高野山不滅の法燈「貧女の一燈」に思いを托し・・・
阪神淡路大震災七回忌・震災モニュメント巡礼日記

高野山真言宗青年教師会 会
長  藤原 栄善               

採火式(平成十三年一月十日)

「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛・・・・・・・・」
高野山奥の院燈篭堂に静かに響くご宝号。参列している僧侶は修行僧衣に身をまとい、姿勢を正し一心にご宝号をお唱えしています。その数約70名。すべての人が真剣に、微動することなく、ただひたすらにお唱えされるご宝号。これから始まる行脚に対してのお大師さまからの優しく、そしてあたたかいお言葉に聞こえました。
 昨日までの大雨が霧雨と変わり、いつもになく幻想的な雰囲気の中、「貧女の一燈」の採火式が土生川正道宗務総長さまをお導師として、ご本山上局諸大徳・高野山内ご住職各位・高野山高校宗教科学生諸師ご出仕のもと執り行われました。高野山真言宗青年教師会主催によります阪神淡路大震災七回忌・震災モニュメント巡礼にお供えする灯明として「貧女の一燈」を分燈していただくことになったのです。「貧女の一燈」は、今を去る約千年前、貧しい孝女お照が亡き両親のために女性にとって一番大切な黒髪を切り、それを売ったお金でお大師さまのもとに一燈を供養されたと伝えられるありがたく、そして心のこもった灯火です。自分の一番大切なものを犠牲にしてまでも人さまのために供養するという精神こそ、阪神淡路大震災にて学び、そして考えさせられたボランティアの精神に繋がるものであるということからご本山の特別なご配慮のもと分燈が実現いたしました。ご宝号をお唱えする僧侶が見守る中、身心を清めマスクをした二人の奥之院行法師の手によって蝋燭に分燈された「貧女の一灯」は提灯の中の蝋燭に移されました。提灯の中でユラユラと燃える炎を見て、震災当時を思い出し目にあついものが沸いてくるのを感じました。高野山から神戸までの約120キロの道程を3日間かけて徒歩で運ぶのです。途中消えてはならないということで手に持つ提灯が二つ、伴走車の中に積み込む灯篭二つ、そして万が一のことを考えてカイロが二つ用意されました。


                         不動坂から

 採火式のあと宗務総長さまからの激励のお言葉を頂戴し、決意新たに高野山から神戸までの供養行脚が始まりました。神戸のゴール地点は東灘区御影石町に位置する理性院です。本日から三日間かけて「貧女の一燈」を理性院まで運び届けます。そして一月十五日の震災モニュメント巡礼当日までの二日間預かっていただきます。
 行脚ルートの中には交通状態により危険な個所もあるということから地元青年教師会の皆さんにより事前の下見調査をしていただきました。また高野山から学文路までを南山会の皆さん、学文路から河内長野までを和歌山青年教師会の皆さん、河内長野から大阪までを和泉青壮年会の皆さん、大阪から尼崎までを大阪真言青年会の皆さん、尼崎から神戸までを兵庫青年教師会の皆さんが伴走していただくことになりました。「阪神淡路大震災七回忌供養行脚」と書かれた幟を持つ南山会の目黒寿典師を先頭に提灯が続き約30名の一行は列を組んで奥の院参道を進みます。頭には網代笠をかぶり、手足には手甲、脚絆を装着し、修行僧衣を身に付ける出で立ちにスニーカーがアンバランスでありました。私達の後ろからは、私達をサポートして頂く伴走車がつきます。伴走車には田中裕心事務局長をリーダーにして事務局員、兵庫青年教師会有志らが乗り込みます。
 昨晩から少し残った霧雨もそれ程気になることなく、むしろ清めの雨と思えました。まず奥の院にあります阪神淡路大震災物故者慰霊碑前で読経し、高野町内を抜けました。町内では噂を聞きつけた町家の人々が沿道に立ち励ましの言葉を優しくかけて下さいました。
 高野山から下るルートは古来より七つありますが今回は女人堂から続く不動坂を下ることになりました。奥の院から女人堂まで私達について歩いていただいた三宝院ご住職、信者さんたちとここで別れ、いよいよ高野山をあとにします。「貧女の一燈」を運ぶ提灯は、交代で持ち手を変わりました

