彼はCMディレクター |
佐々木隆信(ささき りゅうしん)さんから突然ファックスが届いた。所用で大阪に行くから、その時会わないかという内容であった。 佐々木隆信といっても誰のことかわからないであろう。しかし、「ピップエレキバン」のCMといえば誰でも 「ああ、あのCMね」 と言われるだろう。女優の樹木希林と藤本株式会社の会長のシリーズで、樹木希林の言葉にただ「ピップエレキバン」と答えるだけのおもしろいCMなどは記憶に新しい。彼は有名なCMディレクターである。この業界の四天王と呼ばれる人で、この人を怒らすとテレビに出演できなくなるといわれるほどの超大物な人物である。このシリーズで「ピップエレキバン」は年商3億円が100億円になったという。 隆信さんと知り合ったのは、「大震災の中から芽生える」というタイトルの「阪神淡路大震災」の本を出版したことがきっかけとなった。当初は本にしようというような下心は全くなかった。六大新報社主筆の今井幹雄先生に 「地震当日からの日記がある」 と申し上げると 「自分の記録として、文章に残しておけばどうだね」 という言葉をいただいた。その言葉を皮切りに 「そうだ。文章に残しておこう」 と思い書き始めたのが始まりであった。 書き上がった原稿を、当時の全青連理事長の森 英真さんに見せると、眼を輝かせて 「これを本にしよう」 と言い出した。何を言っているのかわからなかった。 「僕の友人に素晴らしいスタッフがいるから頼んでみるよ」 全く未知の世界のことだし、半信半疑で全て任せることになった。 数日して森さんから連絡があった。出版社は平凡社ブッククラブに決まり、本のタイトルを佐々木隆信さんがつけてくれることになったとのこと。これが隆信さんとの出会いであった。 森さんと一緒に上京した際に隆信さんと会うことができた。森さんから隆信さんが書いた本を送ってもらい前もって読んでいたので、どのような人物なのかはだいたい把握していたつもりであった。しかし、いざ超大物の隆信さんに出会うとなればかなり緊張していた。待ち合わせのスナックに行くと隆信さんはもはや来ていた。二人が入ってきたのに気付くと、水割りの入ったグラスを傾けながらやさしそうな笑顔を浮かべながら手を上げた。長髪に大きな目、そしてトレードマークの口髭が印象的だった。 本来ならば、自己紹介から始まるのが常識である。 「始めまして。藤原栄善と申します」 そう挨拶をしようと思うやいなや、隆信さんから突拍子もない言葉を聞いた。 「先日、早朝に永平寺に行って来てね。もちろん撮影だよ。アポイントメントなしで行ったら、門前払いをくらっちゃってね。まいったよ。受付の坊さんに名刺を出して、撮影させてくれと頼んだら、何を撮影するのかと聞くから、空気だと言ったのね。するとその坊さんが不思議そうな顔をするんで、永平寺の紅葉についた朝露が、朝日のぬくもりで蒸発するシーンを撮りたいんだ。だから今しかチャンスがないんだと懇願するとO.Kが出て撮影ができたんだ。僕も一応名の通ったCMディレクターだから、一万円をポチ袋に入れて坊さんに差し出すと、受け取れないと言うんだよ。何故だと聞くと、空気はタダだと返されちゃった。坊さんもなかなかユニークだね」 そんな話をした後 「はじめまして、佐々木隆信です」 と握手してきた。こんな自己紹介は始めてであった。おそらく、ドアを開けて入ってきた私の顔を見て、かなり緊張していることに気付いたのであろう。緊張を解きほぐすためにわざと興味を抱く話をされたのだろう。お陰で緊張は解け、スムーズな話ができた。何と素晴らしいテクニックであろう。しかもそれを自然体でこなす。ただ者ではないことを改めて肌で感じた。 又、今回の「大震災の中から芽生える」というタイトルであるが、超一流の隆信さんにつけていただいたのだから、本来ならば相当額のギャラを支払わなくてはならない。しかし、森さんと隆信さんの友情、そしてテーマが大震災であることなどから無料となった。これも隆信さんのやさしさであろう。 何が行われるのかもわからないまま大阪の会場に出向いた。会場は、おそらく私たちお坊さんとは結びつかない人達でいっぱいになっていた。