高野山真言宗 第六団中国参拝に参加して
平成八年五月十九日〜五月二十六日

      

六大新報 平成八年七月五日号掲載          

 
 
赤岸鎮已南ノ海口。八〇四年(延暦二十三)、大師が乗った第十六次遣唐使船の第一船が漂着した浜であり、私達真言僧侶にとって一度は訪ねてみたいあこがれの浜である。
 昭和五十九年、静 慈園高野山大学教授を団長とする一行八名が、大師が千百九十年前に歩いた入唐求法の足跡を追って赤岸鎮から長安(西安)へ徒歩にて入るという企画がなされた。三月一日に赤岸鎮を出発して西安・青竜寺に着いたのが三月三十一日であったという。いわゆる「空海・長安への道」訪中団としてその浜に大師以降始めて立ったのである。これは、日中友好の功労者ともいうべき大師の末徒たちのために、外国人に開放していなかったこの地域への旅行を許可された中国仏教協会の好意から実現したという。

 その後、竹内崇峯管長猊下・新居祐政宗務総長等のご努力により平成六年五月二十一日「空海大師紀念堂」の落慶を見たのである。その後、各団でも大師の入唐求法の足跡を追って参拝する企画が持ち上がり、その第一陣をきって、第六地域伝道団が実施する運びとなった。
 昨年初冬、兵庫支所篠原法傳支所長から誘いを受け、参拝団の一員に加えていただくことができた。実際問題として、第六地域伝道団が包括する地区には、昨年の「阪神淡路大震災」で壊滅的な打撃を受けた支所があり、果たして参加者が集まるだろうかという不安が事務局にあったという。私も兵庫支所に属し、震災の影響を少なからずも受けているので、どうしたものかと思案したが、大師の足跡を追っての参拝であるということで思い切って参加させていただいた。この中には、震災にて寺を全焼、全壊など大きな被害を被った僧正方の顔があった。大師に対する篤い思いが、僧正方の参加への決意となったのであろう。稲葉義猛管長猊下を名誉団長、顧問に岩坪眞弘教学部長、団長に森田光順第六地域伝道団団長とする133名の参拝団として平成八年五月十九日、日本を出発した。

 平成八年五月十九日、午前十一時、岡山空港に集合。結団式が行われた。挨拶される管長猊下もお元気で、大師への篤い思いを語られた。133名は5つの班から構成され、私は一班に所属した。午後一時三十分、中国民航チャーター便にて福州に向けて出発した。
 中国と日本の時差は一時間中国が遅れる。現地時間午後四時十分、福州空港着。入国手続き等を済ませて現地入りした。空港には、先発隊の山口文章企画課長、旅行社の北川さんが待ち受けておられた。管長猊下、岩坪部長、森田団長等は自家用車に乗り込み、団員はそれぞれ班毎にバスに乗り込む。パトカー先導にて湧泉寺に向かう。ここには、昭和五十九年に「空海・長安の道」訪中団が開眼した「空海入唐の地」という石碑があるはずであるが、あまりに広大な境内のため見ることができなかった。しかし、湧泉寺の僧侶達は私達を歓迎してくれ、太鼓を叩いてくれた。もっとも、管長猊下に対してであろうが、現地の添乗員も、このような歓迎は始めてであると驚いていた。湧泉寺の僧侶達の生活は、もっぱら読経三昧で、日本の僧侶とは生活様式が全く異なっていた。湧泉寺を後にし、夕食後、午後八時頃西湖大酒店ホテルに入った。

