真言宗十八本山
(真言宗各派総大本山)


真言宗をお開きになった弘法大師・空海。その行跡は偉大なものがあります。弘法大師ご誕生の地・善通寺から、その教えを広めるために基盤の地とされた京都・奈良などの寺々、そしてご入定の地・高野山まで、真言宗には弘法大師にご縁ある総本山、大本山が十八ケ寺あります。弘法大師の足跡をたどり、訪ねられてはいかがでしょうか。

総本山 善通寺
弘法大師空海の誕生地である善通寺(ぜんつうじ)は四国霊場第七十五番の札所でもある。
善通寺の境内は、五重塔や金堂などの伽藍のある東院と誕生院のある西院とに分かれる。誕生院には、生前の大師をしのばせる霊跡が多く残っている。
御影堂(みえどう)は総本山善通寺誕生院の本堂で、大師の誕生所である。礼堂、中殿、供養殿、奥殿の四棟からなり、礼堂と中殿は大師の父佐伯善通卿(さえきよしみち)の館の跡、奥殿は母玉依御前(たまよりごぜん)の館である。大師は奥殿で誕生したといわれている。

                     香川県善通寺市善通寺町615

総本山 仁和寺
仁和寺は仁和2年(886)光孝天皇の勅願によって創建されたのち、その御遺志を継いで宇多天皇が同4年に完成された。宇多天皇は大師の密教に深く帰依し、出家された方で、仁和寺に住まわれたまま法務をとられた。そこで、御室御所という呼び名が、この宇多天皇の法務をとられた御住房から生まれたのである。その後も代々皇室出身の人たちによって、歴代の門跡が受け継がれ、明治までになんと三十代におよんだといわれる。
また、名称 御室桜が有名である。

                       京都市右京区御室大内

大本山 宝山寺
「生駒の聖天さん」として親しまれ、全国に多くの信者をもつ宝山寺(ほうざんじ)。生駒山の東中腹、延宝6年(1678)湛海(たんかい)和尚が“歓喜天”を祭って無動寺と称したのが始まり。般若窟と呼ばれる大岩壁を背に本堂・聖天堂・多宝塔・絵馬堂が並ぶ。寺宝としては、明治の洋風建築客殿獅子閣や絹本着色弥勒菩薩像、絹本着色愛染明王像〔いずれも重文〕などがある。
 
                        奈良県生駒市菜畑

総本山 智積院
智積院(ちしゃくいん)は南北朝の頃、紀州根来の学頭寺として創建された寺で、真言宗中興の祖・興教大師(こうぎょうだいし)の流れをくむ寺である。根来山は天正13年(1585)豊臣秀吉の兵火にあったが、当時の学頭玄宥僧正は、多くの学徒とともに京都に難を避け、慶長5年(1600)徳川の外護を受けて、ようやく智積院が現在地に復興されたのである。

                      京都市東山区東山七条


総本山 朝護孫子寺
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)という名前を聞いて、どんなお寺かわからない人でも、信貴山と聞けば、ああそうか、とすぐに思い出せるほど「信貴山」という名前は知られている。今から約千四百年の昔、聖徳太子がこの山で毘沙門天王を感得され、大変に御利益をいただかれ、そのお礼に毘沙門天王の尊像を安置し、寺院を建立した。信ずる尊ぶべき山・信貴山と名付けられた。また、朝護孫子寺とは、醍醐天皇が御病気の折、信貴山命蓮上人が勅命により毘沙門天王に病気平癒の祈願をされた。すると天皇の病は忽ちに快癒された。天皇は、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を授けられた。
なお、聖徳太子が毘沙門天王を感得されたのが寅の年、寅の月、寅の日であったといわれてい る。以来、信貴山では、寅の日は聖徳太子にあやかっ て良い事がある、毘沙門様の御利益がいただける、即ち福が授かる「福寅」と呼ばれてきた。

                 奈良県生駒郡平群町信貴山


大本山 勧修寺 
勧修寺(かしゅうじ)と読む。昌泰3年(900)醍醐天皇が祈願所として創建。代々法親皇が入寺し、勧修寺門跡として知られる。書院〔重文〕は江戸初期の書院造りの典型。襖絵は土佐光起の作。庭園は氷池と呼ばれる池泉庭園で、中心の“氷室(ひむろ)の池”は京都でも屈指の古池。スイレンの名所としても知られている。他には徳川光国公寄進の“勧修寺型燈籠”が有名である。