髪を伸ばした芸術家風の人、わざと破いたジーパンをはいている人、テレビ関係の人などなど。そんな雰囲気の中にポツンと一人のお坊さんが立っている。場違いの所にやってきてしまったという不安が一気に走った。 このまま黙って帰ろうか・・・そう思った時に 「藤原さん。よく来てくれたね」 という声が聞こえた。振り返ると、隆信さんが立っていた。 「こちらに来て。飲み物もあるから」 そう言って、会場の奥まで案内してくれた。 今回は隆信さんの友人であるプロデューサーの井上宏利さんの主催で「夢あばれ・キネライブ96」というテーマで開催された集いであった。 第一部を隆信さんが受け持った。隆信さんは仕事の傍ら、古いフィルムを求めて全国を行脚されている。田舎の小学校の倉庫に貴重なフィルムが残っていたり、藁葺きの古い家の蔵の中で貴重なフィルムを発見したりするらしい。今回は、数百本の貴重なフィルムの中から、一本のフィルム缶から偶然見つけた昭和の記録映像を上映していただいた。これは、昭和三十六年の撮影で、小学校の社会科の教材フィルムであった。「日本の子ども達」という題で、全国の子供の生活を撮している。山形県の子ども達は、両親が林業を営んで忙しいので、子供だけで週の内五日間を分校で合宿して勉強をする。土曜日の午後になると全員トロッコに乗り分校を出て二時間かけて家路につく。月曜日になると分校に戻ってくる。大阪は商人の町で、夜が遅い両親は、子ども達が学校に出かける時間はまだ寝ている。だから大阪の小学校は、朝も給食がある。大阪はビルが建ちかけていて、子ども達は運動不足になりがちだ。だから狭い校庭を朝に全員で何周も何周も走る。沖縄は日本だが、アメリカ軍の基地がありお金もアメリカのドルを使う。しかし、算数は日本円の勉強をする。学校を卒業したお兄さん・お姉さんは、東京の上野駅に降り立ち、将来の希望を夢を抱き、それぞれ一生懸命働いています。という内容のフィルムであった。昭和三十六年といえば物質がなく、まだまだ貧しい生活をしていた日本である。しかし、フィルムの中に映し出されている子ども達の顔は生き生きしていた。勉強、遊び、仕事、どれに対しても一生懸命である。フィルムに映し出されている同年代の女性が会場にいた。見比べてみると、日本女性は確かに綺麗になった。スタイルも良くなったし、顔も美しい。しかし、フィルムの中の女性の方が輝いて見えたのは私だけであっただろうか。 隆信さんは、一本の古いフィルムを全国あらゆる所で上映しながら、忘れかけている「日本人のこころ」を訴えているような気がした。 第二部は豊田勇造というミュージシャンのライブであった。この人は永年タイ国で活動し、最近日本に帰ってきた人であった。ギターを片手に歌を歌う。テレビでしか見たことのない生の演奏は迫力があった。その中で、数年前問題になったタイ米をテーマにした歌があった。日本が米不足になった時にタイ国から輸入されたタイ米が、臭いまずいと言われながら、捨てられてしまった事件はまだ記憶に新しい。タイ米の気持になっての歌であった。 「わざわざ遠い日本までやって来て、捨てられるくらいなら、お腹をすかしているタイのあの子ども達に食べられたい・・・」 隆信さんのフィルムを見て、豊田さんの歌を聞いて、この人達がやっている活動は、スタイルこそ違うが本当はお坊さんがしなければならないこと、お坊さんの本来の姿ではなかろうかと思った。恥ずかしい気持にさえなった。そう隆信さんに話しをすると、ただニコニコ笑っているだけだった。隆信さんの眼がかえって恐かった。 十二月のことを「師走」という。「師」とはお坊さんのことを指すそうで、暮れになると普段は寺で読経したり掃除をしたりするお坊さんも正月の用意で走り回る。だから「師走」というらしい。しかし、最近の都会のお坊さんは、年中スクーターに乗って走り回っている。年中「師走」の状態である。忙しくなったことで余裕がなくなり、本来の自分を忘れてしまいがちな昨今であるが、心だけには余裕を失ってはならいと思う。色々なことを考えさせられた集いであった。このような貴重な時間を与えてくれた隆信さんに感謝申し上げる。 |