その七 唐より帰国
お大師さまに真言密教の法をすべて授けた恵果和尚は自身の命があまり長くないことを悟られ、お大師さまに
「この上は一日も早く日本に帰り国家のため、ひとびとの幸福のために真言密教を広めてください。それが仏の恩に報い、わたしの教授に返礼することになるのです」
と言われました。
やがてお大師さま入唐後一年目の十二月十五日恵果和尚はお亡くなりになりました。
そして、翌年三月、お大師さまは二年余りの唐の留学を終えて日本に帰られることになったのです。恵果和尚に会うことができたのは幸せであり、まことに不思議な出会いであったといえるでしょう。あるいはお大師さまの入唐が一年遅れていたならばどうなっていたでしょうか。
帰国の途中、明州(みんしゅう)の浜にお立ちになったお大師さまは、恵果和尚より授かった三鈷杵(さんこしょう)を
「わたしが真言密教を広めるのにふさわしい地に至り、わたしにその場所を示してほしい」
と願われて、日本の方向に向かって投げられました。不思議にもその三鈷杵は紫の雲に包まれて東の空に飛び去ったのです。
                              明州の浜より願いをこめて三鈷杵を投げられる

明州を出航して日本にむかうお大師さまの船はまたしても嵐に会い沈没の危機を迎えました。そのとき、お大師さまは帆柱を倒して、その柱に不動明王を刻まれ、嵐が静まるように祈願されたのです。するとどうでしょう。嵐はおさまり海はウソのように静まり返ったのでした。このお不動さまは、波切不動明王(なみきりふどうみょうおう)として今も大切に高野山に伝えられています。

写真左 三鈷杵        写真右 波切不動明王

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