生かされている生命
意識不明の重態から生還し生命の大切さを思う

六大新報 平成6年1月1日 新春特集号掲載
昭和五十三年、私が高野山大学一回生の時、寺の仕事が終わり自室の窓から空を眺めると星がきれいに輝いていた。星を眺めながら、小学校の頃
「宇宙は果てしなく広く、星から星の距離は何万光年もある」
と教えていただいたことを思い出した。光年とは、光が一年で達する距離であるから、今輝いている星までが仮に一万光年であるならば光の速さで飛んで一万年かかって到達することになる。到底我々人間が一生かかっても一万光年先の星の大地に立つことは不可能である。又こんなことも考えた。今時分の眼に写っている星の輝きは、一万年前に放たれた光がやっと地球に届いたものである。光は届いたが果たしてその星は現存するのであろうか?
 星そのものはとっくになくなってしまっているのではないであろうか?そんなことを考えていると気が遠くなった。その単位から比べれば我々人間が生きる一生なんて一瞬のうちに終ってしまうと考え出した。まして人間は眠るから、仮に百歳まで生きたとしても、活動している時間は五十年である。なんと短い人生なんだろう。しょうもない生命なんだろうと思った。
 昭和五十四年正月、寺から一週間の休暇を頂き自坊に帰った。久しぶりの故郷であり、ましてやきつい高野山の寺での生活から開放され羽を伸ばした。一週間はアッという間に終わり再び高野山に戻った。戻って一週間程してだろうか、故郷でうつされたのか風邪をひいてしまった。しかし風邪はなかなか治らず益々悪化してとうとう歩けなくなってしまった。その症状があまりにもひどいので寺より高野山病院に運ばれ入院ということになった。両親が呼ばれてかけつけてくれた。一日経ったがひどくなるばかり。高野山病院ではわからないということで和歌山労災病院に移った。私自身そのあたりから気を失ってしまったので覚えていないが、そのまま放っておけば二・三日の命であったとのこと。ウィルスが何らかの拍子に血管の中に入り、血液とともに脳に入ったということであった。ウィルスが血管内に侵入し臓器内に入れば命が危険な状態になるという。たまたま昭和五十四年度に流行した風邪のウィルスの中に脳内に侵入しやすいものがあったらしく、現に私の主治医が治療した患者で四人もおられたとのこと。しかし残念なことに私の他の三人の方は亡くなったと聞かされたのは数ヶ月後のことであった。
 私の脳の中に侵入しているウィルスは七種類のものが考えられた。しかし、私の症状はひどく、体力もなくなっていた。ウィルスを殺す薬の投与は最高三種類まで。
「もし残りの四種類のウィルスならばあきらめてください。たまたま三種類のウィルスで殺せたとしても完治する保証はできません。侵入している場所が場所だけに恐らく何らかの後遺症が出てくるでしょう」
という主治医の言葉に両親は
「植物人間になってもこの子の一生は私たち二人で見守っていこう」
と誓い合ったと後日聞かされ、両親の愛の深さに感謝の涙を流したことを覚えている。また母は病院の同室の人から
「高野山で修行中の小僧さんが病気になってしかも死にかかっている。仏さんもお大師さんもあったもんやないなあ」
と言われたらしく、悔しい思いをしたという。
 三種混合の薬の投与を受け、脳の中に侵入していたウィルスがたまたま当たったらしく、症状はだんだんと良くなり二十日間の意識不明から覚めた。年齢もまだ十代ということもあり、気が付いてからあとは、早く治らなくてはならないという気もありどんどんと回復していった。一週間たち、リハビリを受けるまでになった。ウィルスが脳に入っていたので、全身が思うように動かない。スプーンやフォークを使っても自由に食事ができない。思うように喋れない。様々な障害を克服する為のリハビリであった。何故私だけがこんな目にあったのか…つらい、苦しい、痛い。しかし、リハビリステーションで見たものは、様々な病気と戦って必死に努力している人たちの姿であった。動かなくなってしまった足を先生に伸ばされ
「痛い。もう殺して」
と叫びながらも頑張っているお婆さん。二本の鉄棒につかまりながら必死で歩く練習をしているお爺さん。口のまわりにマジックペンで点を書かれてその印に舌をあてる練習をしている中年の男性。ボールを投げても自分の前に落ちてしまって悔しがっている若者等等。実にたくさんの人たちが自分の病気と戦っている。生きようとしている。そのような姿を見て元気づけられたことは言うまでもない。
 現在人間はそれぞれに生活をしている。しかし、日常生活の中で朝目が覚めて起きあがり、顔を洗い、食事をし、働き、夜になると眠る。これを当然のことと考えているのではないだろうか。二本の足で歩けること、食事を自分でできることなどに感謝している人が果たして何人おられるのだろうか?
 生命、これは宇宙の生命から比べると本当に小さく短いものである。しかし、私は昭和五十四年冬に病気になり入院をし、両親をはじめ大勢の方々に心配をかけたが、この小さな生命、短い生命を大切にし、生きているのではなく生かされているということを教えてもらったことに感謝をし、忘れかけた時には信者さんにこの話をして自分を戒めている。

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