仏舎利奉迎
(ぶっしゃり ほうげい)

スリランカ ナイヨッパーラー寺 管長さまより相伝しました

1993年3月6日、高野山三宝院ご住職 飛鷹全隆(ひだか ぜんりゅう)僧正さまのお導きにより、スリランカ ナイヨッパーラー寺に伝わる仏舎利を相伝していただくことができました。
これは平成5年春に建設された多宝塔(たほうとう)におまつりするためです。鷲林寺先代、片岡栄光(かたおか えいこう)老師の夢であった多宝塔建設。夢を追いつづけて30年・・・その夢を果たすことなく昭和58年10月28日亡くなられました。その夢を引き継いで10年。大勢の方々のお力をいただいて現住職の代で建設がなりました。先代住職が30年、現住職が10年、合計40年という歳月をかけて夢かなった多宝塔建設でした。
むかしから「塔には仏舎利をおまつりする」といわれております。このように長い年月をかけて、大勢の方々の心のこもった建物に納める舎利はスリランカから請来した本物の舎利がよいという飛鷹ご住職のご配慮のもと、飛鷹ご住職と友好があったスリランカの信者・サニー氏のご縁にて実現いたしました。

     
スリランカナイヨッパーラー寺管長さま


仏舎利を相伝

仏舎利とは
お釈迦さまが亡くなられたあと、大勢の弟子たちの要請により、在家の信者たちの手によって地上最高の王者に対する礼をもって葬儀がおこなわれました。
遺体は新しい布と打ちほぐされた綿で丁重に包まれて、幾重にも仕組まれた棺のなかに納められ、供花とお香、奏楽による七日間のお弔いのあと荼毘(だび)に付されました(火葬された)。
お釈迦さまの遺骨は、弟子たちがお釈迦さまの教えそのものを大切に思い遺骨そのものには関与しなかったため、遺骨は荼毘に関わったマッラ族の手に残ったのです。その後、お釈迦さまの入滅を聞いて各国の王や部族がその分骨を望みました。しかし、マッラ族がこれを拒否したために戦争になりかけたのです。
このとき、ドルナというお坊さんが、お釈迦さまの遺骨をめぐって争うことは、お釈迦さまの教えにそむくことになると皆を諭してその遺骨を均等に八分し、これを関係のあるインドの八カ国の人々に分配したのです。これらの人々は、その遺骨を仏舎利(ぶっしゃり)として自国に持ち帰りストゥーパー(仏塔)を建ておまつりしました。
百数十年後、マカダ国のアショーカ王が、仏塔八基のうち龍神が守護して立ち入ることを許さなかったというラーマガーマの仏塔をのぞいて、残る七基のすべてを開いて仏舎利を取り出して、さらにインド各地に八万四千の仏塔を建てました。
このアショーカ王の業績によって仏像なき時代にお釈迦さまその人としての仏舎利の信仰がひろまり、人々の心を安らげたのです。やがて、その仏舎利はスリランカや遠く中国をはじめとする東南アジア諸国、日本にもたらされることになっていくのです。

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