牛女伝説の真実

鷲林寺に“牛女”がでるという噂がながれはじめて数十年になります。“牛女”とは顔が牛で体が人間であるという、いわゆる化け物・妖怪ということです。その化け物見たさに若者が夜中に寺にやって来て奇声を発するのです。いわゆる肝だめしという感覚でしょうか。特に女の子の悲鳴には驚きます。その声で飛び起きることがしばしばです。寺で休んでいる住職にしてみればたまったものではありません。
インターネットで検索してみると“牛女”として数件のヒットがありました。正直申し上げて、このような馬鹿げたことに対して寺としてコメントするのは控えたいのですが、あまりにもエスカレートするこの話に、このあたりで終止符を打っていただけないかと思い真実を書くことにしました。


西宮市に伝わる“牛女”伝説
西宮市に伝わる牛女の伝説のひとつに、このような話があります。
それは、芦屋・西宮市一帯が空襲で壊滅したとき、ある牛の屠殺場(とさつじょう)も焼失しました。そこには座敷牢(ざしきろう)があり、中には牛頭の娘が閉じ込められていたという噂があったのですが、その焼け跡に“牛女”が現れたというのです。その事件を地元の新聞が掲載したらしいということです。
いわゆる“牛女”伝説の発祥は山手ではなく、西宮の市街にあったのです。


“牛女”伝説のはじまり
住職が高校生の頃、昭和50年前半頃は鷲林寺は静かな山寺でした。夜になると何の音も聞こえない、それはそれはのどかな場所でした。高校を卒業して高野山大学に進みました。高野山大学は和歌山県にあり、とても西宮から通学することはできません。また、高野山のあるお寺に住み込み、修行をしながらの大学生活ですから、西宮に帰れるのはお盆とお正月の数日間だけでした。大学時代の4年間は西宮の様子がまったくと言っていいほどわかりませんでした。

4年間の修行と勉学を終了して、高野山から西宮に帰ってきて鷲林寺で住まいするようになりましたのが昭和57年でした。
その頃からだと思います。夜中に若者がやって来て肝だめしをし始めたのです。はじめの頃はそんなにもひどくはなかったのですが、月日が経つごとにその数は増えていきました。高校生の時代の、のどかな鷲林寺からは想像できない状態になってしまったのです。そこで、夜中の訪問者に遠慮してもらうために、門をつくりました。あまりも騒々しいときは、静かにしてもらうように注意しに行ったこともしばしばありました。また、あまりにもひどいときは警察にお願いしたこともありました。

しかし、夜中の訪問者は増える一方でした。ある日、訪ねてくる車のナンバープレートを見ると、県外の車が多いことに気付きました。広島・岡山・京都ナンバーなどなど・・・なぜこんなにたくさんの人が夜中に来るのか不思議に思いました。
ある日、たまたま静かにしてほしいと注意した男の子と話をする機会がありました。彼の話を聞くと、鷲林寺のことが某週刊誌に掲載されていたと言うのです。その内容は、境内の荒神さんの祠(ほこら)のまわりを3周すると“牛女”が追いかけて来るという内容だったというのです。誰かが投稿した記事ということでしたが、寺の断りもなく無断でそのようなでたらめな記事を掲載した週刊誌に対して抗議しました。週刊誌側は平謝りでしたが、謝ってもらったところで夜中の訪問者の数が減ることはありません。記事を見て、その噂はどんどん広がっていったのです。

なぜ荒神さんの祠を3周すると“牛女”が出現するという噂になったのかといいますと、荒神さんの眷属(けんぞく)として祠の両脇に“牛”をおまつりしています。(どこの荒神さんにもおまつりしてあります)その“牛”を見て誰かが“牛女”と言ったのです。そのひとことが噂となり広がり、最終的に週刊誌に掲載されたことで一気に広がってしまったのです。


噂が洞穴に移行
本堂下に八大龍王をおまつりする洞穴があります。“牛女”の噂は、いつの頃からか荒神さんからこの洞穴に移動しました。
そもそもこの洞穴は、戦国時代に織田信長によって焼き打ちされた折、その兵火から逃れるために、鷲林寺のお坊さんが有馬まで穴を掘って逃げ延びたといわれるもので、現在は10メートルほどのところでせき止めて八大龍王をおまつりしています。ですから、“牛女”とは何の関係もないのです。なぜ、この洞穴に“牛女”が住むと言われだしたのかがわかりません。

いずれにいたしましても、この洞穴は八大龍王という尊い龍神さまをおまつりしている神聖な場所です。寺側としては大変な迷惑です。夜中の訪問者が、面白半分でその洞穴に入って奇声を発しますので、入れないように鉄柵を取り付けたのです。すると、その鉄柵を見て「牛女が出れないようにするための鉄柵」と言われかえって逆効果でした。


