学生さんへの期待
高野山時報 平成9年3月1日号掲載

 現在、私の住する西宮市近隣の寺院より高野山大学に学ぶ学生さんが三名いる。先般、高野山に所用があり登った。その日は一泊する予定であったので、前もってその三人に連絡をとり、夕食をご馳走する約束をした。
 彼らとは家族ぐるみのつき合いで、子供の頃からよく知っている。彼らは寮生と下宿生で、モラトリアム期間を満喫している様子であった。久しぶりの再会で、新しい生活について三人それぞれに話してくれた。若い彼らの話を自分の学生時代とダブらせながら興味深く聞いていた。その中の一人が、宿坊にアルバイトに行った時の話に興味を持った。
 高野山の学生は大きく分けて三種類の人種が存在する。いわゆる、寮生、下宿生、そして寺で修行しながら学校に通う寺生である。寺生の先輩からアルバイトの依頼を受けた一回生の彼は、衆坊であるということもあり、一言返事で承諾した。彼にとって宿坊でのアルバイトは始めてであった。数人のアルバイトの人達に混じって必死に働いた。寺生のリーダーの指示通り、お客さんのお膳運び、お給仕、皿洗い、お膳拭き・・・ 普段したこともないような仕事内容である。仕事が終わりいよいよ住職からアルバイト料をもらう段になった。しかし、他の学生とは違い、彼に対してはアルバイト料はなく、住職の
「ありがとう」
という言葉だけであったという。彼は訴えるように私に話してくれた。
 一般的に解釈すればひどい話である。しかし、その話を聞いて、逆にその住職の彼に対する限りない愛情、教育精神を感じたのである。現代人の特徴として、行動を起こす前に、まず考えてしまうことがある。
「これは自分にとって損だろうか、徳だろうか」
 人間社会にとって、お金は絶対必要なものである。しかし、そのお金に振り回されてばかりいる人間が多い。そのお金を儲けるために損か徳かを無意識のうちにも考えてしまう。与えられた仕事よりも先に報酬のことを計算してしまう。良い結果を生むためには過程が大切であることを忘れて・・・
 少なくとも私達僧侶は損か徳かを考えてはならない職業(?)であろう。檀家参りをしながら
「いくらもらえるのかな・・・」
などと考えながら拝んだところで何の供養にもならない。施主が拝んでもらって
「ありがたい」
と思えば、その気持ちをお包みとして頂く。だから「お布施」というのではないか。
 料理人は弟子入りすれば皿洗いから始まり、包丁の研ぎ方を習い、師匠に叱られながら一つ一つ仕込まれて一人前に育っていく。大工も同じことであろう。どのような職業でも最初から一人前扱いされる職は皆無に等しい。辛く厳しい修行に耐えてからこそ一人前の職人に育っていく。
 私達僧侶の役割は檀信徒のご先祖供養をするだけではないはずである。特に「心の貧困」といわれる昨今、檀信徒の心の礎となることが大きな役割であろう。他人にはとても話せないことでも相談を受けることがある。人生経験豊かな高僧ならばまだしも、私のような若僧にでも容赦なく襲いかかってくる。想像もしないような様々な事件が起こりうる現在の日本に住んでいる限り、宗教家である限り決して避けて通ることはできない。しかし、悲しいことに今まで避けて通る傾向にあったからオウム真理教のような宗(集)団に若者が入信して、あのような悲惨な事件に進展していく原因を作ったとも言えるであろうが・・・
 お金はこの世の中を生きるために絶対に必要な道具である。しかし、少なくとも私達宗教家は、
「お金よりも大切なものがあるんだ」
ということを説いていかなくてはならない。そういった心を教育する場所、学べる場所、身をもって体験できる場所が高野山の衆坊である。料理人・大工にも勝る師弟関係を結び、師匠の言葉、身のこなし一つ一つから学び取っていく。この毎日の体験、繰り返しこそが将来の素晴らしい僧侶を作り上げていく基本であると思う。
 私自身、大学時代の四年間、衆坊で生活させていただいたが、その貴重な体験が、現在の自分を形成していると言っても過言ではないと思っている。たしかに辛く、苦しく、悲しかった。何故こんなことを毎日毎日しなければならないのかと思った。一日も早く、一秒でも早く脱出したかった。しかし、自分に与えられた四年間という永い永い時間を征服した時、今後自分に何が起こっても耐えていけるという自信がついた。
 何事も、大人になってからの習い事は時間がかかり、若い時に覚えたことは一生役立つと言われる。大切なモラトリアム期間であるとは思うが、衆坊での生活体験が将来役立つことは間違いはない。

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