞台、舞台・・・!
『桃井かおり&イッセー尾形の二人芝居』大阪公演に始まり、竹中直人の会『月光のつゝしみ』の舞台で幕を閉じた一年だった。舞台は苦手だったはずの彼女がこんなにも生の舞台に挑んだのは、かつて無い事だった。年明けは二人芝居「犯罪を巡る4話」の2001年東京公演に続く大阪公演でスタート。4月恒例となったバースデーライブは二人芝居の森田氏による演出で、桃井かおりの個性を存分に活かしたステージとなった。8月には新作『桃井かおりとイッセー尾形の二人芝居2002年夏』と題された「恋愛を巡る4話」を16日間公演。この公演を”実験”という言葉に置き換えたお二人に感動を覚えた。その反響の凄さに本公演前に追加公演が決定したほど大好評を得た。この勢いはとどまる事なく、ロンドン・ミュンヘンへの海外公演に続く。桃井にとって初の海外公演となったわけだが、何度目かの海外公演となる『イッセー尾形の一人芝居』の分野をある意味において”演劇”に高めていけたのは桃井かおりの力によるところが大きいように思う。その海外公演帰国の足で、すでに共演者の稽古が始まっていた『月光のつゝしみ』に挑む。そのエネルギーは一体どこから生まれてくるのだろう・・・。この作品は94年の第三回「竹中直人の会」で公演されたものだが、今までの作品の中から再演するなら『月光・・・』という竹中氏の強い申し出により実現した。8年前の舞台を観られた方も多いと思う・・・この8年間の桃井かおりの成長ぶりには目を見張るものがある。どんな仕事に対しても常にクリエイターとして参加している姿勢、イッセー尾形氏との二人芝居の実験の成果など沢山の要素はあると思うが、その成長は目覚しい。日本経済新聞(12/19)の劇評には”郡抜く桃井かおりの力”と絶賛された。
今後桃井かおりは舞台女優としてどんな足跡を残してくれるのか・・・楽しみで仕方がない!
舞台の隙間を縫うようにCMやTV番組、雑誌の仕事で海外の仕事を精力的に行った。バリ、モスクワ、ベトナム、オーストラリア、・・・等、海外公演も入れると十カ国を下らない。その体力にはただただ感服する。
春から一年間の予定で週刊新潮に『桃井かおり13チャンネル』の連載をスタートさせた。これまでに月刊の連載はあったものの、長期にわたる週刊は初めての経験。執筆活動においてもチャレンジ精神を忘れない。舞台との両立はまさに神業に近いものがある。
もう一度言いたい・・・「今後の桃井かおりから益々目が離せない!」


