大般若経ものがたり


現在日本に伝わっている仏教。この教えは今から約2500年前、お釈迦さまによって開かれました。
この仏教が日本に渡ってくるまでには、たくさんの方々の血と汗と涙の努力がありました。それはそれはひとことで語りつくせない、大変なご苦労があったのです。

インドでおこった仏教は、まず中国に渡り、中国から日本に渡ってきました。渡ってきたと申しましても、風にのって渡ってきたわけではなく、人間の手によって渡ってきたのです。

仏教経典の王さまといわれている“大般若経600巻”もインドに伝わっていた経典を、中国の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が中国に持ち帰り、そのおかげで現在日本にも伝わっているのです。
玄奘三蔵??聞いたことのあるお名前ですね。
そうです。三蔵法師のこと。“孫悟空”でおなじみの“西遊記”に登場するお坊さまのことです。
“西遊記”は玄奘三蔵が仏教を求めて、中国からインドに旅をされた実際の史実をもとにつくられた物語なのです。

大般若経をもたらした玄奘三蔵

玄奘三蔵の生きた時代
玄奘三蔵が活躍された時代は唐の時代ですが、お生まれになったのはそのひとつ前の隋という時代でした。
唐の高祖皇帝に隋が滅ぼされます。
唐という新しい国を守るため、皇帝は外国の人を国に入れない、国から外に誰も出さないという鎖国体制をとられました。
その時に玄奘三蔵は、インドに行って勉強しなければ本当の仏教をこの国に伝えることはできないという思いから、インドに行かせてほしいと二度も三度も願い出ました。
当然許可が下りるはずがありません。
鎖国状態のときに二度も三度も願いを出すのですから、とうとうブラックリストに載ってしまいました。
国の法律に従っていては、いつインドに行けるかわからないということで、遂に法律を破ってインドに行く決意をされるのです。

中国からインドへの旅

中国からインドに行くためには、タクラマカン砂漠を越えなければならない。日本がすっぽりと入ってしまうような広大な砂漠です。一度足を踏み入れたら二度と脱出することができない。隊を整えキャラバンで行っても全滅するようなところです。
砂漠で行き倒れた獣の骨や、亡くなられた方々のお骨を道しるべにしてインドを目指されます。
タクラマカン砂漠を越えれば、天山・ヒンズクシュという万年雪で閉ざされたところを超えなければなりません。そんな思いでインドにたどり着かれたのです。もちろん、そのような場所に住んでいる人々は使う言葉も違うでしょう。体力・精神力だけではなく、言語力も相当すぐれたものであったということが想像できます。
インドに着いてからの玄奘三蔵は仏教経典を求めてあちらこちらを歩きます。
そして、帰国の旅へと再出発されるのです。
結果的に17年かかって、3万キロを超えて、自分の足で歩きとおされた旅でありました。そんなことをした人は、玄奘三蔵をおいて後にも先にもないでしょう。
玄奘三蔵が持ち帰られた経典は、馬22頭分といわれています。

皇帝の願い
中国を出るときに国の法律を犯して出発していますから、帰ってくるときに皇帝に手紙を出されます。
「帰ってもよろしいでしょうか??」
皇帝は
「よう帰ってきてくだされた。早く帰ってきてください」
と言われます。
17年も経っていますから、その頃は鎖国も解いて、インドと中国との行き来もあり、玄奘三蔵のうわさも耳に入ってきていたのでしょう。

帰国後、玄奘三蔵は唐の太宗皇帝と会われます。皇帝は中国とインドを歩いて往復した玄奘三蔵の体力・気力・知力・見識に惚れ込まれて、常に自分の側近にいてほしいと頼まれます。色々なことについて相談にのってもらい、唐という国を造っていくのに智恵を貸してほしいと懇願されます。
しかし、玄奘三蔵はきっぱりと断られます。自分はそのようなことをするためにインドに行ったのではない。インドから持ち帰った膨大なお経の翻訳に命をかけたいと・・・

皇帝はその情熱に心をうたれ、お寺をひとつ玄奘三蔵にあてがって、翻訳の協力を申し出られました。その寺が大慈恩寺。今の西安にある大雁塔(だいがんとう)があるお寺です。玄奘三蔵は大慈恩寺の初代住職となられたのです。

その三年後も皇帝の父君の高祖皇帝から同じことを要請されますが、玄奘三蔵は断られます。翻訳に命をかけたいと。

皇帝からの要請を二度にわたって断り、翻訳に命をかけたいと固辞して貫き通された玄奘三蔵。宗教者としての玄奘三蔵の尊さを感じます。


大般若経の翻訳
いよいよ玄奘三蔵は大般若経の翻訳にかかられます。大般若経600巻。膨大な巻数です。この経典を翻訳するのに4年かかっておられます。480万字あり、経典中の王さまといわれる由縁です。
そして、大般若経600巻を翻訳されたあと、玄奘三蔵は100日で亡くなられるのです。
『合して六百巻を成し、称して大般若経と為す。合掌歓喜して徒衆に告げて』
とおっしゃっています。


