その26  殺すという罪


仏教の教えの中に「十善戒」(じゅうぜんかい)というものがあります。人間が人間として生きていく上で守るべき事柄を10の項目で説いてあるものです。
まず“不殺生”(ふせっしょう)ものの生命をとってはいけないということ。
次に“不偸盗”(ふちゅうとう)ものを盗んではいけないということ。
次に“不邪婬”(ふじゃいん)夫婦以外の人に心を乱さないこと。
次に“不妄語”(ふもうご)乱れた言葉・ぞんざいな言葉、みだらな言葉は使わないこと。
次に“不綺語”(ふきご)かざりたてたありもしないことを言って人の感心を高めようとしないこと。
次に“不悪口”(ふあっく)人の悪口や陰口を言わないこと。
次に“不両舌”(ふりょうぜつ)二枚舌を使わないこと。ウソを言わないこと。
次に“不慳貧”(ふけんどん)けちんぼにならないようにすること。
次に“不瞋恚”(ふしんに)怒らないようにすること。
次に“不邪見”(ふじゃけん)邪推しないこと。ひがんだ心を起こさないこと。
以上の10の項目が人間として守っていきましょうという戒律です。これは、一般の人に与えられるもので、お坊さんに対してはもっと多くの戒律があります。
この中で一番に出てくる“不殺生”ですが、ものの生命をとってはいけない。殺生してはいけないということですが、人間は鳥や魚の生命を奪います。これは、自分の生命をつなげる為に仕方なくする行為です。まあ、仕方ないことかもしれません。しかし、最低でもおもしろがったり愉快だと思って殺してはいけません。せめて可哀想だと思わなければいけないですね。
仏教では、生きたものの生命を奪ってはいけないと説きます。生きたものとは動物だけではありません。植物も生きています。動物を口にせず植物だけを口にしているお坊さんがいます。「殺生はしていない」と言いましても、植物も生きた生物と考えれば頭がこんがらがってきます。植物は根を残せば再び芽がふいて生き返るから、生命を奪うわけではない・・・では、大根やにんじん、ごぼうはどうなるのでしょうか??
動物と植物の大きな違いは、“感情”を表現できるかできないかというところにあると思います。鳥でも魚でも「殺される・・・」と思ったときは必死になって逃げまわり抵抗します。自分の身に危険を感じたときは誰でも一緒です。これは本能的なものです。これらの恐怖心を相手に与えることが大きな罪だと思います。そうなると、植物に感情があるのかないのかはわかりませんが、私たちには植物の感情というものが見えないし、植物は感情を伝えることができないので、まだ許されるのかなと思います。

殺生といいましても生命をとることだけが殺生ではありません。人の生命を縮めることも殺生のひとつです。親に心配をさせて生命を縮めることも殺生に等しいことなのです。
ただひとつ許されることは、人から供養されたものをいただくことは自分が求めてすることではないので許されるといいます。
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