2003年  kaori memo
2002年に続き、舞台竹中直人の会『月光のつゝしみ』の地方公演で幕が開いた。10月にジャイルス・ブロック氏の演出により、東京・日生劇場、大阪・大阪松竹座にて『若き日のゴッホ』にチャレンジ!ヴィンセント演ずる歌舞伎俳優・尾上菊之助氏が恋におちる下宿屋の女主人・アーシュラを好演した。これまでの舞台ではイッセー尾形氏との『二人芝居』や竹中直人氏との『月光のつゝしみ』といったクセのある現代劇が多かった。今回は大劇場しかもごまかしのきかないストレートプレイ。本物の実力が問われる難しい舞台で、あれだけ上手い演技を見せ付けられると舞台女優・桃井かおりがどこまで登りつめるのだろうという興味がどんどん膨らんでいく。主演ではないが実質彼女が座長として若い共演者をグイグイ引っ張り、千秋楽まで妥協の無いステージへと高めていった事は容易に想像できる。絵画を観た時のような桃井かおりの立ち姿が美しかった!
今年一番書き留めておきたい事として連続ドラマ『伝説のマダム』の出演だと思う。脚本:野依美幸さんのアシストとして役名「マダム・マリ」のペンネームでガップリ台本に参加した。これまでにも表面には出さず台本に参加した作品は数多い・・・女優がタイトルに名前を出すという事自体、従来には無い画期的な事なのかもしれない。桃井演ずる「マダム・マリの創ったウエディングドレスを着ると幸せになれる」という伝説の女性ドレスデザイナーが実は男だったという最終回に近づくクライマックスは特に印象深く感動的だった!多くの視聴者から熱い、感動のメールが寄せられた事や同性愛者の方々から絶大な支持を頂いたことを誇りにできる作品は初めてかもしれない。桃井かおりが徹夜で脚本にのめり込み、原作にはないストーリーへと展開して行った。「より面白いドラマに!」をモットーとしている彼女の冒険の成果が確実に形になった作品と言えると思う。
森田芳光監督の映画『阿修羅のごとく』に出演。たった2シーンだがその迫力は凄まじく、ブルーリボン賞の助演女にノミネートされるほど絶賛を浴びた。
テレビではNHKの音楽番組『夢・音楽館』の進行役に抜擢される。「あえて司会者ではない」と本人が明言するように桃井の構えない姿勢がリラックスした雰囲気をかもしだし、出演者が意外な素顔を覗かせる。若向きの音楽番組ではなく、演歌でもなく、大人向けの洗練されたトーク、更に二組の歌手によるコラボレーションも絶妙で楽しめる貴重な音楽番組となり現在に至る。自前の衣装&スタイリング・・・そのセンスに脱帽!
更に新しい分野として、ダイヤモンドのデザイン”MOMOIIN Maki”のブランドを立ち上げた!女子美出身の彼女の才能が又ひとつ花開く。蚊取り線香、カエル、トカゲ、ブタのペンダント等、桃井ならではの個性的なデザインが目を引く。
CM4本(SK-U、モビット、ポン酢「かおりの蔵」、じゅわいよ・くちゅーるマキ)に出演!露出度としては今までで一番多かった年と言えるかもしれない。


2004年
  kaori memo
2004年は女優人生の中で転機になった年だったと言える。ついに超大作ハリウッド映画『SAYURI』に進出することになった!しかもオーディションで。アカデミー賞受賞『シカゴ』のロブ・マーシャル監督の目に留まり、異例の早さで決まったという。日本の芸者が舞台で置屋の女将役、台詞はオール英語。桃井は子供の頃ロンドンにバレエ留学の経験があり、日常会話には不便がないはず。しかし感情を入れなければならない台詞となるとかなりの苦労があった様だ。まして土壇場で長台詞がころころ変わる辛さは相当だったと思う。約四ヶ月の海外撮影で桃井は「日本もハリウッドも映画を創るという意味ではなんら変らない。自分のやり方が間違ってなかったんだと分った」など、自分の映画に対する想いに確信を持った事や更に日本に留まることのみならず新しい可能性に向けて挑戦する姿勢を明確にさせたようだ。
更にロシアのアレクサンダーソクーロフ監督による終戦前後の昭和天皇の苦悩を描いた『太陽』では皇后役と海外の監督からの起用が続いた。また、三池崇史監督による『IZO』、クロード・ガニオン監督による『リバイバル・ブルース』が次々と公開になった。
執筆活動も勢力的だった・・週刊新潮に連載していた『夢チャンネル』が一冊に、更に桃井自身が編集長となり企画・アイデアを満載した一冊丸ごと”桃井ワールド”雑誌『時刊 MOMOIKAORI』を刊行し、どれも桃井自身が表紙を手掛けるなど、多才ぶりを発揮している。
恒例になったイッセー尾形氏との『二人芝居』に加え、『桃井かおり一人芝居』に初挑戦した!一人芝居がどれほど難しいかを知っているだけに、その勇気に脱帽。素晴らしい舞台に仕上げたのは見事だったし、自信に繋がったのではないだろうか。そんな時期と重なるようにハリウッド映画の話が来たのは運命かも知れない。インタビューで「今この時で良かったって思う、もっと若い頃だったらタカをくくってただろうし、今は謙虚さも身につけてるし」とあくまで前向きに物事を受け止め全力を尽くし立ち向かうチャレンジ精神は肌と共にとても52歳とは思えない。ハリウッドでも桃井かおりの年齢はミラクルと評判になったようだ。
そして、4月に最愛のお父様が亡くなられた。その悲しみに浸る間もなくハリウッドに出発した。英語が堪能なお父様が背中を押し見守って下さったからこそ、海外進出成功につながったのかも知れない・・・!



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