
肥後山茶花(豪華限定版付録より引用)
ほころびかける花の色のうつろい 散り山茶花の清澄さが人の心を掴む 晩秋の空にそびえ立ち
豊かに咲き乱れるサザンカ 失われ行く銘花に秋の哀愁が漂よう
サザンカが園芸化し、観賞樹木されたのは約三百年程前のことである。徳川時代、江戸駒込村にサザンカの栽培が
盛んとなり、そこで生まれた江戸サザンカが、わが国サザンカ園芸の主流となった。サザンカの園芸は、庭園樹とし
て植栽されるのが主で、茶庭には楓とともに絶対に欠かせないもので、秋から冬にかけてハラハラと散花して庭にち
り敷く風情は、広く庶民に愛されてきた。
肥後におけるサザンカの栽培は、宝暦六年(1756年)細川重賢公の御薬草蕃滋園にいて薬種として栽培された
記録がある。その後次第に庭園観賞樹として愛され、明治初年、肥後花連の山崎貞嗣翁により、下りもののサザンカ
の交配実生から選出し、大輪の肥後サザンカ「大錦」が生まれた。
肥後サザンカは花連「満月会」の花友の間に広がったが花菖蒲とともに殆ど会員外には出ず、栽培者も限られた範
囲にとどまったため、わが国の園芸界に送り出されることもなく現在まで守られてきた。
肥後六銘花のなかで最後のシーズン、晩秋の空にそびえて、豊かに咲き乱れるサザンカは、しっとりしたさわやかな
花木である。サザンカの魅力は心なごむやさしさにあり、つつましくひそよかな「秋の哀愁」にあるのでないだろうか。
サザンカは、ツバキと同属で、属名Camrlliaは、17世紀頃の宣教師で東洋の植物を採集した人の名前を記念してつけ
られた。
肥後サザンカの特徴は、一重大輪梅芯咲。花弁数は5〜10枚、大錦、大空等は花径15センチにおよぶ。また、八重
咲の一群もある。花色は紅、白、緋絞り、紫紅、淡紅、桃、桜等の各色がある。
現在、「肥後サザンカ協会」の会員は約50人。肥後サザンカには40余種の花があるが、いま確認されているのは、
22品種。残りの花について識別できる人は、もういない。
「原産地」
サザンカは日本の原産である。野生種の分布は四国、中国地方の一部、沖縄および台湾、福建南部地方にまでおよぶ。
「御薬草蕃滋園」
肥後細川家8代(肥後熊本藩第6代藩主)細川重賢公によって、今からおよそ215年前に創設。内外和漢の薬草木類829種が栽培された。記録には、
山茶、山茶梅、芍薬、菊、花菖蒲、牽牛花、桜草、桜、梅、竹、そのほかが栽植されたとある。
「山崎貞嗣」
弘化二年熊本水道町に生まれる。神風連の変、西南戦争にも関係した。明治10年(1877)兵火のため水道町の家を失い、出水町長溝に100坪の
土地を求め上草園と命名、草木を始め肥後花菖蒲、サザンカの改良に着手した。彼は花道肥後宏道流を父山崎遊雲斎梨明から受けて弧雲斎渓雪と号し、
花道の師範や打上花火の名人でもあった。
肥後菊(豪華限定版付録より引用)
隠逸の極致を具備 仁義礼知信 五行人倫の道を説く肥後菊 自然、心 技が総和して織りなす芸術
そこには心を尽くしてきた執念の美がある
キクは、奈良朝天平時代に支那より薬種として伝来し園芸化したという。支那戦国の頃、菊を君子の花と賛え、その
色香を愛した陶淵明の採菊の詩はよく知られている。
肥後におけるキク栽培のおこりについての確かな古文献は見当たらないが、始祖の第八代肥後藩主細川重賢公の養菊
である。彼は博物学に卓越した才能を発揮し、御薬草蕃滋園には、和漢洋薬草木829種が植栽され、菊花数10品が
植えられた記録がある。
文政二年(1819)、秀島七衛門(『養菊指南車』)によって、肥後菊栽培の基礎が築かれる。明治10年、西南
役の戦乱は肥後の園芸に大きな影響を与えた。当時の栽培者伊東平士らはキク苗を市外に分散させ、辛うじて絶滅を免
れたと伝えられている。明治20年には、同志により「愛寿会」が結成され、肥後菊栽培が本格化した。
このようにして、熊本で発達改良を見た肥後菊は、観賞用秋ギクの正常種で中輪ギクに属し、そのわびしさの中に備わ
る気品と清楚を特性とする。いわゆる日本古典ギクの一種としてみのがすことのできないものである。