 五月二十日、午前八時頃、スーツケースはホテルに置き、法衣、袈裟などを入れた手荷物を持ってバスに乗り込む。いよいよ赤岸鎮に出発である。約250キロという長い距離をバスに揺られながら約八時間かかっての旅であった。途中、羅源にて小休憩をとり、寧徳にて昼食をとる。種徳寺に寄り御法楽を捧げる。種徳寺は尼僧さんの寺であった。種徳寺を後にし、赤岸鎮に向かって再び走り始めた。篠原支所長夫人の慶子さんは今回で三度目の赤岸鎮で、
「前回までは福州から赤岸鎮まで十五時間かかったのよ」
と教えてくれた。整備されたとはいうものの、お世辞にも美しい道とは言えないガタガタ道であった。ドライバーは曲がりくねった山坂を素晴らしいテクニックですり抜けていく。実際、ヒヤリとした場面も数回あった。途中、事故があり大渋滞に巻き込まれた。しかし、パトカーの先導で渋滞中の車両をくぐり抜けてスムーズにクリアーできた。パトカーの先導がなければその場に何時間も立ち往生するはめになっていた。へたをすれば、丸一日待っていなければならない時もあるらしい。今回は、最高八十九才のおばあさんを筆頭に、高齢者も多く参加されており、少々心配であったが、全員特に体調を崩されることなく無事に赤岸鎮に着いた。事故の関係もあり、赤岸鎮に着いたのは午後六時頃であった。龍首山賓館ホテルには大きな赤い垂れ幕がかかっており、「熱烈歓迎、日本国高野山真言宗第六地域伝道団」と書かれていた。休憩の後、龍首山賓館ホテルにて中国側の来賓を招いてのパーティーがあった。

 五月二十一日、早朝バスにて赤岸鎮に向かう。昨日は小雨が降っていたが、さわやかな良い天気になった。赤岸鎮は中国福建省霞浦県に位置する。八〇四年八月十日、大師が漂着した日もこのように晴れ渡っていたのであろうか。そんなことを思いながら、期待に胸を膨らませながらバスを降り、赤岸鎮に足を運んだ。赤岸鎮、それは「赤い岸」を想像させる。しかし、浜は白かった。道教の五行では南の方向を赤で示すらしく、南の方向にある鎮守府という意味らしい。
 想像していたよりも浜は狭かった。正面に龍首山が見え、その背後に馬安山と獅山という山がひかえている。日本では見れない光景にしばらく見とれていた。大師は、遣唐使船に乗られ二日目に嵐にあう。三十四日間の漂流の末、この赤岸鎮にたどり着かれた。この浜のどの辺りに船が着いたのであろうか。風景は今と変わらなかったのだろうか。色々な思いを描いているうちに、涙がこみ上げてきた。それは、大師が始めて踏まれた唐の地に自分が現在立っているという感動よりもむしろ、大師のご苦労を思う涙であった。凄まじい船の旅からこの地にたどり着き、
「命だけは助かった」
という思いでこの浜に立たれたのであろう。真言密教を日本に伝えるために、まさに「命がけ」でこの地にたどり着かれたのである。自分の普段の生活、思考の甘さに懺悔の気持で一杯になった。
  大師一行はすぐに上陸を許可されなかった。浜に寄せた船の中で二ヶ月間を過ごす。結局、
「観察使のいる福州に回航するように」