 極楽橋駅に至りました時には霧雨もあがり薄日がさしてきました。実は昨晩から今朝にかけて大雨でした。前日の夜、激しく降り続ける雨を見ながら
「明日大丈夫ですかね・・・」
と私に話しかける青年僧がおりました。
「雨は絶対にあがる。お大師さまがきっと守って下さる」

と自身満々に答えたことを思い出しました。今から考えますと、少々の雨ならばまだしのげますが、この季節の高野山は雪があることが多く、雪でも積もっていようものならば私達の計画は大幅に変更になったことでしょう。震災七回忌にむけて「貧女の一燈」を運ぶ私達の心がお大師さまに届き、きっと守って下さる。お大師さまが雨や雪を降らすはずがないとまで確信しておりました。
 九度山駅に続く農道はかなりアップダウンがきつく、膝がガクガク震えます。震災当時のことを話しながら歩いていましたが段々無口になり、ただ黙々と歩き続けます。体力の差が出て、先頭集団と後方集団とは数百メートル離れてしまいました。
 途中、二度の休憩をはさみ昼過ぎに学文路・西光寺に着きました。まず、本堂内に「貧女の一燈」をおまつりし、全員でご法楽をあげました。西光寺のご住職は和歌山青年教師会の方で、ここで和歌山青年教師会を中心とした方々からのお接待で炊き込みご飯とおでんをいただきました。大変おいしく体が温まり元気がでました。


 それぞれの思いで・・・

西光寺で南山会の皆さんとお別れし、気持ちを新たに出発しました。ここからは和歌山青年教師会の皆さんの先達で、本日の宿舎の紀伊見荘を目指します。先頭は和歌山青年教師会会長の島田弘恭師です。学文路までの農道は普段通ったことのない道なので、どのあたりを歩いているのかわかりませんでしたが、紀ノ川を横断する岸上橋あたりから見慣れた風景になり安心しました。橋を過ぎて国道24号線に指しかかろうとした時、一人の僧侶が伴走車の陰でゴソゴソと着替えておられるのが見えました。着替え終えたその人は私達の列に向かって走りより大きな声で
「富山から参りました金子良成です。ここから同行させていただきます」
と挨拶され列に加わられました。この度の行脚のことを知り、富山から朝一番の汽車に乗り参加されたということです。阪神淡路大震災に対する特別の思いがあられたからこその参加であろうと思いました。
 この度の行脚には大勢の方々がそれぞれの思いを持って参加していただきました。本日の行脚への参加は、北海道から宮田俊昌師・資延哲規師・常包全秀師、福岡から渡辺弘敦師、四国から柳本明善師・秀善師親子・弦元昌幸師、富山から金子良成師、播磨から小紫光善師・乾 空師・平田秀弘師、淡路から鈴木暸導師、備前から荒谷隆光師、備中から上西隆全師、高野山から近藤大玄師・齋藤天譽師・目黒寿典師・亀位宗昭師・亀位頴昭師・松村浩禅師・山東幸雅師・豊田高暢師・楠 博州師・内海周浩師・津田哲哉師、和歌山から島田弘恭師・安念邦賢師・船曳雲海師・井本大雅師・織田康隆師・鶴田修士師・川原一修師・穂積浄延師・紺田昌隆師・田野賢朗師・西山泰隆師、三重から木田真円師、大阪から田中裕心師・岡田尚貴師、兵庫から山上太全師、佐々木延弘師・島田大観師・藤原栄善・藤原ひとみ、教学部より薮 邦彦師・佐々野隆信師・松隈康伸師、以上の方々です。
そしてもう一人・・・
 三重から参加して頂いた木田真円師には行脚に参加して欲しいと個人的にお願いしました。震災当時、木田師とともに本山教学部職員として被災地にて日夜活動していただいた一人に故 森田光裕師がありました。森田師は被災者のことを思い、最後の最後まで被災地に残り活動をして頂いた一人でした。しかし、残念なことにその後、お大師さまのもとに逝ってしまいました。人一倍正義感が強く、特に震災のことに関して特別な思いを持っていた森田師でした。もし今生きていたならば、きっと私達と共に行脚してくれるだろうと思い、森田師とともに行脚して欲しいと木田師にお願いしたのです。
「自分もそのつもりでした」
と力強く答えていただきました。
木田師は森田師の遺影を首からかけて三日間行脚していただきました。