また、肥後菊は花壇栽培が建前で、一本一本の花にも趣はあるが、全体の総合美に重きをおいているところが、ほか
のキクと違っている。肥後菊花壇の前に立つと、あたかも古典美術を鑑賞しているように心がときめき、襟を正さずに
はおれない不思議な感懐が湧く。そこには、花壇を精神修養の場と見立て、ここに儒教の教えを表現した、肥後モッコス
精神の発露がある。
秀島流花壇作りは、いまも愛寿会の人々の手で守られている。しかし、この園芸文化財ともいえる古典花壇様式は、
一部の人の手にとどまることなく、これからの若い世代へと受継がれていってほしいものである。
「秀島七衛門と『養菊指南車』」
肥後菊栽培の祖といわれる秀島七衛門は西古町にあって有芳亭英露と号し、厚弁ギクから薄弁ギクをあわせて栽培し、生涯をキクに奉げた人である。
彼の著わした『養菊指南車』は、二月の立春から立冬までの四季十八節の各候に従って養菊法を精説した。
「細川重賢と肥後菊」
細川重賢は、医薬民生のために尽力され、御薬草蕃滋園の経営、医学校再春館を創設した。彼の直筆による『生物写生帖』10冊のうち第7冊目の
『蕣、百合、雑写生帖』は、天明2年頃の著作であるが、この中には石竹、百合とともに菊花196種が写生されている。公は自ら菊を愛され、人倫
風土の養成にキク作りを奨励されたという。天明5年68歳で病死された。
「肥後ギクの特性」
大、中、小キクとも一重咲きの薄物。花弁は平弁咲き、管弁咲き。花芯が大きい。花色は、黄、白、赤の純色を基調色として育成され、大輪は花径
20cm、弁数は20枚から30枚前後である。
肥後朝顔(豪華限定版付録より引用)
市井の人々の努力によって行き続ける、素朴さの中に味わいある気品が漂う幻の花肥後アサガオ。
その影には伝来の種子と栽培手法を守りぬいた一人の女がいた…。
アサガオのわが国への渡来は、約1360年前奈良朝のころ、遣唐使により伝わったものといわれている。当時の
アサガオは淡藍色の一種で、薬用として栽培されていたが、徳川時代に園芸化され、寛文の頃、白花が出現して以来、
文化、文政時代に江戸、浪華を中心に各地でアサガオの大流行時代を迎えた。明治に入ってからは、一時衰退したが、
その後息をふき返し、各地に愛好会が誕生した。熊本地方もこの例にもれず、明治32年に「肥後朝顔凉花会」が結成
され、その後各地から入会者が相次ぎ、会の活動を中断する太平洋戦争前年の昭和15年には180人になっていた。
肥後アサガオづくりの伝統は古く、今の肥後アサガオについては、現在までどのようにして育ったのかよくわから
ない。幻の花といわれるゆえんである。いずれにしても肥後アサガオは長い間、全くといっていいほど他品種との交流
がなく、伝統の栽培法をそのまま受け継いでいる点が、日本のアサガオの中で異色とされている。
こうして今日の肥後アサガオの隆盛の陰には、愛培家たちの数々の苦労があった。その中の一人、徳永据子さんは、
戦時中や戦後の水害の時も、アサガオの種をリュックにかついで避難したという。彼女は、昭和37年の「凉花会」
再建にもその中心として活躍し、42年故人となった時、「凉花会」は異例の徳永据子杯を設け、毎年の花神祭に会の
功労者に贈った。
肥後アサガオは、夏・秋の2回観賞し、大輪アサガオ栽培と異なる点は、生涯蔓を摘むことなく、自然の草姿を観賞
するところにある。花の色は紅、桃、青、るり、えび茶、紫と白の七色。本づる一本で第3花まで小バチで楽しみ、
あとは露地に移して垣根の花として観賞する。
「肥後朝顔凉花会」
明治32年創立。当時会員48名であった。凉花会いまでも明治初期の品種、栽培様式を受け継いでいる。現在41品種。
「新町連と坪井連」
凉花会には、新町連と坪井連があった。新町連は新町、呉服町、細工町等の商人達による集いであり、坪井連は宮員派、つまり勤め人が多かった。
「肥後アサガオ持寄大会の観賞法と採種」
