ハワイ弘法寺 
沖村栄昇先生の葬儀に参列して

高野山時報 平成8年2月21日号掲載

 

平成八年一月二十二日、高野山三宝院住職、飛鷹全隆上綱さんより連絡が入った。ハワイ弘法寺沖村栄昇先生の訃報であった。かねてより、体調を崩されていると聞いてはいたが、まさかこんなに早く亡くなられるとは思ってもいなかった。
 実は、上綱さんより一週間前に相談されていたことがあった。
「星祭りが終わってから4〜5日都合をつけてほしいんだ。ハワイの沖村先生が体調を崩されているらしい。先生は、永きにわたりハワイ開教の為に尽力されてきた人だし、三宝院先々代住職、関栄覚前官のお弟子さんでもあり、そのご苦労に対して、お大師さまがお召しになっているのに似た檜皮色の法衣を着せてあげたいと考えていたんだ。実は法衣は出来上がっているんだ。先生が生存中に着せてあげたいので、星祭りが終わってからハワイに渡り、そのセレモニーと同時に理趣三昧の法会をしたいから、あんたも一緒に行ってほしいんだ」
という内容であった。
 参加させて頂くべく準備していたところだけに受けたショックは大きかった。
 ハワイでは先生のことを通称「とーちゃん」と呼び、宮子夫人のことを「かーちゃん」と呼ぶ。家族だけではなく、弘法寺に関係するほとんどの人達がそう呼ぶ。沖村ファミリーにお世話になったことがある人ならば、如何にその呼称が適切でピッタリであることを感じているであろう。皆から愛され、親しまれている。すべての人にやさしく、いつでも抱きしめてくれる。そんな人達なのだ。とうてい、日本の習慣ではできないアメリカ独特の挨拶・・・。抱きしめ、そしてキスの嵐。
 沖村ファミリーには本物の愛情を肌で感じる。「とーちゃん」「かーちゃん」に抱かれてキスをされると、自然に涙が溢れ出す。そう感じるのは私だけではないであろう。
 沖村ファミリーと私の家族とのお付き合いも永い。先生が修学の為日本に滞在されている折、母に宗教舞踊を教示頂いた。母が15才前後であったので、かれこれ45年前のことである。私自身も、三宝院で学生時代を過ごした関係で、ご子息の全栄師、全弘師達と生活を共にしたこともあり、卒業後も、来日されたときは私方にも寄っていただき、ハワイに行った時には大変お世話になった。
 特に、印象深い想い出は、2年前に両親とハワイに行ったときの出来事である。当時先生はオアフ島にある弘法寺を全栄師に任せられ、ハワイ島ホノム遍照寺の住職をされていた。体調を崩されているということで、先生がお元気な間に会いたいという母の希望もあっての旅行であった。母がハワイに来るということもあったのであろう。ハワイ島からオアフ島までわざわざ迎えに来て頂き、またハワイ島までご一緒して頂いた。
「この頃少し疲れるんだよ。だけど、あんたらが来るということだから迎えに来たよ」
とニッコリと笑われる先生はまさに「とーちゃん」そのものであった。ハワイ島の名勝キラウエア火山などを案内して頂いた。その後、夜遅くまで色々な想い出話に花が咲いた。「かーちゃん」の話、45年前の宗教舞踊のお稽古のこと等々・・・。又、その時に、
「三宝院の上綱さんに、もしわしが死んだら導師をしてほしいと頼んであるんじゃ。あんたは絶対にかばん持ちで来て、わしを見送ってくれよ」
と言われた。
 先生はハワイ時間1月20日に遷化された。26日に密葬、28日に本葬というスケジュールとの連絡が入った。
 先生との約束を守りたかったが、檀務の都合上どうしてもスケジュールがあわず28日の本葬のみの参加となった。
26日の密葬には、三宝院上綱さん夫妻、高野山岩坪真弘教学部長、小笹雄全師、川瀬良禅師夫妻、前田弘隆師、中谷昌善師夫妻、八木恵生師、国分良空師、田中寛耕師、服部融亮師、木田亮仁師、両親など、それぞれ先生に縁深い人達が日本より駆けつけた。
 28日夕刻、関西新空港より、東光寺、松田俊教師長女幸子さんと共にハワイに向かった。幸子さんは2年前、関西外語大学在学中に、短期留学生としてハワイに1ケ月留学し、その時に大変お世話になったという縁での参加であった。
