このままでいいのでしょうか   〜一青年僧の素朴な疑問〜

六大新報 平成八年九月十五日号掲載

 いま、「1970年代」への回帰現象が目につくと五月三十日の毎日新聞は伝える。二十七才で亡くなった女優、夏目雅子を起用した「キャノン」のカラーコピー機のコマーシャル。没後十一年、コピーで作った異色の「写真集」に応募が殺到したという。又、音楽ではカーペンーズがリバイバルヒット中で、アルバムが191万枚も売れた。イーグルスも「ホテルカリフォルニア」がヒットチャート入り。渡辺真知子、狩人ら70年代を一世風靡した歌手もテレビに姿を現すようになったと伝える。                                              さらに、広告ディレクターの今道正純さんのコメントに、
「今モノを企画し、作る側の中心は、70年代の文化の洗礼を受けた30〜40歳代である。彼らは『もっと素晴らしい物があったよ』と若者に訴えたい気持も強い。それが新鮮に映り、受けるのだと思う」と。 
70年代に青春時代を過ごした私にとって、この記事を読んで胸躍る気持になった。夏目雅子さんのブロマイドを生徒手帳にそっとしのばせていたことや、深夜ラジオ番組から流れるヒット曲を必死で録音して何度も何度も繰り返し聞いていたことなどを思い出す。

何でもありの「自由」
 古来、日本の文化は中国から渡ってきた。しかし現在は、アメリカの文化・思想が中心のようだ。特に、若者は「自由」を主張したがる。なるほど「自由」を主張するアメリカは大国ではあるが、アメリカが唱える「自由」と、日本人の若者が唱える「自由」とはいささか違うような気がする。アメリカの「自由」はルールを守っての「自由」であり、決して「何でもあり」の「自由」ではない。現在、マスコミをにぎわす「高校生売春」などは典型的な「自由」という意味の取り違えであろう。
 先般、テレビで「高校生売春」で消防士が逮捕された事件について報道されていた。これは、事件を起こした消防士が部下のポケットベルを鳴らしたつもりが、偶然女子高校生のポケットベルにつながり、それが発端で「高校生売春」にまで進展したという事件であった。女子高校生も浅はかであることは言うまでもないが、この事件について記者がアンケート調査をしていたが、質問に答える中年男性諸氏の答えには驚いた。
「あなたがそんな立場に置かれればどうしましたか?」
「女子高校生について行くかもしれません」
 例え嘘でも毅然とした態度で対応してもらいたかったし、伝えるテレビ局も配慮がなかったのだろうか。報道機関も「報道の自由」と唱え、「自由」が意味をはき違えて一人歩きをしているように思えて仕方がない。

アイドルの商品化

 例えば「アイドル」という問題がある。「アイドル」とは前述したように 、ブラウン管から流れる生き生きとした姿を見て、あるいは写真などを見て生活の励みにする。そういった役割があるのではないだろうか。少なくとも私たちの時代はそうであった。しかし現在のマスコミは「女神的存在」であったはずの「アイドル」を完全に「商品化」してしまっている傾向にあるのではないだろうか。例えば、宮沢りえさんがいる。彼女は何らかの理由で激やせしてしまった。病気の彼女を取材人が追い掛け回し、遂に日本におられなくなった彼女はビバリーヒルズに逃避し休養するはめになった。しかし、ビバリーヒルズまで追いかけて彼女の姿を一瞬でもカメラに収めようとする始末。あまりにも個人のプライバシーを無視した軽率な行為にしか見えなかった。
 これは「自由」のはき違いとしか思われない。言い換えれば、現代日本人思考に目立ってきた「自分さえ良かったらそれでいい」という考えからであろう。
 ワイドショーにしてもそうである。「自殺問題」「嬰児置き去り事件」などもひどいものだ。
「昨日未明、北海道で○○ちゃんが自殺しました」
「昨日未明、○○駅の女性トイレのゴミ箱から、産まれて間もない嬰児の死体が発見されました」
 自殺をした事実だけを報道する。嬰児が置き去りにされていた事実だけを報道する。それだけで一向にその解決策を提示しようとしない。
 この番組を見ていた子供たちはどう思うだろうか。
「そうか。苦しかったら自殺をすればいいんだ」
 子育てに困惑している母親が見たらどう思うだろうか。
「そうか。育てられなかったら駅のトイレに捨てればいいんだ」
 極端な言い方かもわからないが、それほどテレビなどのマスコミが与える影響は大きい。
 これらは番組を制作するディレクターなりが
「視聴率が上がればそれでいい」
言い換えれば
「自分さえ良ければそれでいい。自分さえ儲かればそれでいい」
そういった思考で番組を制作するからこういった番組になっていくのではないだろうか。
 しかし、このような中にも心をなごませるCMがあった。「ワンカップ大関」のCMで、ジミー大西さんが
「何でみんな怒って生活しているの?
と言いながらお酒を飲むもの。ハッとさせられた。
 若い年齢層の人は、「アイドル」に興味を持っている。「アイドル」が発言したことは、かなりの影響力がある。例えばテレビなどを通して「アイドル」の口から
「もっと自分の体を大切にしなくっちゃいけないよ」
などと言ってもらえば「高校生売春」なども減少するのではないかと思う。