肥後アサガオは4月20日に初回の播種をして7月の七夕前後に各自凉花会指定の場所に持寄り、二回目は7月20日に播種をして九月の節句前後
に持寄会(観賞会)を催して栽培法について検討した。各自持ち帰り、露地に移し植えて蔓を伸ばし採集用とする。花の色を按配して、五、七、九、
十一等の奇数の鉢を上下に段に配列し、早朝から10時まで品評観賞する。
「肥後アサガオの特徴」
花は合弁漏斗型で花径は10〜15センチ、露地に移し植えると3m以上に伸びる。全体に細毛がある。花は光沢があるが、いずれも純色で覆輪はない。
肥後花菖蒲(豪華限定版付録より引用)
肥後人が育て守り続けた門外不出の花、虹のように美しい花をわずか三日で閉じる花菖蒲。
肥後武士たちはそこに 我身を映したのだろうか…
花菖蒲は、アヤメ科アヤメ属の多年草本で日本、朝鮮、中国、シベリアを原産地とする。観賞に用いられた花菖蒲
の由来は、約五百五十年前、野生の活花に使用したのもが始まりとされ、園芸的に庭園に栽植されたのは今から五百
年以前のことといわれている。徳川時代には、わが国の幾つかの地方で園芸化の苦心がなされた。江戸では、幕府旗本
松平定虎が花菖蒲の改良に
着手。その子定朝におよんで初めて見事な花態の花菖蒲の育成に成功した。これが花菖蒲の花祖、菖翁・松平左金吾
である。
こうして肥後における花菖蒲の栽培は安政の頃に忽然と隆盛に向かった。菖翁は苗の分与に際し、花の将来を案じ、
門外不出、良品種の作出に当たっては江戸と肥後の相互交換等を条件とした。このことは現代まで受け継がれ、花連
「満月会」の厳しい盟約の下でその栽培秘法は、一徹なまでに守られた。
肥後の銘花中、その双璧と謡われた肥後花菖蒲は、花連の絶えざる育種改良によって、肥後人士の好む花体を出現
するに至った。その特徴は、花色の基調が紅、白、藍、瑠璃、紺、紫、鼠の七色および、これらの絞りであり、花型
が豊かで大きく、花芯は大きく立っている。鉢仕立てにより屋内で観賞することが建前である。虹のような美しさ、
夢幻なまでの美しさをもつ故に三日間の花の命を閉じる厳しさ。そこには厳しさと美が真剣に生き交う武士の性根に
共通したものがある。肥後モッコスの気骨と、門外不出の花として今日まで百四十余年、不滅の火を灯す花の魅力と
のドラマは、いまも営々と肥後花菖蒲の里に続いている。
「松平左金吾」
安永二年(1773)江戸生まれ、幼少の頃から園芸に長じ、花菖蒲の実生育成から大輪の美花を作出した。
「花連のおこり」
茶道、華道、園芸に堪能な人達が集まり、園芸、茶、華、養魚、養虫等の談義を交えた。これが肥後連花の始まりで藩公は「花連はうまいな」と時々
賛辞をおくり奨励されたという。
「満月会」
花連の人々は毎月十六夜を約して栽培研究の集まりをした。後に満月会と改めた。明治二十六年(1893)規約を制定した。
「肥後花菖蒲の品種」
現在までに育成されたものは千数百の品種に及んでいる。現在するものは五百品種位であろう。
肥後芍薬(豪華限定版付録より引用)
先達が守り続けた秘花を絶やしてならない。肥後六花の中で最も古い歴史を持つ肥後シャクヤク、
夕宵に漂う優麗な花の気品に肥後モツコスたちの夢があった。
芍薬が日本に渡来したのは延喜年間ともいわれ、1700年代に最も盛んになり、品種数も100種以上にのぼっ
たと思われる。徳川二代将軍秀忠の時代には武家庭園に愛用され、元禄から文化年間には、江戸、大和、大阪地方に
苗の生産が行われたといわれる。肥後における栽培の始まりは、史実によれば室町時代にはすでに多くの栽培が行わ
れている。肥後藩士中瀬助之進(白蝶と号す)は寛政7年(1795年)に「芍薬品評論」を著わして芍薬花壇栽培
法を定めた。同書には花の構造、栽培法、観賞法、花会作法、花壇様式等を論じて芍薬栽培の基礎を作り、その後多く
の人達によって優秀花を作り出してきた。肥後芍薬は、その歴史においても最も古いものと思われる。
肥後芍薬は、1〜3種の連華咲きで花容重厚、花央に黄金色の芯を盛り上げる。花色は白、桃、赤、淡紅、紫、緋、