                   京都市山科区寺勧修寺仁王堂町


大本山 大覚寺
大覚寺は、嵯峨天皇が嵯峨離宮として造営されたことに始る。天皇は弘法大師との親交があつく、唐(中国)から帰国した大師を招いて五大明王を刻せしめ、護国利民を祈らせたと伝わる。弘仁九年(818)の春、疫病がいたるところで流行し、支社が多数にのぼったときも嵯峨天皇は大師のすすめによって、一筆三礼の浄信をこらして般若心経を写経され、大師に講讃させると、たちまちに霊験あらわれて疫病がおさまったという。この般若心経写経による霊力の信仰は、大覚寺に今日まで連綿とつながっている。
貞観十八年(876)清和天皇の勅許があり、淳和天皇第二皇子恒寂法親王を開祖として「大覚寺」号を賜った。それ以来の由緒ある門跡寺院である。
また、いけばな「嵯峨御流」の家元としても有名である。

                     京都市右京区嵯峨大沢町


総本山 醍醐寺
真言宗醍醐派の総本山である醍醐寺は、約300平方メートルの広大な境内をもち、上醍醐(かみだいご)と下醍醐(しもだいご)に分かれている。山上にある上醍醐の諸堂は、奈良仏教の平地伽藍の構成とは趣きを異にし、山岳仏教特有の伽藍を見せている。当山派修験道(とうざんは しゅげんどう)の根本道場である。
寺伝では874年(貞観16)聖宝の開基と伝える。
尚、上醍醐は西国三十三ヶ所観音第十一番の札所であり、下醍醐には三宝院をはじめ9ケ寺の塔頭寺院を有する。

                    京都市伏見区醍醐東大路町22


総本山 根来寺
根来寺(ねごろじ)は、覚鑁上人(かくばんしょうにん)によって、大治元年(1126)平為里により岩手荘を寄進され、開創された。
上人は13歳で出家得度をし、京都・奈良で勉学に励み、後、永久二年(1114)高野山に登られた。そして、当寺の高野山の実情をみて、弘法大師開創の真言密教の真髄を正しく伝える必要を痛感し、伝法院を建立し教学の興隆をはかった。
後、鳥羽上皇の院宣により、大伝法院をたてるとともに、たくさんの荘園を下賜され、着実にその成果を収めていたが、覚鑁の名声があがるにつれ高野山の僧侶たちとの間に不和が生じ、保延六年(1140)根来に移られた。その3年後、この地にその生涯を閉じられた。
その後、正応元年(1288)高野山から大伝法院を根来に移し、学問の寺根来寺の地位を築き、新義の根本道場として栄えた。
寺を守るために僧兵を養成したが、その勢力が強大となった。これが秀吉に恐れられた結果、天正13年(1585)3月根来攻めにあい、大伝法院の一部を残し、諸堂塔はすべて灰となってしまった。大塔・大師堂以外の現在の建物のすべては江戸時代徳川氏の外護を受けて復興したものである。
尚、覚鑁上人は興教大師(こうぎょうだいし)といわれ、真言宗中興の祖として人々に信仰されている。


                 和歌山県那賀郡岩出町根来


大本山 中山寺
真言宗中山寺派 大本山。およそ千四百年前、仲哀天皇・大仲姫(ちゅうあいてんのう・おおなかひめ)のゆかりの地に、聖徳太子によって開かれた日本最初の観音霊場。かつては高野山、比叡山に匹敵するほどの規模を誇っていたが数度の兵火に見舞われて、現在は旧中山寺に比べるとその二十分の一にすぎないといわれる。
長谷寺の開山徳道上人(とくどうしょうにん)は、観音功徳を人々に知らせるために、三十三ヶ所霊場の巡拝をすすめ、中山寺を日本最初の観音霊場ゆえに、第一番札所とされたといわれる。そのとき、徳道上人の霊験から「極楽中心中山寺」と世にいわれたという。現在は西国霊場二十四番札所。
毎年八月九日に行われる「星下り大会式」(ほしくだりだいえしき)は多くの参詣者で賑わう。