 ハワイと日本は19時間の時差がある。28日午後7時50分日本を出発して約7時間。ハワイに到着すれば28日午前7時50分である。本来ならば、夜中の2時50分のはずだが日付変更線を越えるためにこうなる。機中で眠らなければ大変なことになる。 ホノルル空港に着いてまず弘法寺に直行する。同便にて松井真海師も到着された。又、別便にて服部全弘師夫妻も到着された。先生は荼毘に伏されてすでにお骨になっておられた。読経をさせていただいた後「かーちゃん」から感動的な話を聞かされた。昨年の「阪神淡路大震災」に遭遇して私の思いを綴った「大震災の中から芽生える」という本を先生に送らせていただいたところ、その本を抱きしめるようにして読んで頂いたということであった。数ページを読み残して亡くなられたとのことであった。「とーちゃん」が最後に読んだ本なので棺の中に収めたよと・・・。何とも複雑な気持ちであった。
 本葬は飛鷹全隆上綱さんを導師に岩坪真弘教学部長、上原実明ハワイ開教区主監を脇導師に開教師の先生方、日本から駆けつけた教師職衆のもと盛大に執り行われた。又、大勢の人が焼香に来られ、弘法寺ではまかないきれないということで、葬儀会館での葬儀となった。
 正午開式であったが、午前10時頃より信者さんが集まってきて、沖村ファミリーに立礼していく。私たちが会館に到着したときには、満杯状態であった。実に2000人を越す信者さんが集まった。縁あり、先生の略歴を奉読させていただいたが、信者さんの方に向いたとき、黒山の人だかりであり、後方の人の顔が確認できないほどであった。式場に入れない人は廊下やテントに溢れていた。
 読経、声明、ご詠歌などを唱えながら先生との数々の想い出が頭中をよぎる。先生の大きな遺影は優しく微笑み、今にも話しかけられるようで、遺影を見ていると涙が溢れた。参列者全員が泣いた。ハワイ在住の人も外国人も日本から駆けつけた人も皆泣いた。心の底から先生の死を惜しんだ。焼香の列は葬儀終了後も延々と続き、終了したのは午後4時を過ぎていた。その中には日本の芸能界の人もいた。リリアンさんと話す機会を得たが
「本当にいい先生だったわよ」
と言われていた。スケジュール多忙の中、わざわざハワイまで駆けつけられるのはよっぽどのことであろう。
 遠く離れたハワイで、キリスト教がベースの土地で、お大師さまの教えを広め、これだけ大勢の信者さんに見送られた「とーちゃん」。日本では1200年の歴史を誇る真言宗であっても、ハワイでは一新興宗教でしかすぎない。何故異国ハワイで「とーちゃん」「かーちゃん」と慕われるのか。そう考えた時、お二人の苦労、努力が並大抵のものではなかったことを改めて痛感した。お大師さまのお膝元「日本」で布教できる私たちは何と幸福なんだろうか。 人は幸福でありたいと願う。その幸福をつかむために寺や教会に来る。幸福をつかむ方法を教えてくれるのならば、それが仏教であってもキリスト教であってもかまわない。心が病んでいる人に安心を与える。それが宗教の大きな役割であり、それを実践するのが宗教家の大きなつとめであろう。
 日本では人が亡くなると枕経に出向き、通夜、葬儀と続く。しかし、ハワイでは人が亡くなる前に家に招かれての祈祷から始まる。もちろん、当人の長命を祈る意味もあるが、亡くなるならば、楽な往生ができるように祈るという。いわゆるキリスト教と仏教の混合であるが、ハワイに根づく文化から編み出された独特な習慣であろう。 
 いずれにしても、宗教を越えて「とーちゃん」が好きな人、「とーちゃん」を愛する人が集まってきた。恐らく、弘法寺がキリスト教であっても、イスラム教であっても同じ結果であっただろう。
 心の貧困が問われる昨今、今後の宗教者としてのあり方、人間としての生き方などを改めて考えさせられた一日であった。心から先生のご冥福をお祈り致します。  合掌                          

平成8年1月30日 ハワイより帰国の機中にて記す


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