鷲林寺と麁乱荒神 |
鷲林寺の開基伝の中にソランジンとして登場する神が一体何者なのか??またそれの意味する真理は何なのか??私にとって長年の疑問でした。ソランジンについて疑問をもち、約3年前から調べだしました。鷲林寺は天正年間に焼き討ちに遭っており、歴史を伝える文書がほとんど焼失している状態なので、他の神社仏閣に残っている文献から鷲林寺の歴史を探るしか方法がありませんでした。 しかし、あることをきっかけに、ある古文書から重要な記述を発見することができ、ソランジンについての疑問がおよそ解明されました。3年間にわたって調べたものを平成18年11月25日に行われた荒神堂落慶法会にあわせて「鷲林寺と麁乱荒神」(じゅうりんじとそらんこうじん)という冊子を発行しましたのでその内容を紹介いたします。 |
鷲 林 寺 全 景 |
鷲林寺略縁起 当寺は人皇53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願にて天長10年(833)弘法大師空海によって開創された真言宗の寺院である。 観音霊場を開こうと地を求めて旅をしていた弘法大師が廣田神社に宿泊されていたとき、夢枕に仙人が現れこの地を教示された。それに従い入山したところ、この地を支配するソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ、口から火焔を吹き大師の入山を妨げた。大師は傍らの木を切り、湧き出る六甲の清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊木で本尊 十一面観音(じゅういちめんかんのん)を刻み寺号を鷲林寺と名付けた。また、大鷲に化けたソランジンは麁乱荒神としてまつられた。 その後、貴族寺院として大いに栄え、盛時は70坊以上を有する大寺院に成長し、その寺領は鳴尾地方(なるおちほう)にまで及んでいたことが古文書などによって伺える。しかし、戦国時代に入り寺領は押収され、天正6年(1578)11月に荒木村重の乱(あらきむらしげのらん)が起こり、それを期に翌7年、織田信長軍のために諸堂塔はすべて焼き滅ぼされてしまった。本尊を始めとする仏像は瓶(かめ)に入れ地中に埋め隠されたため兵火から逃れることができた。後に掘り出され小堂宇を建立し観音堂としたが、その後も幾多の山津波や火災に遭い、住職がいない時代が長く続いた。昭和の時代に入ってようやく復興され始め現在に至っている。 鷲林寺と神呪寺が伝える麁乱神 ソランジンは鷲林寺の開基伝(かいきでん)に登場するが、神呪寺(かんのうじ)開基伝にも登場する。神呪寺は西宮市のシンボルとされる甲山(かぶとやま)の麓に位置する真言宗の寺院である。鷲林寺の開基伝説の主人公が弘法大師であるまに対して神呪寺のものは如意尼公(にょいにこう)となっている。如意尼公は淳和天皇の妃であり弘法大師の弟子のひとりとして伝えられる。如意尼公が弘法大師の協力を得て神呪寺を建立しようとしていた時、鷲林寺からソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ建立の邪魔をしに来た。その本体は八面八臂(はちめんはっぴ・・・・顔が八面で八本の腕を持つ)である。如意尼公は何度も襲いかかるソランジンに恐怖を感じ大師に相談した。東の谷に大きな岩があるのでその上に神をまつれとの大師の教えに従ったところ、それ以降邪魔をしなくなり逆にソランジンは守護神となったと伝える。 開基を伝える資料の中で現存する最も古いものは元亨釈書(げんこうしゃくしょ)である。元亨釈書は鎌倉時代に虎関師錬(こかんしれん)が著した書物で30巻からなる資料である。この中に如意尼公が神呪寺を建立した記述があり、そこに麁乱神を登場させる。元亨釈書以降の記述はすべてこれを元に著されているものと思われる。また、弘法大師弟子譜卷十の天長七年二月の項には、如意尼公が神呪寺を建立しようとした時、麁乱神が邪魔をしたことを説き、この麁乱神が鎮守伽藍神(ちんじゅがらんしん)となり、これをまつる寺を鷲林寺としたと記述されている。 鷲林寺と神呪寺が開基された時代はほぼ同年代と伝えられているが、数ある開基伝では如意尼公を中心にした物語が大半を占めるのに対し、鷲林寺に伝わる開基伝のみが如意尼公を登場させず弘法大師を主人公としている。これは鷲林寺と神呪寺の間で勢力争いがあったことを意味するのではないだろうか。 |
鷲林寺麁乱荒神 |