                   宝塚市中山寺二丁目


総本山 西大寺
西大寺(さいだいじ)は、奈良時代の天平宝字八年(764)に、女亭・称徳天皇(しょうとくてんのう)が鎮護国家(ちんごこっか)と平和祈願のために七尺の金銅四天王と伽藍の造営を発願されて創建された勅願寺(ちょくがんじ)である。造営はほぼ宝亀末年(780)ごろまで約10数年にわたって続けられた。西大寺の寺地は、東西11町、南北7町に囲まれた面積三十一町(約48ヘクタール)におよぶ広大なもので、ここに薬師・弥勒の両金堂をはじめ、東西両塔、四堂王院、十一面堂院など、実に百数十宇の堂社が建ち並び、文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。
その後、平安時代に再三の災害にあい衰退したが、鎌倉時代の半ばごろ、叡尊僧正(えいそんそうじょう)が復興し、真言律宗の根本道場として創建当初とは面目を新たにした伽藍が建てられたのである。叡尊僧正の教えは、仏教が釈尊を理想的人間像としている以上、釈尊を見習い、生活態度や生活基準、つまり戒律を守らなければならないというものであった。
なお今日、西大寺の有名な行事となった大茶盛式は、叡尊僧正が延応元年(1239)の正月の御修法(みしほ)の結願に際し、八幡宮に献茶をし、そこに集まった人々に施したことにはじまるといわれている。

                        奈良県西大寺町


総本山 教王護国寺(東寺)

延暦十三年(七九四)桓武天皇は、動乱の中に奈良から長岡京を経て平安京へと都をうつされ、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かした。現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっているが、東寺はもとの場所にそのまま残っていて史跡に指定されてる。当初の東寺建立の目的は、平安京の東側を鎮護するということであったが、本来の宗教寺院として活動を始めたのはそれから後の弘仁14年(823)に嵯峨天皇より弘法大師がこの寺院を賜ってからのことである。そののち、真言密教の根本道場として栄えてきた。
弘法大師は高野山を自らの修禅の場として開かれ、そこで得られた知恵を利他行として東寺で実践された。生老病死に代表される衆生の苦悩の解決法とその生活への表現が大師の一生であった。大師は祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想であるとの信念から、水なき所に池を掘り、橋なき所に橋を架け、道なき所に道をつけ、食の乏しき者には食を得る方法を教え、病む者のために良医となられたのである。
「弘法さん」は毎月二十一日、大師の命日に催される京の風物詩。境内には千軒以上の露店が並び、二十万人以上の人出でにぎわう。これは大師に寄せる民衆の信頼の深さを表しているといるであろう。


                       京都市南区九条町

大本山 清澄寺
関西では清澄寺(せいちょうじ)というよりも「清荒神」(きよしこうじん)「荒神さん」の名で親しまれている。「火の神さん」「かまどの神さん」また「水商売の神さん」として大いに親しまれ、年末の「納め荒神」年始の「初荒神」には十数万人の参拝客が殺到する。
平安時代の初め、宇多天皇の創意による理想の鎮護国家、すなわち諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建され、天皇は讃岐国の名工、定円法眼に命じて曼陀華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平八年(八九六)に、叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖にした。
まず、伊勢内宮・外宮など十五神を勧請し、鎮守神として、三宝荒神社を祀り、蓬莱山七嶺七渓に荘厳な伽藍を造営した。そして宇多天皇により「日本第一清荒神」の称号を与えられ、蓬莱山清澄寺として栄えた。しかし、源平の兵火に、そして戦国時代の兵火に荒神社を除く諸堂を焼亡した。
江戸時代末期、一代の名僧浄界和上の諸堂再興に続き、先々代法主光浄和上は昭和二十二年に真言三宝宗を開き、荒神信仰の総本山清荒神清澄寺として新しく法幢をかかげ、創建以来、連錦と続く栄光千年の法燈は一日も絶えることなく、今日を迎えている。
また、富岡鉄斉翁との機縁により、鉄斉作品の蒐集を行い、国の内外で広く展示会を開催し、昭和五十年には、鉄斉美術館「聖光殿」を建設、一般に公開している。

                       宝塚市米谷字清シ

総本山 泉涌寺
東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている泉涌寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、順徳天皇の御代(健保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師が時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事により寺号を泉涌寺と改 めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。
大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宋に渡り深く仏法の奥義を究められた。帰国後は泉涌寺に於いて戒律の復興を計り当寺を律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として、大いに隆盛させた。時の皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がこの地に営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。当寺が「みてら」と呼称される所以である。
境内には仏殿・舎利殿をはじめ、天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉には一段とその美しい姿を映えさせている。

                    京都市東山区泉涌寺山内町


総本山 長谷寺
西国三十三観音霊場 第八番札所としても名高い長谷寺は、真言宗豊山派の総本山である。四十代の天武天皇の御願によって大和国、川原寺(弘福寺)道明上人が朱鳥元年(686)に初瀬山西の丘にお堂を建立されたのを始まりと伝える。これを本長谷寺(もとはせでら)という。そののち四十五代、聖武天皇の御願によって道明上人の弟子、徳道上人が諸方に勧進し、神亀四年(727)に十一面観世音菩薩をご本尊とした精舎を東の丘に建立された。これを後の長谷寺という。
また、四季を通して「花の寺」として多くの人々の信仰を集めている。特に、長谷寺の牡丹は有名である。


