鷲 林 寺 沿 革
文献に見る史料



鷲林寺の開基伝説
開基伝説としては、大化の改新の頃、インドから来日した法道仙人(ほうどうせんにん・・・伝説上の人物)が開いたとも、天長5年(828)淳和天皇(じゅんなてんのう)の后(きさき)の如意尼(にょいに・・・その名は正史に実在が確認出来ないが、実在の皇后正子内親王をモデルにしたともいわれる)が弘法大師の助力で神呪寺(かんのうじ)を建立した際、開いたともいうが詳細は不明である。(西宮市史T)
その他いろいろな言い伝えがあるが最もポピュラーなのは、天長10年(833)弘法大師の開基説である。それは、淳和天皇(786〜840)の命を受け、霊場を物色していた弘法大師が広田神社に泊まっていたとき、夢枕に仙人が現れ
「西の山に入れ」
との指示を受けた。西の山に向かったが、途中で大鷲が現れ、火炎を吹き邪魔をした。大師は木の枝を切り、湧き出る清水にひたして加持をして大鷲を追い払った。桜の霊木で「十一面観音」の像を彫り本尊とし、大鷲を封じ込めた「鷲不動明王」を伽藍守護神とし、寺院を建立して「鷲林寺」と名付けた。その後、大いに栄え、盛時には寺領が鳴尾方面(現在の西宮市鳴尾町近辺)にまで及んだ。(
摂陽群談伽藍開基説)

鷲林寺の隆盛と衰退
元応3年(1321)1月25日、吹田又二郎が鷲林寺上総公に武庫郡西条5条15里4呼にある田地180歩を売却した田地売券が初見(大徳寺文書)以後、鷲林寺とその寺僧が、近隣地域で積極的に土地を集めたことを示す史料がたくさん残っている。たとえば、文和4年(1355)12月23日に沙弥(しゃみ)宗正は鷲林寺の石井坊に弘井荘加納地の田1反歩を売り渡しているが、石井坊は鳴尾荘の下司を兼ねていた。翌延文元年(1356)12月にも石井坊は沙弥・光信から小松荘地頭方の畠地1反を、さらに康安2年(1362)には広田神社の神官・兼貞から広田郷内の田地1反を買っている。(大徳寺文書)
永徳2年(1382)8月下旬、禅僧・絶海中津(ぜっかいちゃうしん 1336〜1405)は攝津の名山として勝尾寺・箕面寺・神呪寺とともに鷲林寺をあげている。土地集めとともに寺運が隆盛になっていく様子が伺える。(
蕉堅稿/西宮市史1)
応永19年(1412)8月、京都の北野天満宮でおこなわれた如法一切経(にょほういっさいきょう)の書写奉納に阿闍梨良守をはじめ祐賢・覚俊・覚舜・良尊らの鷲林寺の僧侶も参加している。当時、高僧たちが鷲林寺にいたことが伺える。(
北野如法一切経奥書/大日料7〜16)
盛時には70余りのお堂が建ち並んでいたという。しかし、争乱の進展のなかで寺領侵略も激しくなり、はやくも応安元年(1648)11月には小松七郎に弘井荘内の鷲林寺田7反が押収されたため、守護代官・島左衛門尉宗清に訴えて、返却してもらう事態が発生している(
大徳寺文書)
また、甲山の西の要衝の地に位置していたため、しばしば合戦の舞台となり、観応2年(1351)2月26日、上杉能憲(うえすぎよしのり・・・重能の子 宅間家を継ぐ)が高 師直・師泰兄弟の一行を「武庫川丘 鷲林寺前」で襲って滅ぼしたのは有名である。(
園太暦、太平記)
永正16年(1519)阿波から上洛を企てた細川澄元の軍勢は神呪寺・鷲林寺に陣取って激しく戦ったという。(
続南方録/続々群)
こうした情勢のなかで鷲林寺は明応4年(1495)5月に、三条西実隆に勧進帳を書いてもらい、募金活動を行うなど(
実隆公記)寺勢の維持につとめるが、戦国期になると次第に衰退し、ついに天正6年(1578)11月に荒木村重(あらきむらしげ)の反逆を知った信長が11月下旬から滝川一益らに討伐し、摂津・兵庫を放火させ、盛時には76坊あった伽藍も廃絶したといわれる。山奥の鷲林寺にまで兵火が及んだかどうかは不明であるが、再興勧進帳の写しによると、戦禍にかかったことが記されていないのがその証である。しかし、天正7年(1579)に火災にあったことは事実であり、その後は僅かに当時の里人が寺から持ち出して竹薮に隠して難を逃れた十一面観音をまつる観音堂のみ復興された(摂津志、西宮市史1)が、廃寺寸前にまですたれていった。

鷲林寺と有馬温泉の関係
僧侶が兵火を避け、有馬まで逃げるために掘ったといわれる洞窟がある。現在は10メートルほど先に八大竜王をまつる。むかしこの洞窟は、有馬まで通じていて、ここを通って戦火から逃げ延びた鷲林寺の僧侶が有馬まで落ちのび、そこで寺坊を建て宿坊にした。そのために坊号のついた宿が多いと鷲林寺では伝えられているが、これについては確証がない。
一方有馬では、有馬温泉は平安後期の土砂崩れで湯口が埋まり90年ほど中断していた。そこに吉野で修行した仁西(にんさい)という僧侶が熊野権現(くまのごんげん)のお告げによって温泉を復興し薬師如来を守護する十二神将(じゅうにしんしょう)にちなんで12の宿坊を開設した。これが有馬温泉に今もある「何々坊」という旅館の起源だと伝える。しかし、この12の坊が実際に寺坊であったかどうかは疑わしく、「仁西上人が吉野に逃れた平家の残党を源氏の追討から逃れしめるためにこの地に連れてきて、仏門に帰依した体制をとった」(
有馬温泉史話)などといわれており、鷲林寺との関係は記されていない。

伝武田信玄公の墓について
鷲林寺参道脇墓地の西南隅に七重石塔があり、現在西宮市内最古の石造遺品として市の文化財に指定されている。「武田信玄公の墓」と鷲林寺では伝える。信玄公の墓とも、信玄公が僧侶になるため得度(とくど)し、その頭髪を埋めたといわれる石塔であるが、その推定年代は鎌倉時代中期のものと判明しており時代がまつたく合わない。また、戦国時代甲斐の国の“武田氏”と越後の国の“上杉氏”が長年の抗争を続けており、両家の家臣の中で争いが嫌になったものがこの地に帰農して、甲斐姓(武田の家臣)高田姓(上杉の家臣)を名乗ったと伝える。(鷲林寺村伝承)
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