麁乱荒神(そらんこうじん)と三宝荒神(さんぼうこうじん) 谷響集(こっこうしゅう)第九に「悪人を治罰することがあるが故に麁乱荒神と称し、また三宝を衛護するが故に三宝荒神と号す」とあり、麁乱荒神と三宝荒神は同体でであると説く。荒神は日本で古くから信仰されている神であるが、インド伝来の神でもなく中国からもたらされた神でもなく、日本で成立した神であると言われる。神道では荒ぶる神であり素戔鳴尊(すさのおのみこと)と関係があると説き、陰陽家では大年神(おおとしがみ)・奥津日子命(おくつひこのみこと)・奥津比売命(おくつひめのみこと)の三神とし、仏教では毘那夜伽(びなやきゃ)・荼吉尼(だきに)・剣婆(けんば)あるしは摩多羅神(またらしん)とするとある。ここにいう素戔鳴尊は、古事記や日本書紀に見られるように天界で暴れる荒ぶる神とされ、大年神・奥津日子命・奥津比売命は素戔鳴尊の子孫にあたり、これらの神が竈(かまど)の神としてまつられることから、いつの時代からかこれらと結びつけて荒神を竈神としてまつるようになったのかもしれない。 清荒神(きよしこうじん) 宝塚市に真言三宝宗大本山 清澄寺(せいちょうじ)がある。清荒神として広く信仰を集めている寺院であるが、清荒神は鷲林寺の麁乱荒神を移したものであるという説がある。東大寺 戒壇・真言両院長老 性善(しょうぜん)・・・(洞泉)の伝を智山第二十二世・動潮(どうちょう)がまとめた三宝院洞泉相承口訣(さんぼういん とうせんそうじょう くけつ)第二十二 荒神供 に著しているのがそれである。これによると、清荒神とは如意尼公が神呪寺を建立するときに出現した鷲林寺の麁乱神のことであると説く。また逆に、清澄寺に伝わる蓬莱山清澄寺記(ほうらいさん せいちょうじき)にも弘法大師が神呪寺を建立のとき、まず鷲林寺に麁乱荒神をまつり、清澄寺を開創の折に益信(やくしん)がその神を清澄寺の西の谷にまつったとし、その深い関係を強調している。 |
ソランジンに対する私見 鷲林寺と神呪寺の開基伝にともに登場するソランジンは両寺にとって重要な神であると言える。大鷲に姿をかえたり、口から火焔を吹いたりしたという話は信じがたいが、弘法大師の「飛行三鈷」(ひこうさんこ)の話と同じように、その話の裏には真実・真理が隠されているはずである。ソランジンが現れ、大師なり如意尼公の邪魔をしたということが何を意味するのかを考えてみた。 仏教が伝来する前の日本は神の国であり、八百万(やおよろず)の神が守護していた。六世紀半ばに中国大陸を経てインドから仏教が伝来する。インドの神々を日本に受け入れるためには大黒天(だいこくてん)などのように、日本の神とインドの神を習合させなくてはならなかった。(本地垂迹) 仏教が伝来する前の西宮地方は廣田神社の神域であった。その神域内に神呪寺なり鷲林寺なりの寺院を建立するということになると、もともと鎮座されている神である廣田の宮に挨拶をすることは当然のことであろう。廣田の宮の祭神は天照大神荒御魂(あまてらすおおみかみ あらみたま)である。伊勢神宮の和御魂(にぎみたま)と対で伊勢を“東の宮”とするならば廣田を“西の宮”と故障するという説があるほど大切な宮である。 その神を両寺院建立の物語上に、天照大神荒御魂をソランジンとして、すなわち麁乱荒神として表現したのではないかと考えられるのではないだろうか。 因みに、鷲林寺境内に隣接してまつられる宮は廣田神社の若宮である。 |
荒 神 堂 盛時は寺領七十町歩、塔頭(たっちゅう)寺院70数坊を有する大寺院であった鷲林寺は天正7年(1579)伊丹城主 荒木村重(あらきむらしげ)を攻めた織田信長(おだのぶなが)軍の兵火に巻き込まれ、諸堂塔とともに荒神堂を焼失した。その後、荒神は小さな祠(ほこら)にひっそりとまつられていた。 平成の時代に入り、麁乱荒神の御尊像が京都・大仏師 松本明慶(まつもとみょうけい)師により謹刻された。また、前田榮子様のご寄進により荒神堂が完成し、平成18年11月25日、真言三宝宗管長・大本山清澄寺法主 坂本光謙大僧正猊下を御導師にお迎えし落慶開眼法会を執り行った。 世界平和と人類の幸せを祈るものである。 |
鷲林寺荒神堂 |
参 考 文 献 | |
元亨釈書 | 虎関師錬 |
弘法大師年譜卷十 | 得仁 |
弘法大師弟子譜 | 道猷 |
三寶院洞泉相承口訣第二十二 | 動潮 |
谷響集第九 | 運敞 |
蓬莱山清澄寺記 | 清澄寺 |
密教大辞典 | 密教大辞典編纂会 |
西宮市史 第一巻 | 西宮市 |
町名の話 西宮の歴史と文化 | 山下忠男 |
西宮地名考 | 田岡香逸 |
日本の神様を知る辞典 | 阿部正路 |
廣田神社史を中心として 西宮郷土史 | 奥村孝雄 |
鷲林寺開基伝 | 鷲林寺 |