                       奈良県桜井市初瀬町



大本山 須磨寺
真言宗須磨寺派 大本山。正式名を上野山 福祥寺という。新西国第24番札所。「すまでら」「須磨のお大師さん」の名で親しまれる。寺伝では、海中より聖観音が現れ、聞鏡上人が現在地に建立したと伝える。源頼政が修理し、豊臣秀頼も重建し、江戸時代には8院4坊あった。しかし、明治維新にて廃滅したのを明示20年に復興した。
須磨寺は昔から名勝と伝統の地として世に知られている。中でも、源平合戦で熊谷直実との一騎打ちに敗れた美少年・平敦盛の悲劇の物語は、その物語の普及とともに須磨寺を世間に広く知らせる要因になった。敦盛の遺品「青葉笛」がある。毎月、20日・21日が縁日で、境内には「青空市」の垂れ幕が下がり、日よけの大きな天幕を張った露天がいくつも出て賑わう。

                  神戸市須磨区須磨寺町


大本山 隋心寺
正暦二年(991)、弘法大師より八代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇に奉請してこの地を賜り、一寺を建立された。古くは牛皮山曼茶羅寺と称されていた。仁海僧正一夜の夢に亡き母が牛に生まれ変わっていることを見、その牛を鳥羽の辺に訪ね求めて飼養したが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼茶羅の尊像を画き本尊としたことに因んでいる。仁海僧正は深く宮中の帰依を受け、勅令により神泉苑に請雨の法を九回も行い、その度に霊験あって雨が降ったので、雨僧正とも称された。その後第五世、増俊阿闍梨の時に曼茶羅寺の子院として随心院を建立し、ついで第七世、親厳大僧正が寛喜元年(1229)後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来随心院門跡と称されている。堂舎も次第に整備され七堂伽藍は壮美を誇っていたが、承久應仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまった。
その後慶長四年(1599)に本堂が再建され、以後、九条二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由緒をもって寄進再建された。
また、随心院には、平安時代の才女小野小町をしのぶ遺跡がいくつも残されている。また、深草少将の百夜通(ももがよい)として知られる少将と小町の悲恋の伝説は巷間に有名である。
深草少将は美しい小町を慕い、小野の里に、雨の日も雪の日も通い続けて九十九夜、降る雪と発病により最後の一夜を前に世を去ってしまった。その深草より斧に通じる小道は、いまやどこにもないが、小道が近くを通っていたといわれるこの隋心院や勧修寺の静かな境内に、その慈恋をしのぶのも悪くない。

                      京都市山科区小野御霊町


総本山 金剛峯寺
高野山真言宗の総本山として、全国及び海外4,000に及ぶ寺院・教会を末寺として包括し、宗政並びに教化伝道の本処となっている。金剛峯寺(こんごうぶうじ)の名称は弘法大師が、金剛峯楼閣一切瑜瑜伽瑜祗の深意を象徴するものとして命名されたもので、高野山全体の総称であった。
金剛峯寺は文禄二年(1593)豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立、更に文久三年(1863)再建されたのが現在の建物である。明治二年金剛峯寺と改称されるまで青巖寺(せいがんじ)と呼ばれていた。大主殿のほか、別殿・新別殿・奥殿・新書院・茶室・阿字観道場・経蔵・鐘楼、後庭に伝燈国師廟・護摩堂等が並んでいる。
宗団の生命であり、全国信者の「大師信仰」の源泉となっている場所が、町の東はずれにある奥之院の弘法大師御廟である。御廟への入口に当る一の橋口から東へ広がる一帯が奥の院浄域である。御廟まで約二キロの石畳の参道が続いているが、その両側には大小の二十万基を越えるといわれる石塔が並び日本の総菩提所といった感が深い。
高野山を訪れる多くの人々は、この参道を通って弘法大師御廟所へお詣りすることを最大の目的としている御廟までは奥之院浄域の入口である一の橋から続く参道を歩く。
また、町の西はずれにある壇上伽藍は高野山全体の本堂である金堂をはじめとする七堂伽藍が建ち並び、荘厳された霊域として全国一千万信者の信仰を集めている。

                    和歌山県伊都郡高野町高野山


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