その13 当たり前の尊さ


昭和54年1月、高野山大学の1回生だった私は、脳の中にウィルスが入るという奇病にかかり、もう少しで生命を失うところでした。両親と師匠と主治医の冷静な判断のもと、一命をとりとめることができました。その年には、その新種のウィルスが流行し、私の主治医が診た患者4名のうち3名が亡くなるという強烈なもので、日本全国で猛威をふるったものでした。
約一ヶ月間の意識不明の状態から覚めてからの私の回復は目覚しいものがあったということです。その時のことを思い出すと、ただ「生きたい」とだけ思っていました。その気持ちが、早期回復につながったのだと思います。何とかリハビリを受けれるまで回復することができた頃、主治医は私をリハビリステーションに連れて行きました。何せ脳の中にウィルスが入っていたのですから、“生命の保証はできない、たとえ回復したとしても半身不随、頭に多少の難がでる”との診断でしたから、だれもがリハビリを受けれるまで回復するとは思わなかったそうです。
リハビリを受けるまで回復したといいましても、ひとりで食事もできない、歩くこともできない、うまく話すこともできないといった状態でしたから、リハビリステーションでは、つらく、悲しく、悔しく、そして痛い毎日が続きました。動かなくなった手足を動くようにリハビリするのですから口では言い表せないほどつらいものでした。しかし、まわりを見渡すと、私と同じ境遇の人たちがたくさんおられました。動かなくなった体を必死に動かす努力をしている人たちの姿でした。鉄棒につかまって歩く練習をしている人、曲がったままの足を無理やり主治医に伸ばされて泣き叫ぶ人、うまくボールを投げることができずに悔しがっている人・人・人・・・普通の人が当たり前にこなしてることができない人たちが集まる場所だったのです。
リハビリを続けているうちに、少しずつではありますが、うまく歩くことができるようになり、食事もスプーンを使ってとれるようになり、何とか会話ができるようになりました。どれほどうれしかったでしょうか・・・当たり前のことができるようになれたことに心から手を合わせて感謝しました。
あれから20年以上が経過した今、お陰さまで何ひとつ不自由なく生活させていただいております。当たり前に歩き、食事をとり、会話をしています。だけど、時々あのときのことを思い出して、当たり前に生活できることに感謝しております。
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