無 我
「無我の境地」とか「無我夢中」という言葉をよく使う。我を忘れて、あるものごとに熱中するという意味である。
無我とは我がないということであるが、我とは仏教にとって、深刻な問題をもつ重要な哲学的用語である。
釈尊以前の古代インドでは、その当時の知識階層であるバラモンとよばれる人たちがいた。その間でウパニシャッドとよばれる哲学文献がつくられた。その中で、梵とともに重要視されたものが我であった。
宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)に対し、我(アートマン)は個人の中心主体と考えられた。やがて、、この両者は一体であると考えられるようになり、宇宙の根本原理がすなわち私たちの本体であるという思想、すなわち『梵我一如』がウパニシャッドの中心思想と考えられるようになった。
これに対して、仏教徒は無我説を主張した。中心主体などはない、すなわち無我であると説いたのである。これは、我が存在しないと説いたのではなく、我でもないものを我とみなしてはいけないという考え方であり、「われ」という観念、「わがもの」という観念を排除しようとしたのである。
我とはサンスクリット語でアートマンといい、これに否定の語のアがつき、アナートマンとなる。

戻る