  紀伊見荘へ
 道中の安全を最優先して交通量の少ない農道を歩きます。途中、和歌山青年教師会・島田会長の檀信徒の皆さんが沿道に立って私達を出迎えていただきました。中にはお布施を喜捨していただく方もあり、大変ありがたく、またどれほど励まされたことでしょう。午後三時、島田会長のご自坊、子安地蔵寺に到着し、本堂前に「貧女の一燈」をおまつりし、檀信徒の皆さんとともにご法楽を捧げました。その後、あたたかいおぜんざいのお接待をいただきました。ここまで約六時間、険しい山道を歩きマメができた人も多く、またそのマメがつぶれて靴下が真赤に染まっている人もありました。しかし、誰一人として弱音を吐く人はなく、思いをひとつにして本日の宿泊先、紀伊見荘を目指し子安地蔵寺を出発しました。
 夕刻近くなるとさすがに疲れは隠しきれず、ほとんどの人は足をひきずり、額の汗を拭い、歯をくいしばり一歩一歩進みます。車ならばあっという間の距離も本日ばかりはなかなか進みません。
「なーむ 大師や 六根清浄」
と大きな声を出し気合を入れる人。ご宝号を口ずさみながら歩く人。それぞれです。
 紀伊見荘入り口にさしかかったときには先頭集団と後方集団の差はかなり開いてしまいました。紀伊見荘最後の坂は険しく、高野山から歩いてきたものにとっては涙が出るほど辛かった・・・しかし、上りきって紀伊見荘に到着した時、全員掌を合わせました。そして午後五時、最後の集団が足をひきずりながら到着した時は、全員で拍手をしました。全員揃ったところで、思いをひとつにして運んだ「貧女の一燈」を前にご法楽を捧げました。本日のみの参加の方が多く、風呂に入った後各地のご自坊に帰っていかれました。お疲れさまでした。


 二日目出発(一月十一日)

 午前五時三十分起床。朝食はコンビニで買ってきたおにぎりを紀伊見荘ロビーでほおばります。本日は、三日間の中で、距離が一番長い行程です。紀見トンネルは交通量が多く、また排気ガスで健康を害する危険もあるという判断のもと、トンネル出口よりのスタートとなりました。トンネル出口まで紀伊見荘のバスで送っていただきました。まだ真っ暗闇の中、和歌山青年教師会・島田会長先達のもと午前六時三十分出発しました。島田会長のあとに柳本明善師・秀善師親子、金子良成師、乾 空師、常包全秀師、山上太全師、小紫光善師、木田真円師、藤原栄善が続きます。昨晩大阪から駆けつけてくれた川瀬全巌師、早朝兵庫から駆けつけてくれた森田洋平師を加えて伴走車に田中裕心師、藤原ひとみが乗車しました。昨晩温かい風呂に浸かったあと、かなりの量のシップ薬を痛んだ足にすり込んだお陰か、昨日よりも痛みはかなり緩和していました。きょうも良い天気になりそうです。口から白い息を吐きながらひたすらご宝号を唱えながら歩きます。島田会長の配慮のもと、南海電車横の遊歩道を進みます。あたりが明るくなりかけた頃、畑の畦道を、手を振りながら私達を追いかけて来る女性がいました。手にはお布施袋を持っておられます。私達が行脚していることを高野山の知り合いから聞き、駆けつけていただいたとのことです。ありがたいことです。
 午前七時三十分、河内長野市かかりのドライブイン8000番に到着しました。ここでは和泉青壮年会会長の藤本寛宏師が待ち受けてくださいました。ここから藤本会長の先達で進みます。少しの休憩をはさみ河内長野市内へと入っていきました。見慣れた街並みですが、普段は車で通り過ごしてしまう景色も、歩きながらゆっくり見ると新しい発見がたくさんありました。「阪神淡路大震災七回忌供養行脚」と書かれた幟を見上げて
「がんばりや」
と声をかけてくださる人もたくさんおられます。私達も、道行く人に
「おはようございます」
と大きな声で挨拶します。突然に修行僧衣姿の坊さんに声をかけられるのですから、中には驚いた顔をされる方もおられましたが、ほとんどの方が
「おはようございます」
と挨拶を返してくださいました。朝の挨拶は大変気持ちの良いものです。
 八時四十五分、河内長野市内のガソリンスタンドで休憩をとらせていただきました。ここでは、観心寺の永島龍弘ご住職が私達のために温かいコーヒーを用意していただいておりました。大勢の方々に守られながら、「貧女の一燈」を神戸まで運ばしていただいているということに感謝いたしました。少しの休憩をはさみ永島ご住職のお見送りをいただいて出発します。