人間教育の欠如
 
私たちの子供の頃と比べると「遊び」もかなり変わってしまった。ファミリーコンピューターが大流行であるが、これは大勢で遊ぶものではなく、個人で楽しむものである。勉強しなくてはならず、遊ぶ時間に余裕がないという現代の子供たちのニーズに合わせ、子供たちの生活事情を把握し、それらの問題点を実に見事にクリアーし完成された玩具であろう。しかし、ファミリーコンピューターがない時代は大勢で遊ぶことによって色々なこと学んだ。例えば喧嘩をすることで、人を叩くことで「これだけ叩けば鼻血が出る」という限度を学習した。しかし、現代の子供たちの中に、いきなり金槌で人を叩く子供がいたことを聞いたことがある。大人が介入してはいけない子供たちの「心」の中にまで容赦なく入り込み、子供たちの遊びをも商品化しているのではないだろうか。これもまた
「自分さえ良ければそれでいい。自分さえ儲かればそれでいい」
という考えが生んだ結果ではないだろうか。
 「学校」と「塾」の関係はどうだろうか。どちらが主流なのかわからない状態である。「塾」は生徒が入会して始めて成り立つ。また、その「塾」から有名校に合格した人が出ればその「塾」の任期は上がる。必然的に「塾」の先生も有名校に合格させるべく一生懸命子供たちに勉強させる。勉強できる子供は良い。しかし、勉強できない子供はどうなるのか。
「人の顔の上に自分の足を掛けてでもはい上がって勝利をつかみ取れ」
そういった教育をされ、たとえ一流校に合格したところで、果たして人間としての教育は成されているのだろうかと頭をかしげる。
 また「塾」が終了するのは夜中の10時・11時と聞く。この時間に帰宅する子供たちは、途中マクドナルドやケンタッキーに立ち寄り、ハンバーガーやフライドチキンをほおばる。大人でさえこの時間帯に食事をすれば健康上悪いと言われているのに子供が兵器で買い食いをする。糖尿病の子供が増加していると聞く。これも自分が経営する「塾」が有名になればいい。ハンバーガーやフライドチキンが売れればいい。即ち
「自分さえ良ければそれでいい。自分さえ儲かればそれでいい」
という考えから生れてきた現象であろう。


自分本位の政治家たち
 
正解においても納得できないことが多々ある。現在世間を騒がしている「住専問題」などは、私たちの手の届かないところで動いている。また、悪事をはたらいた人が何度も何度も再選している。まったく理解ができないことが多すぎる。国民の中で誰がどのようにして日本を動かしているのかを知っている人が一体何人存在するのであろうか。不思議な世界である。ましてや私たち、範新刊に住まいするものにとっては、政治不信に陥っている人がほとんどではないだろうか。「阪神淡路大震災」によって多大な被害を被った現地ではまだ仮設住宅での生活を強いられ、明日の希望さえ見えない人が大勢おられる。そんな人たちを無視して別のことばかりに必死になっている。特に現在の政治家は
「自分さえ良ければそれでいい。自分さえ儲かればそれでいい」
という考えの人ばかりに思えて仕方がない。
 逆にその政治家を選ぶ国民もいい加減なところがある。選挙前にこんな話をされた人がいた。
「今度の選挙で○○先生に投票して下さい。お願いします」
なぜかと聞くと
「○○先生が落選すると旅行に行けなくなりますから」
なんとお粗末な理由であろうか。このような人が選ぶのだからお粗末な政治家が当選しても仕方がない。


お寺の敷居は高い
 
私たち宗教界にとって「オウム真理教事件」「宗教法人法改正」などは大変ショッキングな事件であった。ここで改めて考えてみて、これらの事件は果たして私たち宗教家に何ら責任はなかったのであろうか。
「お寺とは何?お坊さんとは何をする人?
そういった質問に対して
「お寺とは葬式・法事をする場所。お坊さんとは人が亡くなったときに呼ぶ人」
恐らくほとんどの人がそう答えるのではないだろうか。
 古来、寺は寺子屋を経営し社会に貢献してきた。学校、役場、病院、集会所などの代わりをしてきた。しかし現在はどうであろうか。寺ばかりではなく、宗教そのものに魅力を感じる人が減ってきているのではないだろうか。
 本来、寺は地域の心の拠り所であったはずである。寺には常に人が集まり、何事かあればすぐさま住職に相談しに来たものである。しかし、現況はどうであろうか。
 私方に檀家にしてほしいと一人の男性が尋ねてきたことがあった。玄関先の椅子に腰掛けて話をしていた。少し時間をおいてその男性からこういった言葉を聞いた。
「お寺の敷居をまたぐのにかなりの勇気がいりました。お寺の敷居は高いものですなあ」
というものであった。大変ショックを受けた。
 しかしよく考えて見ると、逆に私が在家の人間であれば、よほどの用事がない限り現在のお寺では門を叩こうとしないであろう。
 寺・神社・教会に魅力を感じ、僧侶・神官・神父に魅力があったならば、悩める若者たちは「オウム真理教」のようなところには入信することなく、あのような大事件は起こらなかったのではないだろうか。
 現在の宗教家の中には諸堂伽蘭を立派にすることばかりに一生懸命になり、本来の役割を忘れてしまった人が多いと世間の噂である。宗教家の心の中にも
「自分さえ良ければそれでいい。自分さえ儲かればそれでいい」
という心がうまれてきたとすればこれは大変なことである。