海老茶等多彩である。花型整然として花色濁らず丸弁抱え咲きで花芯の盛り上がりの大きい程良品とされる。紅、白、
桃にふくらむ蕾の風情、微風に動く満開の様は夢幻の美しさである。ことに朝夕の冷気には花弁をとじるいじらしさ、
夕宵に漂う花の貴品さに打たれるものがあり、五月の雨に濡れる重たげな姿には、そっと手をそえてやりたい気さえ
する。
肥後芍薬づくりの組織としては、天保年間に「肥後芍薬連」が結成され、終始、熊本の花つくりをリードしてきた。
しかし、戦前まで200種ほどあった肥後芍薬も戦争と水害で名花の大半を失い、いま残っているのは50種前後で
あるが、先人の自然美を愛した心は、そのまま現代に生かされ、花をめでる人々の夢をかりたてている。銘花肥後芍薬。
単に熊本の保存花として秘蔵することなく、同好者を一人でも多く求め、愛培家の期待に応えてほ
しいものである。
「芍薬の原産地」
芍薬は別名エビスグサ、夷薬、吐錦ともいう。原産地はアジア大陸東北部、中国(満州)、蒙古、シベリア、朝鮮の各地に自生する。
「肥後芍薬を研究した人」
西田信常は肥後芍薬の栽培者であり、明治36年(1903)「芍薬銘鑑」を著わし、当時の栽培者約29の花壇現勢と花連9名の花壇銘花
約300種について 記録した。上妻博之は細川家所蔵藩政資料の約二万冊の全般にわたって整理した。
「肥後芍薬の絵画など」
堅山南風、西村淳、千賀友子の作品がある。一刀彫の村上一光、外村敏などの作品もある。
「肥後芍薬の花壇づくり」
植栽は二列の方形または千鳥植えとし、前列に草丈の低い品種後列に高生種を東から白、紅、淡紅(桃)色の順に配植する。
肥後椿(豪華限定版付録より引用)
銘花「ヒゴ・キャメリア」として世界に君臨する肥後椿 近代的な土壌の中で受継がれて行く肥後椿
清雅枯淡の味わいのなかに日本人の心をみる
熊本の園芸は、江戸時代から細川藩の庇護を受けて発展し、いくつかの正しい伝統を持つ、個性豊かな花を生み
出し、それらの種類品種が文化遺産として継承され現在に至っている。藩政時代から文化人的嗜好を加味した、い
わゆる肥後っ子好みに改良をかされた。清雅枯淡の味わいのあるものが銘花とされた。肥後椿は、最近十数年来の
ツバキブームによって活発な動きを見せ、それぞれきわめて多彩だが、花色によって白、淡紅、赤、錦(絞り)の
四系統に整理され、肥後つばき協会認定品種として80種が登録されている。
椿の学名は、Camellia japonica L.var. Hortensis Makino であり、東アジアの原産である。 一重咲きの特異な
姿をもつ肥後椿が、どのようにして生まれたかは、まだよくわかっていない。その一番古い文献とされているのは
「江戸白金植木屋文助筆記」という資料である。これは、芝白金の細川家藩邸に出入りしていた植木屋文助のメモ
を肥後藩士武藤輝秀が書き写したもので、肥後椿ほか22種の花木の栽培法が記されている。このうち肥後椿につ
いては30品種にわたって、色、花容、挿木、接木、鉢培養法等について記されている。
彼は、その特徴を「持ち前の花しべ…」と記し、室町時代に源を持つ京都、江戸の椿と区別している。すでに当時
植木と並んで鉢仕立てが重用されていたことが記されており、現在の熊本に見る肥後椿盆栽は、200年の伝統を
継いでいるものと思われる。肥後椿の栽培者は、細川藩士、寺社、地方の豪農等から数寄者の集いに従って広められ、
栽培者たちは、春の花時に持ち寄り、鑑賞会を催したといわれる。
肥後椿の特色は、薄色の花弁が主流で、よく整った一重咲き。中心は金糸、銀糸のような色鮮やかな太い雄しべ
が梅芯のように盛りあがる点にある。
「江戸白金植木屋文助筆記」
肥後椿に関する資料の最古のものとして「肥後藩史」編さんに当たった武藤家で見つかった。「肥後椿の原樹」(代表的なもの)
小野家の大椿、堀内伝右衛門屋敷の肥後紅梅、森家の肥後熊谷、山形家の肥後日の丸、片山家の梅垣「元日の椿老人」肥後椿の里に住む
大汐栄次郎さんは、盆栽に取り組んで25年間、元日の砧木とりを一回も欠かしたことがない。