 福田食堂のおばあちゃん

先頭は小紫光善師。体を鍛えることが好きで、毎日のトレーニングはかかさないと聞いておりましたが、この辺りからその実力が見え始めました。延々と続く道・道・道・・・小紫師は背筋を伸ばし「貧女の一燈」をかかげてペースをくずすことなく黙々と歩きます。平均時速4qが普通のペースと聞いておりましたが、6.5qペースであったとあとで聞きました。本日のハードな行程を配慮してのペース配分であったということです。小紫師の作り出すペースに必死で着いていこうとしますが、着いていけたのは藤本師、金子師、常包師、柳本秀善師のみでした。しかしながら、私達も遅れはしたものの、小紫師たちの姿を追いかけながら必死に歩きました。そのお陰で昼食を予定していた福田交差点近くの福田食堂に予定到着時刻より一時間早く到着しました。伴走していたスタッフも驚いていました。
修行僧衣姿でファミリーレストランに入るわけにもいかず、昔ながらの食堂を伴走車のスタッフが探してくれました。食事をする場所、トイレ休憩の交渉などなど、すべての段取りをスタッフがしてくれます。これも大変な仕事です。
福田食堂に入ると留守番をしていたおばあちゃんが私達の姿を見て
「あんたら昨日テレビで見た高野山から歩いている坊さんたちやね」
と声をかけてくれました。
「はいそうです」
と答えると、しわくちゃの顔を一段とくしゃくしゃにして
「ご苦労さんやね。ちょっと待っといてや」
と言って奥の部屋に入っていきました。その間、店員さんにそれぞれ注文します。また昔ながらの食堂で、ケースの中から並べてある好きなおかずを選び食卓に運びました。私は好物のカレーうどんを注文し、ケースの中からは卵焼きを取ってきました。それぞれ注文したものが揃い、食べ始めた時おばあちゃんがお皿に山盛りの漬物を持って帰ってきました。
「あんたら精進料理しか食べられへんのやろ。可愛そうにな・・・これ、おばあちゃんが漬けた漬物や。お接待やから食べなさい」
と言いながら、私の前のカレーうどんを見て一瞬とまどい
「こ、これ、カレーうどんやないの・・・肉入ってるがな・・・・」 
続けて
「そりゃそうやわな・・・体力使うしな・・・」 
そう言って高笑い。私の横にいた常包師がそっとハンバーグを隠したのがおかしかったです。
 「貧女の一燈」の説明をおばあさんにすると、是非お仏壇にお供えしたいとのことでお分けしました。乾師がお仏壇前まで行き回向してさしあげました。おばあちゃんは泣いて喜ばれたそうです。

 

