除夜に想う
六大新報 平成10年2月15日号掲載
 
 
當寺の鐘楼は昭和六十年に亡き主人の菩提を弔うために篤信者によって建立された建物である。主人は寺の鐘の音が好きであったらしい。どのような寺に参拝しても、鐘楼を見つけると必ず一撞きしてその音の余韻に耳を傾けていたという。しかし、自分の菩提寺に鐘楼がなく、普段から大変寂しがっておられたらしい。その主人の念願を果たすべく、奥さんの発願で建立された。鐘楼ができるまでの當寺の大晦日は閑散としたものであった。午前零時になり初詣に来られる人は十名に満たなかった。しかし、鐘楼ができて除夜の鐘を撞くようになってから賑やかになり、年を重ねるごとに鐘を撞くために列に並ぶ人の数が増えていった。
 當寺は海抜三百四十メートルに位置する山寺である。交通の便が悪く、自家用車を利用しなければ上ってこれない。當寺にお参りに来るのは一苦労である。そんな不便なところに、また寒いところに、わざわざ参拝していただく人たちのことを考えると気の毒で仕方なかった。せっかく参拝していただいたのだから参拝者全員に一回ずつ鐘を撞いてもらうようにした。そのため、百八回という数字をオーバーする。百八の数は煩悩を滅するという意味があることは知ってはいるが、あえて参詣者全員に一回ずつ撞いてもらう。去りゆく年の反省と、来るべく新しい年への希望を込めて撞いてもらう。
 平成七年一月十七日、阪神淡路大震災が発生した。その一撃を受けて鐘楼は倒壊した。数ヶ月後、被災されているのにも関わらず、多くの檀信徒より
「鐘の音は心を和ませるから一日も早く再建してほしい」   
という声が起こり、再建へと話が進んでいった。無造作に半紙に包まれた千円札を
「何かの役にたてて下さい」
と事務所に持ってきてくれたおばあさんもおられた。
「これ程鐘の音は人々の心を和ませていたのか」
 鐘楼再建に心を奮い立たせ、一日も早い再建へと誓いをたてた。新しく建立する鐘楼堂は、犠牲者の冥福を祈るため、また一日も早い街の復興を祈るため「希望の鐘」と名付けた。さすがに平成七年の大晦日には完成できなかったが、それでも工事途中の鐘楼に無理矢理に鐘を吊って撞いた。まだ青いビニールシートに覆われた工事中の鐘楼の周りにはいつもより多い人が並んだのを記憶している。
 このような経緯の中、今回も除夜の鐘を執り行った。たき火の周りには、いつものようにお接待の樽酒を竹製のコップで味わいながら団らんする人々の姿があった。そんな顔を見ているとホッとする。
 午後十一時三十分より参詣者全員で般若心経を読誦する。般若心経終了後、参拝者は順番に鐘楼の階段を上り鐘のところに至る。私は鐘のところで参拝者一人一人に挨拶をする。まずお互いに合掌して挨拶をしてから鐘を撞き、再び合掌して階段を下りる。この繰り返しであるが、鐘を撞くために列に並ぶ人々の顔は、普段から参拝されている人たちとは異なり、ほとんどが私の記憶にない顔ぶれである。それも、若い年齢層が多い。そんな中に髪の毛を金色、紫、緑、何ともカラフルに染めている少年たちのグループがあった。彼らは参拝者が並ぶ列に行儀良く並んでいたが、自分たちの順番が近づいてくるにつれて顔が緊張していく様子が伺えた。先の人が合掌して挨拶をして鐘を撞き、再び合掌をして挨拶をして下がる様子を必死で観察している。
「ああして手を合わせて坊さんに挨拶するんやな」
仲間で打ち合わせをしている。いよいよ彼らの順番がやってきた。緊張した面もちで階段を上がり私の前にやってきた。こんなに近くで坊さんと対面するのは初めてなのか、合掌するその姿がぎこちなく、金色の髪の毛と妙にアンバランスで思わず苦笑してしまった。
「お願いします。撞かせてもらいます」 
鐘を撞き合掌したまま数秒間何かを祈っている。
「ありがとうございました」
 元気よく挨拶をして階段を下りていく彼の後ろ姿を見送りながら次の少年を迎える。紫の髪の彼も同じように礼儀正しく挨拶をして鐘を撞いて帰っていった。
「来てよかったな・・・」
鐘を撞き終えた彼らが話している声が聞こえた。
「除夜の鐘を続けていてよかった・・・」
本当にそう思った。鐘楼を建立していただいた篤信者に、そして震災を乗り越えて再建にご協力いただいた多くの人々に心から手を合わせた。

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