と命令された。しかし、大師が最初に足をおろした赤岸鎮には特別な思いがある。団員全員で蝋燭・線香を浜辺にお供えし、般若心経・宝号をお唱えした。又、ご詠歌にあわせて宗教舞踊をお供えされた。法要の後、甲子園球児が甲子園の砂を持ち帰るように、私も赤岸鎮の砂をビニール袋にそっと入れて持ち帰った。
 赤岸鎮を後にして、バスに乗り込み空海大師紀念堂に向かう。麦畑が広がり、れんが造りの家が散在し、黄緑とれんが色がマッチして心をなごませる。そんな環境の中、空海大師紀念堂は赤岸小学校の横に建っていた。赤岸小学校の生徒が沿道から小学校まで並び、赤色や黄色の布を振りながら「熱烈歓迎」と言って私達を迎えてくれた。又、鼓笛隊が「北国の春」を演奏して歓迎してくれた。その数は数百人に思えた。何の汚れもない中国の子ども達の歓迎に感激した。
 小学校の校舎で法衣に着替え、いよいよ法会が始まった。午前十時、散華をしながら紀念堂前まで行道した。紀念堂前ではご詠歌にあわせて宗教舞踊がお供えされ、終了後入堂。管長猊下を御導師に迎え、岩坪部長・森田団長を脇導師に読経が始まる。大師のご苦労に対しての団員一人一人の真心がこもり、紀念堂に声明が響き渡った。紀念堂に立つ大師の像は、法衣に身を包み、合掌された立像で、若かりし頃の凛々しいお顔をされ、まさに何としても真言密教を日本に持ち帰らなくてはならないという堅い決意に満ちたお姿であった。法会終了後、記念撮影をして再び着替えバスに乗り込みホテルに向かった。
 ホテルで昼食をとり、急いで福州に向かう。時刻は午後一時を過ぎていた。昨日通った道を帰るのかと思うとゾッとした。ガタガタ道を猛スピードで走る。まともに居眠りをできる状態ではなかったが、後部座席で疲れ切って眠っている人があった。山口企画課長であった。課長は我々が到着する前日から打ち合わせに中国入りし、本日の法会に関しても早朝より先発隊として本山の水野師・真田師と共に現地入りし、法会の打ち合わせ、準備などでお世話になった。赤岸鎮での出来事は我々に感動を与えたが、その裏にはこういったスタッフの影の力があることを忘れてはならない。
 福州、西湖大酒店ホテルまで約八時間かかったが、我々一班のバスは、全員で歌を歌ったり、話をしたりして和やかな雰囲気のもと、あっという間の八時間であった。ホテルに到着したのは午後九時過ぎであった。

 五月二十二日、バスにて福州空港に向かう。チャーター便にて西安に飛ぶ。飛行機が小さいため、五班全員が乗ることができず、二機に分かれての移動となった。我々は午前十一時頃の飛行機で約二時間、西安に着いた。
 赤岸鎮から福州に回航を命ぜられた遣唐使と大師一行は福州にても簡単には上陸を許されない。観察使が密輸船と間違えて待機させられた。大使は何度も観察使宛への手紙を書いたが受け入れられなかった。そこで大師に代筆を頼みあの「大使の為に福州の観察使に与うるの書」を観察使・閻済美に送る。この文を見た閻済美はすぐさま一行の上陸を許可し、長安の都に日本大使の到着を報じたのである。これ程の名文家が密輸船に乗っているはずがなく間違いなく国使の一行であると判断したからだ。これより大師一行の長安(西安)への旅が始まる。実に九州田浦港を出発して百七十日、福州から長安まで四十九日の苦しい旅程にて目的地の長安にたどり着かれる。
 我々はバスに揺られ、飛行機を使いこの行程をわずかな時間で移動した。飛行機の中から見下ろす大陸を見て、あの辺りを歩かれたのかと想像したとき、あついものがこみ上げてきた。西安はその当時、世界最大の都市であり、大師はインドから伝わった正統の密教相承者、恵果和尚から真言密教の全てを授かる。我々にとっては大切な場所である。福州の道路に比べてかなり整備されていて、バスもスムーズに走る。昼食後、大師が毎日右に見ながら青竜寺の恵果和尚のもとに通ったという大雁塔に参拝する。七層からなる塔は最上階まで上ることができ、管長猊下もお元気に上られた。大雁塔最上階から見下ろす西安の町は美しく、さすがに当時世界最大の都市であっただけの風格を感じさせた。夕刻、唐華賓館ホテルに入り、ホテルにてショーを見ながら夕食をとった。

 五月二十三日。バスにて青竜寺に法衣を着けて移動する。青竜寺は昭和五十九年の弘法大師御入定千百五十年を記念して、恵果・空海紀念堂として真言宗十八総大本山会(各山会)と四国四県の協力によって復興されたという。金堂様式の建物で、堂内には恵果和尚と大師が並んで鎮座されていた。赤岸鎮と同様、読経させていただく。この場所で恵果和尚より大師が両部の秘法を授かったのかと思うと、感慨無量のものがあった。しかし、山口課長より青竜寺は中国政府より正式な寺院として認められていないという事実を聞かされた。日本から訪れる信者は、大師の徳を偲び、信仰の対象として手を合わされるが、実際は住職もいない遺跡として取り扱われているというのだ。恵果・空海紀念堂を建立するにあたり、日本からの強い要望に対し中国仏教協会(趙 朴初会長)も努力を惜しまず、一寺院として認めてもらうよう政府に懇願したが、新寺建立は認めないという理由から、西安市の管理下になっているという。しかし、新寺建立ではなく我が大師が恵果和尚より両部の秘法を授かった正統な密教寺院である。今後、関係各師の働きかけにより、一日も早く住職を置き、毎日のお給仕ができる日が来ることを願うものである。
  昼頃、恵果・空海紀念堂を後にしてホテルで着替え、昼食後、兵馬俑などを見学し、夕刻食事の後ホテルに帰る。