 足が痛い

 和やかな雰囲気のもと正午、福田食堂を出発しました。ここで和歌山青年教師会島田会長とお別れです。お腹も満腹になり元気を取り戻したはずですが、長い休憩をとりすぎると足の筋肉が硬直してしまい、歩き出して暫くするまで調子がでません。重たい足を引きずるようにして歩きます。三国ヶ丘近くになると景色は田園風景から街の風景に変わり、道沿いに建ち並ぶ店が多くなります。新車を展示しているショールームがあり、車を見ながら歩いていました。すると、ガラスの中に写しだされた自分の姿が見えました。自分ではしっかりと歩いているつもりでしたが、足をひきずり、お尻を突き出して杖にもたれるようにして歩いている自分の姿に驚きました。次の休憩場所で、伴走車に乗って少し休憩するように勧められましたが歩き続けると言いました。
 堺東駅近くになりますと人の数が増え、いよいよ大阪市内に入ってきたという実感がわきます。道行く人たちが私達を見て
「あっ、きのうテレビにでていた坊さんたちや・・・」
と言います。しかし、余裕がなく返答もできずに黙々と歩き続けます。堺東駅を過ぎた辺りから体力の差が出て、先頭集団から一気に離されました。先頭は言うまでもなく小紫師で、藤本師、金子師、柳本秀善師の三人が続きます。あとはバラバラになってマイペースで歩きます。ここから家内も行脚に加わりました。
 大和川にさしかかった辺りで右足に激痛が走りました。今まで痛かった左足をかばい変な歩き方をしていたせいでしょうか、今までにない痛みでした。一緒に歩いていた山上師と木田師が励ましてくれますが、二人とも足をひきずって歩いています。似たりよったりの三人が励まし合って本日の宿泊所、正圓寺を目指します。しかし足の痛みは悪化するばかりで、歩くペースが一段と落ちました。その時、常に私達を見守るように後方からついて来ていただいていた柳本明善師が私達の横に並ばれ「後から見とったら、かなり腰にきとるな。あまり無理して歩きよると、明日にこたえるけん無理したらあかんぞ。わしは先に行くけん、ゆっくり来なさい」
と言い残し、かなり前を行く先頭集団に走って追いつかれました。柳本師のパワーに三人で顔を見合わせ目を丸くしました。柳本師は徳島・鯖大師本坊のご住職で、信者さんたちを連れて「満足行」として四国霊場を歩いて遍路を実施されている大先達で、この度も歩くことで供養になるならばということでご子息と二人で三日間参加していただきました。さすがに日頃から歩いておられる方は違うと感心しました。

 

 正圓寺到着

午後三時二十分、先頭集団から約三十分遅れて正圓寺に到着しました。先に到着した人たちの拍手に迎えられ、山上師・木田師に抱えられながらのゴール。歩き通せたことに感謝いたしました。本堂前に「貧女の一燈」をおまつりしご法楽を捧げ、本日宿泊させていただく部屋に通していただきました。
 予定では、午後六時頃到着予定でしたが、予定を大幅に短縮できましたことは、小紫師のペースメーカーとしての的確な判断による結果であります。早く到着したことで、気持ちにも余裕ができて、明日に備えることができました。和泉青壮年会の藤本会長はここでご自坊に帰られました。
 ほとんどの人の足にはマメができて痛々しいです。特に乾師の状態はひどく、マメが破れて血がにじんでいます。そんな状態を見て、柳本師が救急箱を出してこられました。針に糸を通し、その糸に赤チンを染み込ませマメに針を刺し通します。赤チンのついた糸を残して一晩過ごします。糸がマメの中の水を吸い、赤チンによって消毒され、皮も破らず処置ができるという方法でした。さすがに大先達だと感心し、皆糸をぶらさげて休むことにしました。夕食は正圓寺のご住職からのお接待でおいしくいただき明日に備えて就寝しました。

 

 神戸を目指す(一月十二日)