病む日本を立て直す時
 
マスコミ・遊び・教育・政治・宗教について思うがままのことを述べてきたが、このままの状態を続ければ将来の日本はどうなっていくのか不安である。一体日本は何を求めて、どこに行こうとしているのだろうか。
 これらの問題はすべて、日本の将来を担う子供たちの「心」に大きな影響を与えている。マスコミが悪い影響を与えている。勉強と遊びは両立していかなければならない。今の政治は不明瞭だ。宗教はこうあるべきだ。誰しもが頭の中ではわかっているはずである。このままではいけないと感じているはずである。しかし日本人は
「私一人が言ったところで仕方がないから黙っておこう」
「人に嫌われるのが嫌だから黙っておこう」
と思ってしまう。自分だけいい子になろうとしたがる。しかし、黙っていても進歩・向上はない。
 確かに一人一人は塵かもしれない。一人が叫んでみたところで仕方がないかもしれない。しかし、塵も積もれば山となる。日本の将来を思うならば、日本の将来に不安を感じるならば、まじめに真剣に考える時期が来ているのではないか。将来の日本を背負っていくのは私たちの大切な子供や孫なのだ。
 少なくとも私が子供の頃、と言ってもそれほど昔のことではない。いたずらをする子供に対して、近所のおばさんが叱ってくれた。いわゆる地域ぐるみの教育であり、皆で子供たちを育てていこうという姿勢があった。学校でも悪いことをすれば先生から容赦なく叩かれた。叩かれたことに対して親に訴えなかったし、たとえ訴えたとしても親は取り合ってくれなかった。
「あんたが悪いから先生に叱られたんでしょう」
むしろ親に訴えるのが恥であると思った。今になって振り返ると、両親は立派な態度であったと思うし、それが社会の常識でもあった。
「悪いことは悪い。良いことは良い」
このようなはっきりとした意見を発言できる人が少なくなったと言われる。老若男女関係なく、それぞれの立場でものを言い、病んでいる日本を、希望ある輝ける日本にするために私たち全員の力で立て直さなくてはならない。

宗教の役割とは?
 寺・僧侶のイメージに線香臭い、古臭いというものがある。しかし、冒頭で述べたように、新しいものばかりを追うことが進歩・向上につながるのではなく、古来より伝わってきたものには、現代にまで伝わってきただけの理由があり、価値があり、歴史があり、重みがある。そういったイメージを一般の人たちの頭に植え付けていく必要がある。と同時に私たち僧侶も、新しい思想を取り入れていきながら、古来より脈々と伝えられてきているお大師さまの教えを今一度理解学習していく柔軟な頭を創り上げていく必要がある。そして、現代社会の中で宗教がどのような役割にあるのか、どのような仕事ができるのかということを考えなければならない。

「安心」を与える宗教
 
ここで一青年僧の現在の意見を述べさせていただくと、私たち宗教家がまずしなければならないことは、できることから始めること。それは、一人でも多くの日本人に将来的危機を自覚するように布教していくことだと思う。そして、危機感を感じているならば、素直に声を出し
「私はこう思う」
と意思表示できる人間になるように、またできる環境を作るように訴えていくことではないだろうか。
 私たち宗教家は一般の人たちに比べて色々なジャンルの人たちと出会う機会が多い。又、日常生活の中にそういったチャンスはいくらでもある。一人でも多くの人に理解していただき、又その人から別の人に伝えていく。教師は教師の立場を、宗教家は宗教家の立場を、芸能人は芸能人の立場を生かしながら活用して、それぞれがそれぞれの場所で訴えていく。例えば教師は教壇で学生に、宗教家は檀信徒に、芸能人はテレビなどを使って視聴者に訴える。真心を込めて訴えれば、皆がおかしいな、何とかしなければいけないと思っていることだから、きっと良い結果が生れてくるのではないだろうか。そういった意識を一人でも多くの人が持つようになり、訴えていけばきっと日本は良くなっていくのではないだろうか。これにはかなりの時間を必要とし、地味な活動であると思うが本当に必要なことではないだろうか。いずれにしても、私たち宗教家に課せられた任務は大きなものであり、今後まじめに真剣に取り組んでいかなくてはならない。
 宗教が宗教であるという証明方法のひとつに「安心」を与えられるか否かということがある。「安心」を与えられないものは宗教とはいえない。すべてのことにおいて「安心」して生活できる日本を再興するためにも宗教家として社会の一員として努力していこうではないか。

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