 五月二十四日、午前0時三十分頃、廊下が騒がしく目が覚めた。明朝は早朝より北京に移動する日となっており、早くから床についていたので少々寝ぼけていた。ドアを激しくノックする音が聞こえ、女性の声で

「院住さん、早くしないと手遅れになりますよ」
と叫び声が聞こえた。すると私の部屋の前を男性が
「わかっているがな。落ち着かんかい」
と叫びながら走り過ぎていった。始めは夫婦喧嘩でも始まったのかと思っていたが、その声はだんだんと複数化していき、大きくなっていく。これはただごとではないと思い、あわてて自分の部屋のドアのノブに手をかけた。その瞬間、ドアがノックされた。あわてて開けると支所長が血相を変えて
「火事やがな。早く脱出しろ」
と言われた。廊下を見回すと辺り一面煙だらけであった。昨年の「阪神淡路大震災」を思い出した。貴重品を持ってロビーに避難したが、たたき起こされた老人もおり気の毒であった。幸い小火程度で済んだが、この騒ぎで再び休んだのは午前3時を過ぎていた。管長猊下は別棟で休んでおられたため、この騒ぎには巻き込まれずに済んだ。

 午前5時30分。容赦なしにモーニングコールのベルが鳴る。眠い眼をこすりながら、身支度を整えロビーに行く。昨晩の騒ぎに巻き込まれた人は皆眼をシバシバさせていた。午前9時、西安を後にして北京に飛行機で移動する。本日より二日間は、直接に大師とは関係ない観光となるが、日本の文化の母ともいえる中国の観光に胸を高鳴らせた。本日は天壇公園、天安門、故宮博物院(紫禁城)などを見学する。日本とは違い、広大な敷地の中に堂々と立っている建物に圧倒された。

 五月二十五日は終日北京郊外の観光で、明の十三陵、万里の長城などを見学する。本日は最終日ということで、北京飯店で「さよならパーティー」が開催された。各班毎の親睦をはかるため、それぞれの芸を披露した。我々一班は、バス中で練習した「もみじ」の輪唱・合唱と宗歌「いろはうた」を中国語で歌った。二班はご詠歌を披露し、三班は十時僧正の歌の披露、四班は炭坑節の披露、五班は中国民族衣装を着けての歌の披露がなされた。それぞれ思考を凝らし、和やかな雰囲気のもと最後に大師音頭を全員で踊り、盛会のうちにお開きとなった。

 五月二十六日、北京空港より出発予定時刻より約二時間遅れの午前十一時頃飛び立った。関西新空港に午後三時頃着き、それぞれ帰路についた。
 この度の参拝団に参加できて、大師のご苦労に対して本や映画である程度認識しているつもりであったが、乗り物を使ってではあるが、実際に自分の足で立ってみて、その距離を知ったとき、将に「命がけ」であったことがよくわかった。よく「命がけ」という言葉を使うが、簡単に使ってはいけない言葉だなと思った。この体験で得た教訓を生かして大師の末徒として恥じないよう努力・精進していく覚悟で一杯である。
 今後、各団でこのような参拝団を組まれるということであるが、一人でも多くの教師が、大師の足跡を追い赤岸鎮・青竜寺に立たれることをお勧めする。最後にこの企画を計画、実行していただいた本山、第六地域伝道団、関係者各位に感謝申し上げます。
  

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