その33  もったいないもったいない


私のお寺の先代住職は私の祖父でした。小さいときから“おじいちゃん子”でした。おじいちゃんが大好きで、よくお寺に遊びに行って泊まりました。その頃のお寺は山奥にあり、いわゆる“山寺”でした。(今でもかなり山寺ですが・・・)本来お寺とはお客さんが多いものですが、山寺とはいうものの、よくお客さんが来られていたように思います。ところが、山寺のために交通の便が悪く、その日のうちに帰ることができずに泊まって次の日の朝に帰るというお客さんが多かったのです。今のように、時間に追われるということもなく、のんびりしたものでした。
幼稚園の頃のお話です。先代夫婦が“バアヤン”と呼んでいたおばあさんがいて、お寺によく泊まりでお参りに来ておられました。私がたまたま遊びに行っていた時、バアヤンも来ておられました。年の頃100才越えているのかな?? 実際は80才くらいだったのかもしれませんが、すごい年寄りに見えました。小さな体の上に腰が曲がっているから余計に小さく見える。顔も手もシワシワでした。しかし、すごく親切な人でした。田舎の人ですから、きれいな言葉は使えませんが、やさしく私に色々な話をしてくれました。“おてだま”や“おはじき”とか、むかしのあそびを教わりました。いろいろな想い出があるのですが、そのバアヤン、食事をするときに何を見ても
「ああ、もったいない もったいない」
と言い、何を食べても
「ああ、おいしい おいしい」
と言ってました。食事を口に運ぶ度にそう言いますので、その言葉が耳についてしまう程でした。何せ、「もったいない もったいない」が口癖のバアヤンでした。
昨今では“もったいない” とか“ありがたい”とか言う人が少なくなってきたように思います。これは、宗教をもたないから“もったいない” “ありがたい”ということがないのです。“あたりまえ”とか “権利 義務” という言葉になるのです。
太陽が朝のぼって夕方沈むのはあたりまえで、太陽から光や熱が出ているのもあたりまえ。電車やバスが走っているのもあたりまえで、お金を出して乗るからあたりまえ。おいしいものはお金を払っているからあたりまえ。親が子供を育てることはあたりまえのこと・・・“もったいない”とか “ありがたい”とかという喜びを感じない、表現しない人が多くなりました。その喜びというものがなければ“ありがたい”ということはありません。喜ぶから“ありがたい”のです。この喜びというものを教えるのが宗教です。
この世の中は、自分ひとりで生きているのではありません。みんなのお互いの力によって生きているのです。そのお互いにささえあって生きていくことに喜びがあるのです。
食べ物は自分が作らなくても、お百姓さんが米や野菜を作ってくれる。着るものでも服屋さんや着物屋さんが作ってくれる。出かけるときはバスや電車やタクシーが連れて行ってくれる。これは、みんなの力であり、自分の力ではありません。服一枚縫ったこともなければ米一粒も作ったことがないのに、自分の生活の中に不自由がなく快適に生活していける世の中なのです。これをどうとるのかが問題なのです。“あたりまえ”ととるのか“もったいない ありがたい”ととるのか・・・ありがたいととれば、この世の中が極楽に見えてくるのです。
それを自分が「我」を出すから地獄になるのです。人間は、満足をするということがありません。不平・不満をいいます。
「あれが気に入らない。これが気に入らない。このご飯はまずい。この服は私には似合わない」
そう思えば地獄になりますが
「ああ、ありがたい ありがたい。もったいない もったいない」
と喜んで感謝をして生活をすれば極楽なのです。
バアヤンのしわくちゃの顔が浮かんで参りました。
「はあ、もったいない もったいない」
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