 本日の行程は昨日に比べると短く、疲れもたまっているということで、ゆっくり目の出発となりました。兵庫から森田洋平師と入れ替わり佐々木延弘師が、大阪から麻生祥光師・堀江孝明師、河内から京極宥海師が早朝駆けつけてくださり、田中師、川瀬師とともに伴走車に乗り込んでいただきました。午前九時二十分、正圓寺を出発して国道26号線を北上します。弁天町交差点より国道43号線に入り、ひたすら神戸を目指します。大阪の町は意外と川が多く、何個も陸橋を越えなくてはなりません。陸橋には階段が多く、その階段の上り下りが結構こたえました。国道43号線はトラック・ダンプなどの大型車両の通行が多く、排気ガスが充満しています。呼吸を整えながら歩きます。またこの日は風が強く、二回ほど提灯の「貧女の一燈」が消えました。二個の提灯を持っているのでつけ直して再び歩きます。皆の手によって大切に大切に運ばれます。淀川を越えたあたりで六甲山が見えました。
「神戸に近づいてきた」
と思わず大声で叫びました。しかし足は重たく、またまた二グループに分かれてしまいました。先頭グループは小紫師を先頭に金子師、常包師、柳本秀善師が続き、少し離れて柳本明善師、乾師、山上師、木田師、藤原栄善、藤原ひとみが続きます。常包師のアドバイスで本日は靴下を二枚履いてクッション代わりにしました。最初は気持ちよく歩いていたのですが、時間が経てばやはり激痛が走ります。
「震災で焼け死んでいった人たちの苦しみを思えば、こんな痛みぐらい何てことない。南無大師遍照金剛・・・」
そう自分に言い聞かせて歩きました。

 

 被災地へ

尼崎東本町交差点を右折し、国道43号線をあとにして国道2号線に入ったところで昼食となりました。さすがに三日目ということで疲れがたまっているせいか、大幅に到着予定時刻をオーバーしてしまい午後一時十五分にようやく到着しました。ここで兵庫青年教師会の山本泰弘師が私たちを待ち受けてくれました。昼食は懐石弁当でした。予定より遅れたためお腹がすいて一気にたいらげてしまいました。
 午後二時気合を入れ直して出発しました。尼崎まで来れば、神戸までは目と鼻の先です。山本師も列に加わり元気百倍。私にとってここからは地元であり、通り慣れた道であるという精神的な作用もあったのでしょうが、不思議と足が軽くなり先頭集団のスピードについていくことができました。それも私だけではなく、先程まで足をひきずっていた木田師も足が軽くなったと言い、ついてくることができました。被災地に入り、犠牲となられた6432名の方々がきっと私たちを後押ししてくれているのだと勝手に思い込んでいました。そして、震災当時のことを思い出し、人々の泣き叫ぶ声を思い出し、その人たちに
「貧女の一燈を持って帰ってきましたよ・・・」
と心の中で語りかけていました。胸があつくなり、知らず知らずに涙が溢れ出し、その涙を拭いながら歩きました。
 西宮市に入ろうとした時、突然と和泉青壮年会藤本会長が列に加わられました。
「またここから仲間に入れてください」
藤本師にはご自坊での檀務を済ませて再び駆けつけていただき行脚に参加していただいたということを聞き、ありがたく、そして勇気づけられました。

