沿 革 


当山は、天長10年(833)人皇53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願(ちょくがん)にて弘法大師(空海)により開かれました。お大師さまは観音霊場(かんのんれいじょう)を建立(こんりゅう)しようと地を求めて広田神社(西宮市広田町)で夜を通して拝んでおられました。すると化人(けにん)が現れて「ここを去って西山に入るべし。汝の所期をみたすであろう」と告げられました。お大師さまは早朝、西の方角にある山に向かいました。すると途中で大鷲(おおわし)が現れ、口から火を吹きお大師さまの入山を妨げました。その大鷲は「ソランジン」という悪い神で、このあたりの山に住む支配者だったのです。お大師さまはかたわら木を切り、わき出る清水をそそぎ加持(かじ)をして大鷲を桜の霊木に封じ込めました。再び化人が現れて「観音示現(かんのんじげん)の地、なんじの求める霊域はこの処なり。なんじ、しばらく礼拝(らいはい)せよ」と告げられました。お大師さまはご自分の体を地に投じて礼拝をすると、不思議にも観音さまが現れました。
そのお姿を写して大鷲を封じ込めた桜の霊木にて十一面観世音菩薩(じゅういちめん かんぜおんぼさつ)を刻み寺号を鷲林寺(じゅうりんじ)と名付けられました。その後八幡高良(はちまんこうら)などの社を再建し新たに白山権現(はくさんごんげん)、栂尾明神(とがのおみょうじん)などの神々を祭り、さらに八面臂(はちめんひ)の荒神(こうじん)をまつられました。先の十一面観世音菩薩を本尊として、脇立に薬師如来(やくしにょらい)・鷲不動明王(わしふどうみょうおう)・毘沙門天(びしゃもんてん)をおまつりしました。永い間貴族寺院として大変栄え一時は寺領70町歩・塔頭(たっちゅう)76坊の大寺院に成長しました。しかし、戦国時代に入り寺領はとられてしまい、天正6年(1578)11月に荒木村重(あらきむらしげ)の乱が起こり、それを期に翌7年織田信長(おだのぶなが)軍のために諸堂塔はすべて焼き滅ぼされてしまいました。信長軍の兵火から逃れるために有馬温泉まで逃げ延びた鷲林寺の僧侶が温泉宿を経営したという伝説も残されています

本尊をはじめとする仏像は瓶(かめ)に入れ地中に埋めて隠されていたため兵火から逃れることができました。後に掘り出されて小堂宇(しょうどうう 小さなお堂)を建立し観音堂としましたが、幾多の山津波や火災にあい住職がいない時代が長く続きました。昭和の時代に入ってようやく復興され始め現在に至っております。

また、時期は不詳ですが、武田信玄公(たけだしんげんこう)が僧侶になるため得度(とくど)をし、その頭髪を埋めたという伝説がある七重の石塔があり、現在西宮市の文化財に指定されています。

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