“牛女”は引越ししました
夜の訪問者に対しての悩みは3年ほど続きました。睡眠不足の日がずつと続いて、ノイローゼ状態になりました。そんなある日、冗談のつもりで山門入口に看板を出したのです。「“牛女”は残念ながら引越しされました」と・・・その看板を出してから夜中の訪問者の数は激減し、静かになったのです。まさか、このような方法が得策であったとは想像もしていなかったことでした。

ある日、寺務所に若い男性が訪ねてきました。
「すいません・・・“牛女”はどこに引越ししたんですか?」と・・・
答えようがなく
「東北地方と聞きましたが・・・」
と思わず答えてしまいました。
「東北地方か・・・遠いな・・・せっかく来たのにな・・・」
と言い残して帰っていく後姿が強く印象に残っています。


テレビに映る
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999年夏前、某テレビ局から電話がありました。
「お寺を舞台にテレビ撮影をさせていただきたい」
何の撮影かと聞くと、ある番組の収録であるということでした。企画内容を聞くと
「超有名なタレントがお寺に泊まって留守番をして、お寺の体験をするという企画で、その撮影である」
という説明でした。

知り合いにテレビ関係の方もたくさんおられますので、鷲林寺を選んだのかなとも思いましたし、鷲林寺のみならず、寺という場所が「心のよりどころ」として、特に若い方々に親しんでいただけるようにならなくてはいけないという考えを普段からもっていましたので、大変良い機会であると思いお話を聞くことにしました。

プロデューサーが来られて、実際に企画内容を聞くと、“牛女”にまつわる伝説にからめてのバラエティー番組であるということでした。“牛女”と聞いて、当然お断りしました。しかし、テレビ局はあの手この手で撮影許可を求めてきました。しかし、そのような番組でおもしろおかしく放映されてしまえば大変なことになるという理由から何度もお断りしたのです。すると、
「企画を変えての撮影ではいかがでしょうか? 住職の言うとおりにしますから・・・」
と言ってきたのです。

そこで住職としての見解をお話させていただいたのです。。
寺とは、イメージ的にお葬式・法事をする場所と思われがちだが、そうではない。むかしは寺子屋といって、地域の子供たちの学校であり、また役場の代わりをする場所であり、集会所であり、いわゆる人々が集まる場所であった。しかし、いつの時代にか変わってしまった。大変残念なことである。

また、現在の社会全体も歯車が狂ってしまってどうしょうもない状態と言っても過言ではない。特に「こころ」の貧困が問われる昨今、世間に大きな影響を与えることが出来るテレビを使って、メッセージをながせばかなりの効力が得られると思っていた。
そこで、今回の企画の中で、寺への導入口として「お化け」を使うのは仕方がないが、最終的に夜の寺の顔と朝の寺の顔が全く違うという映像をながしていただきたい。夜は「お化け」が出そうで恐いイメージがあるが、朝は鳥がさえずり実にすがすがしい。
人間の「こころ」も同じで、辛いとき悲しいときがあれば楽しいときうれしいときがある。そういった「こころ」を扱うのが本来の寺の姿なんだよというメッセージを超有名タレントにわたしがお話をする。その話に答えて超有名タレントがコメントをする。人間、誰でも辛くなるとき苦しくなるときがある。そんなときに近所のお寺・神社・教会など、どこでもいいから門をたたいてごらん。きっと、やさしく迎えてくれて話を聞いてくれるよ。

そんな企画案を出したのです。するとそのプロデューサーは
「そのとおりにしましょう」
と言いました。そして、いよいよ撮影になったのです。
しかし撮影当日、寺から住職をはじめ、寺のものは別の場所に移動させられ一夜が明けました。何が撮影されているのかわからない状態だったのです。そして、撮影が終わりました。

住職として、どのような番組の仕上がりになっているのか前もって確認しておけばよかったのですが、確認する時間もなくオンエア−当日になりました。テレビに映し出された内容を見て
「だまされた・・・」
と思いました。

メッセージなどまったくなく、ただのバラエティー番組・・・まるでお化け寺のイメージで映っているではありませんか・・・あいた口がふさがりませんでした・・・その後、テレビ局に抗議の電話はしましたが、オンエア−のあと・・・いくら謝罪されたところであとのまつり・・・しかも全国放送だったのでかなりの問い合わせがあり、二年間ほど釈明するのに大変でした。


その後・・・
テレビに映ってから後、夜中の訪問者が再び増えたのは言うまでもありません。しかし、最終的に撮影許可をしたのは住職ですから、仕方ありません。夜の訪問者に対しては、地道に注意をしています。いつかこの噂が消滅して、一日も早く静かな鷲林寺になることを願っています。

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