その24  お茶 お花の世界


お茶の世界では、茶室で順番というものがあり、勝手に飲むわけにはいきません。自分の順番がくるまで腹をたてずにじっと座って待っています。お茶一服とお菓子ひとつの他は何も出ません。それでも一時間は待ちます。一時間も待つ値打ちがあるほどおいしいものかといえばそうでもありません。お茶は抹茶でお菓子はヨウカンなどが多いようです。別段変わったものではありません。それはお茶やお菓子というものよりも、気力を養っているのです。
お花の世界もそうです。山や畑に咲いている花を見ても頭を下げる人はいませんが、床の間に生けてある花があれば頭を下げます。これも気力を養っているのです。気力を養うことは人間にとって大切なことです。
気力がある人と無い人はあらゆるところでその人間の値打ちの評価が違ってきます。たとえば、茶碗があったとします。お客さんが
「私にひとつください」
と言ったとします。どの茶碗をあげようか迷ってしまいます。それはそれらの茶碗に愛着を感じているからです。しばらく考えて
「また捜しておきますわ」
と言わなければなりません。しかし、気力を見せようと思えば
「好きなものを持っていきなさい」
と言わなければなりません。人間の世界で大きな顔をして生きていこうと思ったならば気力を養わなければなりません。その気力を養うのが“無の智慧”です。仏法の“無”とは智慧で“無い”と見るのです。たとえば先ほどの茶碗も「これは私の大切なもの」と思えば逆に“有る”という気持ちが働いておしくなるのです。
むかし日本の仏教は小乗仏教でした。その後、大乗仏教が入ってきて人間の苦しみをとる教えを広めました。その方法がこの“無の智慧”なのです。人間は目が悪くなれば、その働きを耳がします。耳が悪くなれば目がします。鼻が口の代わりをしてくれます。人間とははかりしれない宝物を持っているのです。仏法は人間の尊さを教えます。無尽蔵という自由な“無”がのみこめれば、学者は学者・商人は商人・先生は先生で皆んなが仏になるのです。生活の上で無理をして余計な真似をすることはいりません。学者でない人が学者の真似をしても似合いません。
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