「肥後椿の絵画」
谷口栄により「色彩肥後椿図譜」が描かれたが、熊本大水害で散逸。芸術院会員堅山南風によって描かれた「肥後椿の大作」(100号)
平野三代喜、轟周平、松川富士也らの作品がある。
肥後の銘花の代表的なものがこの六花である。椿・芍薬・花菖蒲・朝顔・菊・山茶花については、おのおの専門の方々
が詳しい解説を試みられるであろう。私は、これ等の銘花を作り出した肥後の国土と肥後人の気質について誌してみたい
と思う。
肥後というところは古い土地である。もと肥前と一国にして火の国といったという。それも崇神天皇によって名づけ
られたというのであるし、所體、有史前の古墳も少なしとしない。その中には彩色古墳や銅剣等の出土したものもあっ
て、古くからこの国に文化が栄えていたことがわかる。菊池氏が元弘、建武の際に現れて、一時はその統一したかに見
えたが、その衰えるや、群雄は割拠して各々に地方の豪族の支配下に入った。秀吉の天下統一後は、南を小西氏、北を
加藤氏の領有するところとなったが、小西行長はキリシタンであった為、領内の神社仏閣を破壊した。従って、そこに
保存された大半の非キリスト教の文化は壊滅してしまった。細川氏が入って再びこれ等の文化の建設が行われたが、い
ったん壊滅したものは、なかなか元に戻らなかった。
このような戦乱に明けくれた火の国の人々は、その間に自らの人間形成に独自なものを求めていたのである。今日の
目で見るならば、それは孤高で、社交嫌いで、一面に於いて人が善く、他面に於いて独善的なものを持ったもののよう
に見える。酒をくみ交わせば百年の知己の如くなるくせに、初めて会った時は、何か相手につっかるようなことを言っ
てみたりもする。先入観が強く、自分の言動はなかなか変えない。このような頑固な態度を「肥後モッコス」と称して
自他ともに許している。
このような孤高な人々は、対人関係に対処するよりは、学問や園芸のような方面に向いていたのではないだろうか。
ここには、かっての肥後の学問と、園芸の高度な発達が考えられるのであろう。園芸における品種改良というような仕
事は、今でこそ多くの同好の人々が互いに研究を交換して行われているが、江戸時代には秘伝としてなかなか人には教え
なかったものに違いない。美しい花を作り出した時こそ、その孤高な人々の満足は、また格別なものであったであろう。
そもそも肥後の園芸は、細川家の八代重賢の頃にみる。重賢は医学寮再春館を建てるとともに、薬草を自給する目的
を以って御薬草蕃滋園を作った。ここに植えられた椿や山茶花が今も蕃滋園跡に残っており、この頃から肥後銘花が生
まれ出てきたのであろう。そして園芸が最も盛んになったのは十二代斎護(文政十年〜万延元年)の時代で、草木はもち
ろん、虫、魚、鳥の育種改良が行われ、天保年間には「花連」と称する草花観賞の会が誕生するようになったのである。
文献については、寛政七年(1795年)に中瀬助之進が著わした「芍薬花品評論」が最も古く、文政二年(1819年)
に秀島七右衛門が著わした『養菊指南車』がこれに次ぐ。いずれも花の構造、栽培法、観賞法、花会作法、花壇様式を
記したもので、これによって肥後名花の基礎が確立されたといっても過言ではないと思う。
このような武士気質、特に肥後モッコスを加味した頑固さに支えられて作られた肥後の銘花も、今後は科学的な方法
によってさらに大きな発展を遂げるであろう。私はそれに多くの期待を持っている。
殊にこの本が出版されて、さらに多くの人々の関心がこれ等の銘花に集まり、それによって新しい品種が作出される
ことを望んで序文とする。(豪華限定版付録より引用)





解説は、昭和49年11月10日付けで誠文堂新光社から出版された「肥後六花撰」(肥後六花保存会編集、
郷土史家村山豪、熊本大学教授栗屋強執筆)の「豪華限定版付録」による。
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