大般若経転読の意味
日本では「大般若転読法会」について、奈良時代から行われていたことが「日本書紀」から伺えます。
なぜ、転読というのかというと、昔はお経は巻物であったため転ばして読んでいったのです。転ばして読むから転読といいます。

玄奘三蔵が17年かかって3万キロという距離を自分の足で歩いて、命がけでもって帰られた尊いお経。その中でも4年間かけて翻訳された大般若経600巻。この功徳に対して、目を通すだけでもご利益があるのです。文字を見るだけでもありがたいのです。


大般若転読法会のご本尊 十六善神


大般若転読法会の折には「十六善神」の掛け軸を本尊としておまつりすることになっています。右の絵がそうです。
本来は大般若経を守護する般若菩薩を主尊として十六善神を配置するものですが、一般的には釈迦・普賢菩薩・文殊菩薩の釈迦三尊を描くものが多いです。
六角九重の台座上に、施無畏、与願印をとって結跏趺坐されるのが釈迦如来。象に乗られるのが普賢菩薩、獅子に乗られるのが文殊菩薩です。

普賢菩薩の下の僧形の菩薩が法涌(ほうゆう)菩薩、文殊菩薩の下の合掌されている菩薩が常啼(じょうたい)菩薩です。

これを取り囲むように武装形の十六善神が描かれています。そして、画面最下方、向かって右には経巻を収めた笈を負う玄奘三蔵、左に深沙大将を配します。

 


なぜ大般若転読法会に「十六善神」をまつるのか??

十六善神とは、姿かたちは醜怪な夜叉(やしゃ)や鬼神(きじん)ですが、ひとたび佛の教えを聴いて、すぐ改心し、善心をおこして三宝に帰依しました。 ことにこれらの善神たちは「般若」をこれから我々で大切にお守りします、という大誓願(せいがん)をおこしたので、以後、これ
らの神々を「般若守護の善神」としました。


三蔵法師と深沙大将の物語
仏画の左下に描かれている鬼のようなものを深沙大将といいます。なぜここに描かれているかといいますと、三蔵法師との故事からきています。
「因縁集」という書物によると、玄奘三蔵が34歳のときに17年間もかけて中国からはるばる唐に行かれました。そして、大般若経などの経典357部をたずさえて帰国されるその途中、川のほとりで一人の鬼人に遭いました。鬼人は首からペンダントのようにして骸骨をぶら下げています。
三蔵法師が怪しんで聞きました。
「汝は、いかなる神か? また、なにゆえ帰路を急ぐ私の前に現れたのか?」
すると、鬼神が言いました。
「私はこの河に住む蛇神で、深沙大将と申します。ところで、法師は前世より代々高僧であられて、佛法を求め、衆生を救うためためインドに行かれること、すでに六世に及んでおります。私は法師がたずさえておおられる数多くの経典類を奪うため、そのつどここで待ち伏せして法師の経典を横取りしてまいりました。そのような悪事を代々六世にわたっておこない、法師もこのために命を落とされること、六世に及んでおります。私の首に掛けているこの骸骨も実は法師の六世にわたるものなのです。 したがって、いま、法師とこうしてお会いするのは数えて七度目になるわけです。しかし今、法師は以前にも増して数多くの般若を持って帰ってこられているように見えます。それを見て今はじめて法師の仏法にに寄せる情熱を理解することができました。六世もの長いあいだにわたる、法師に対して犯してしまった大罪を心から後悔しております。申し訳ございませんでした・・・」
と泣いて心から悔いました。
「善いかな 善いかな。あなたの今の懺悔によって、あなたが犯した今までの罪はすべて消滅しました。これから先は、あなたの家来とともに仏法を広めて、衆生済度に精進しなさい」
と、三蔵法師は言いました。そして所持していた大般若経を取り出して、深沙大将の頭上にかざされました。こうべを低くたれ、恭しく法師の言葉に耳を傾けていた深沙大将
「これからは般若経を身をもって防ぎ守ります。また、般若を敬い信じる人に対しては、現在から未来にいたるまで、いついかなる場合もその願いが叶うよう援護するでありましょう」
と言い、三蔵法師に固く誓約しました。

般若経は、玄弉三蔵法師によってインドから中国に伝えられ、深沙大将という河の蛇神が「般若波羅蜜多」の守護神となったいきさつを図に描いて後世に伝えたものであります。