あたいはあんさんのことが好きでんねん

六大新報 平成9年1月1日新春増大特集号掲載

昨年初夏、檀家の八十四才になるおばあちゃんから、亡き主人の七回忌の法事の席で、
「あたいはあんさんのことが好きでんねん・・・いえいえ、決して変な意味ではおませんで」
と告白された。頬をほんのりピンク色に染めて、恥ずかしげに私を見つめるおばあちゃんは、三十六才の私に、半世紀近い年齢差を一瞬忘れさせるほどの可愛らしさを感じさせ、感動を覚えさせた。

おばあちゃんとのつき合いは、私が高野山大学を卒業して、西宮市の自坊に帰ってきてからになる。おばあちゃんが七十才、私が二十二才の頃である。もちろん主人も健在で、西宮市の山手の大きな家に夫婦二人で暮らしておられた。二人には子供がなく、私を孫のように思ってくれていたのだろう。毎月のご先祖の供養も、学生上がりの私を指名していただき、夫婦揃って可愛がっていただいた。五年ほど経過して、夫婦二人では家が大きすぎるということで、西宮市から神戸市にマンションを購入し移り住まれた。
「お寺さんも、なじみのあんさんが良い」
ということで、引き続いて神戸まで毎月足を運んだ。数年幸せな毎日を送っておられたが、主人が亡くなり、一人暮らしになってしまった。おばあちゃんには、京都に住む姪子さんが一人おられた。主人が亡くなった後は、その人がたまに尋ねて来ておばあちゃんの身の回りの世話をされていた。おばあちゃんにとっての楽しみは、姪子さんの訪問と、月に一度の私の訪問であったと聞いた。
平成七年一月十七日、「阪神淡路大震災」が発生した。おばあちゃんも一人暮らしのマンションの一室で地震に遭遇した。幸いにも怪我一つしなかったが、激震地区の神戸であったため、マンションは半壊となり、京都の姪子さんの家に引き取られて行った。
数ヶ月後、おばあちゃんから連絡があった。
「やっと京都の姪の近くに落ち着きました。遠い所申し訳ないが、仏壇の開眼に来てくれませんか」
という依頼であった。京都といっても高野という所で、名神高速の京都南インターから一時間近くかかる場所である。西宮から少なくとも片道二時間半はかかる。しかし、長いつきあいのおばあちゃんの頼みである。都合をつけて京都まで車を走らせた。震災後始めて再会したおばあちゃんは、まるで恋人に再会したように喜んでくれた。開眼供養が終わり雑談中、おばあちゃんから予想外の言葉が飛び出した。
「遠い所申し訳ないけど、毎月おまいりに来て欲しいんや」
私は思わず絶句してしまった。西宮から京都に毎月お参りに来る自信がなかった。しかし、躊躇している私を見つめるおばあちゃんの目から涙がこぼれるのを見て、
「毎月来るよ」
と答えてしまった。
大変なことを引き受けてしまったと最初は思ったが、数回通ってみると結構楽しみになってきた。情緒ある京都の町並みを毎月見ることができるし、何よりも喜んでくれるおばあちゃんの笑顔がうれしかった。
そして数ヶ月後の法事の際、半世紀の年齢差を越えた告白に至ったのである。
告白をされて数ヶ月後、おばあちゃんは亡くなった。まるで大切な恋人を失った時のように止めどなく涙が流れた。枕経、通夜、葬儀。おばあちゃんが速やかに成仏できるように真剣に拝ませていただいたのは当然のことである。週に一度、京都までの長い道のりを運転し、逮夜に七度通った。
「あたいはあんさんのことが好きでんねん」
という言葉が、京都までの遠い距離も忘れさせてくれた。満中陰も終わり、姪子さんの希望もあり、おばあちゃんの月命日に今でも毎月京都までお参りを続けている。
「心の貧困」が問われる昨今、私達宗教家にもその難問が投げかけられている。それに対し、特に青年僧侶を中心として、今後の寺院の在り方、今後の青年僧侶の在り方などについて活発な意見交換がもたれる会が催されている。その中で、「心が亡くなる」と書いて「忙しい」という文字になる如く、忙しさにマヒしてしまって、本来の自分の役割を忘れてしまった人が増えているのが現代人の特徴であり、「心の貧困」の原因になる根源であると言われている。
この度のおばあちゃんの一件で、私は人間同志の信頼の大切さを学んだ。その信頼は、決して忙しさの中から生まれるものではなく、豊かな心を持った時に生まれてくるものであることを学習した。
「あたいはあんさんのことが好きでんねん」
果たして今の私に、この言葉を全ての檀信徒から言ってもらえるだろうか。不安である・・・
一人でも多くの人から愛される、又、一人でも多くの人を愛せる坊さんとして、人間として精進していきたい。 
                                                   

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