大震災の中から学んだ福祉のこころ
高野山福祉だより ふれあい 第七号 平成8年3月1日号掲載

 

たくさんの尊い生命を一瞬のうちに奪い去ってしまった憎き大震災。しかし、未曾有とも言える経験の中から学んだこともたくさんあった。被災地には次々とボランティア活動に参加するべく、特に大勢の若者達が集まり、あらゆる活動を展開された。その中でも私の脳裏にこびりついて離れないのは、髪を金髪に染め、眉毛は剃り落とし、鼻や耳にピアスをした少年のことである。二月半ばに横浜より救援物資をトラックで運んで頂き、物資を西宮市役所に搬入する手伝いをさせていただいた時の出来事である。市役所に到着するとボランティアの人たちがトラックの周りに集まってきた。その中に彼がいた。彼は金髪に染めた髪を振り乱し、額から落ちる汗を拭いながら大きな声を出して物資をトラックから降ろしていく。彼のその生き生きとした姿を見て、さわやかな気持ちにさえなった。彼はボランティア活動に一番に参加したと聞いた。
 震災前、彼のような格好をした少年を見て、「この頃の若い者はなっていない」というお叱りの言葉をよく耳にした。しかし、何故彼らはそのような格好をするのであろうか。それは、彼らの「自己主張」であると考える。戦後日本は急激な成長を成し遂げた。と同時に子供達に対する教育概念も変化していったと言えるであろう。勉強ができる子供があれば、できない子供が出てくる。勉強ではたちうちできない彼らは自己主張するために目立つ格好をする。そんな彼らが集団で行動し、世間では彼らのことを「不良グループ」と呼んだ。学校では勉強に落ちこぼれ、両親からは叱られ、つらい体験をした彼等・・・。この度の大震災でつらい目にあっている人々の気持ちを自分に置き換え、人々のつらい気持ちを痛いほど理解できたからこそ、一番にボランティア活動に参加したのであろう。
 お大師さまは、「文はこれ糟粕なり、文はこれ瓦礫なり。糟粕瓦礫を愛すれば粋実至実を失う」と申されている。即ち、真言密教の教法は文字文献の上だけによっただけで理解できるものではなく、実習し、実践することで体得するものであるという意味である。  
 髪を金髪に染めた少年は、叱られた時に体験したつらい気持ちを思いだし、いても立ってもいられなくなり、市役所に走ったのであろう。このような若者がたくさん存在したと聞く。このような行動こそがお大師さまの目指された信念であり、お大師さまの「福祉のこころ」ではなかろうか。
 この度の大震災を「伝説」で終わらせないためにも、彼等の体験から生まれた尊い行動を大切に、まじめに受け止め、今後の私たちの生活に生かしていかなくてはなるまい

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