ゴール地点理性院

西宮市に入り二度の休憩をはさんで芦屋市を抜けます。そして最後の休憩所である神戸市東灘区田中町のコンビニに着いた時には辺りはすっかり薄暗くなりかけていました。ゴールの理性院まであと数キロです。ここからは列を崩さず一列で、一歩一歩かみしめながらご宝号を唱えて歩こうということになりました。今まで提灯を守りつづけてくれた小紫師が私に
「ここからは会長が提灯を持ってください」
と言って私に提灯を渡してくれました。自分の体を運ぶだけで精一杯であった私にとって、道中ひとつの提灯を持つことすら負担であり、ずっと小紫師らに托していましたが、最後だけは私に花を持たせてやろうという優しさからの言葉でしょう。その言葉に甘えて持たせていただきました。
 すっかりと暗くなった街に浮かび上がる「貧女の一燈」を運ぶ提灯の明かりが美しく、すれ違う人々の中には合掌して私たちを見送る人が大勢おられました。いよいよ理性院まであと一キロと迫ったところに兵庫青年教師会の仲間が数人待ち受けてくれておりました。また、沿道には遺族となられた檀信徒の方も数名おられました。その人たちも列に加わり理性院を目指します。あと数百メートルに迫ったとき、三日間の巡礼の旅での様々なシーンが脳裏をかすめました。
 理性院境内には兵庫青年教師会会長の藤田亮佑師以下、兵庫青年教師会の会員諸師、高野山から近藤大玄課長、檀信徒の方々が私たちを待ち受けてくださいました。その群集の中を通り抜け、境内にある震災観音前に「貧女の一燈」をおまつりし全員でご法楽を捧げました。その後、理性院持仏堂内陣に安置された「貧女の一燈」は堂内を明々と照らし、高野山から神戸までの長い長い道程を運んでいただいたすべての方々に対して優しい声で
「おつかれさま」
と語りかけてくださっているような気がしました。持仏堂で再びご法楽を捧げ改めて犠牲となられた方々の菩提を祈り高野山から神戸までの行脚は終了しました。
 震災モニュメント巡礼当日の一月十五日迄の二日間、こちらで預かっていただきいよいよ当日を迎えます。

 

 震災モニュメント巡礼(一月十五日)

一月十五日午前六時、まだ暗い理性院境内には数十人の檀信徒が集まっておられました。持仏堂にてご法楽を捧げたあと提灯に移された「貧女の一燈」を携え理性院を出発しました。一般檀信徒を含め約三十名の行列は震災モニュメントの中心である東遊園地内・「希望の明かり」を目指します。この冬一番の冷え込みと発表された通りさすがに寒く、提灯を持つ手が震えました。震災犠牲者供養のために理性院から東遊園地までの約7キロの行脚に参加していただいた一般の方々に順番に提灯を持ってもらいゆっくりと進みます。
 午前八時、約二時間かけて東遊園地に到着しました。東遊園地にはこの巡礼に参加するために手弁当でかけつけていただいた全国各地からの青年教師会の仲間たち百八十五名が一心に読経し私たちの到着を待っていただいておりました。きっちりと整列し、胸の前に合掌をし、読経する声は東遊園地領域を清めるがごとく響きわたっておりました。そこに行列がすすみ、「希望の明かり」前に設置された燈篭に「貧女の一燈」を移します。
 その灯を携え12のグループに分かれ、淡路島・明石市・神戸市・芦屋市・西宮市・尼崎市・宝塚市・伊丹市にまたがり点在する120ヶ所のすべての震災モニュメントにお供えし祈りを捧げるのです。町の人たちも声を合わせて読経する中、それぞれのグループが用意されたコップ蝋燭に「貧女の一燈」を移していきます。そして、灯を移したグループから車に分乗してそれぞれの地域に出発していきます。
 モニュメントの中には慰霊碑や震災で壊れた岸壁、時計台などがあり、その形は様々ですが、そこには多くの人々の鎮魂の祈りと復興への希望が托されており、それぞれの場所で「貧女の一燈」を供えて心を込めた供養を行います。また、震災モニュメントには震災にて全焼してしまいましたが奇跡的にキリスト像だけが残り、そのキリスト像がモニュメントになっている長田区の鷹取教会も含まれています。しかし、この度は、神父さまのあたたかいご理解のもと、宗教を越えて祈りが捧げられました。千年以上前に高野山奥の院に灯されたお照さんの真心が、震災によって犠牲となられた方々に私たちの真心と変わって届くように一心に祈りました。
 巡礼に参加して頂いた青年教師会の方の中には、震災直後ボランティア活動で被災地の人々と接した人も多くおられ、この巡礼を通して、宗教者として今後何ができるのかを改めて見つめなおしていただく機会になった方も数多くあったことと思います。
 午後二時を目指してそれぞれの巡礼を終え、研修会場である神戸ポートピアホテルに各グループが帰ってきます。会場正面におまつりされたお大師さまのお姿の前に、それぞれのモニュメントにお供えし、祈りを捧げた「貧女の一燈」を返していただきます。12のグループのそれぞれの思いをこめた灯を一つにし、「祈りの灯」としました。

 研修会

 午後二時三十分よりポートピアホテルにて研修会を開催しました。岐阜大学講師の大下大圓千光寺住職と作家の藤本義一先生を講師としてお招きしました。大下師は「密教福祉活動への提言―命のネットワーク活動・十五年の歩みから」と題して、ご自分がお寺の活動を通して実際に病気で苦しんでおられる患者や青少年に対してやってこられた体験談を、スライド写真の映像を通して語っていただきました。その中で、二十一世紀はお寺という場所を開放し、新たなネットワークを発信する場所になっていくよう努力しなければならないことを感じました。また、藤本先生からは、阪神淡路大震災の被災者のひとりとしての体験談が語られ、その中で現代における宗教の在り方について、青年教師として新たな視点でものを見ていくことの提案をいただきました。また、高野山からご公務お忙しい中、土生川正道宗務総長さま・岩坪眞弘教学部長さまが駆けつけていただき、この度の震災モニュメント巡礼を通して自分自身を見つめなおすよい機会としていただきたいと私たち青年教師に対して激励のお言葉を頂戴しました。 
 人類にとって記念すべき二十一世紀の幕開けとともに阪神淡路大震災震災の七回忌がやってきました。これを偶然ととらえるのではなく、素直な気持ちで「大自然からのメッセージである。犠牲となられた方々からのメッセージである」ととらえることが、二十一世紀を「心の時代」とするきっかけになることと思います。6432名の尊い生命を奪った阪神淡路大震災・・・倒壊した家の下敷きになり、まだ生きているのに、発生した火災の炎にのまれていった人々。また、焼かれていく家族をどうすることもできずに見ていなければならなかった無念さ。この他にもたくさんの悲劇がありました。もしかしたら、あの時私自身も死んでいたかもしれない。また今後、どこで何が起こるかもしれない。たまたま生かされた私たちの使命とは、亡くなった人たちの供養をすること。そして今後の備えというものを真剣に考えていくことであるということから上西隆全実行委員長より以下の声明文が読み上げられました。

声明文
我々高野山真言宗青年教師会は、阪神淡路大震災七回忌、震災モニュメント巡礼を出発点として、これからのボランティアについての再認識と、それに関するネットワークの充実を図るため、高真青ボランティアネットワークの設立を目指すことをここに宣言します。
平成13年1月15日

 お大師さまのお言葉に
「重々帝網なるを即身と名づく」

とあります。重々帝網(じゅうじゅうたいもう)すなわち現在の言葉でネットワークのことであると思います。全国各地の青年教師の仲間が、この度の震災モニュメント巡礼を機会にネットワークをつくり、どこの地方に誰がいて、誰が何を持っていて、仮に災害が起こったときすぐに対応できる体制を確立しておくことが大切であると思います。

 

 結 願(一月二十三日)

お照さんが、亡き両親の菩提を祈るために灯された「貧女の一燈」を高野山から神戸まで運び、その灯を120ヶ所の震災モニュメントにお供えし震災犠牲者の菩提を祈りました。それらの灯をひとつにまとめ「祈りの灯」としました。皆さまの思いをお大師さまに伝えるため、一月二十三日、田中裕心事務局長とふたりでその灯をお大師さまのもとにお運びしました。当日は雪が降り続く中、本山法会課の皆さん、教学部の皆さんご出仕のもと十数名にてご法楽を捧げていただき、「祈りの灯」をお大師さまご廟前にお返しし結願とさせていただきました。
「貧女の一燈」というひとつの灯を中心に私たちの思いをひとつにできましたことに、大勢の方々がひとつのことに思いを寄せることができたという尊さに感謝申し上げます。そして、この度の震災モニュメント巡礼に関わっていただいたすべての方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。              合 掌                  

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