自然堂治療室・相談室のCONCEPT基本的治療観

 

なぜ「自然」(じねん)なの!?

 

 「自然堂」の名前は、「しぜんどう」とは読まずに「じねんどう」と読みます。それは「自然(じねん)」という言葉が、東西の身体療法・心理療法のどれもが行き着く、共通の特質を一番よく表わしていると思うからなんです。東洋医学と西洋医学、身体療法と心理療法の統合を追求している自然堂治療室にとって、これほど的確な言葉はありません。そして自然堂治療室は、数ある治療法の中でも、特にこの「自然(じねん)」という性質をよく示す治療法を厳選し、巧みに統合して、幅広いニーズに応える効果の高い綜合的治療=「自然療法(じねんりょうほう)」を行っているのです。

 「自然(じねん)」はもともと、読んで字のごとく、「自(おの)ずから然(しか)る」ということです。「自ずから然る」とは、あるがままの・ありのままの・ひとりでにという意味です。あるがままに・ありのままにいるならば、ひとりでにしかるべき状態になってゆく。問題もひとりでに解決に向かってゆく。病気だってひとりでに治ってゆく。そんな意味がそこには含まれています。

だから本当は、「自然(じねん)療法」なんて言い方自体が矛盾してるんですよね。病いは治す(治療)のでなく、おのずから治る(治癒)のですから。それでも「治療室」を掲げ、「自然療法」を名のるのは、1つには便宜のためもありますが、もう1つには、治療ということを治すことでなく治る場を開くこと、いや、開くといいながら治療者自身も治る場へとすすんで開かれてゆくこと、そんなふうに捉えかえしたうえでのことなんです。

 

「今・ここ」の無限の深み

 

 治る場がなぜ大切かというと、あるがままに・ありのままにいるっていうのは、そのつどの「今・ここ」という場開かれてあることだからです。「今・ここ」は一瞬一瞬たえず変化してゆきますが、その一瞬一瞬は無限の深みを持っていて、そこに過去も未来も、自己も他者も、身体も精神も、そして生も死も、いっさいがたくしこまれています。だから、そのつどの「今・ここ」にしっかり踏みとどまると、何が問題で(過去)、どうしたら解決するのか(未来)もみえてきます。あるがまま・ありのままが、ひとりでにいい状態をもたらすのも、きっとこのためなんです。

 「今・ここ」に開かれてあるとき、私たちは、いつまでも無常であるほかない「今」のかけがえなさに打たれ、存在の流動性へと開かれてゆきます。「今・ここ」に開かれてあるとき、私たちは、どこまでも差異であるほかない「ここ」のかけがえなさに打たれ、存在の多様性へと開かれてゆきます。

1人1人が一瞬一瞬の「今・ここ」に開かれてあること、これこそがおそらく私たちの究極の解放であり、根源的な欲求であるのでしょう。そのとき「今・ここ」は、私たちの永遠に喪われることのないふるさとです。このふるさとを喪失するとき、「自我」だの「家族」だの「国家」だの「宗教」だの、その他いろいろな「−イズム」だのに、私たちは耽溺しようとします。耽溺の対象であるとき、これらはすでに「今・ここ」からの疎外、いわば根源的な疎外でしかないのですが。

しかもなお私たちは、「今・ここ」のはらむこのあまりに巨大なポテンシャルを受けとめかねてか、あえてそこに深入りしようとはせず、表面的にやりすごす日常を送っています。それもまた1つの、「今・ここ」であることに違いはありません。安全な「今・ここ」です。決して否定すべきではありません。ただ同時に、空虚な「今・ここ」でもあるかもしれません。なぜならそれは、みずから「今・ここ」にいることを知らない「今・ここ」だからです。そのとき私たちは、何が問題で、どうしたら解決するのかなど、すべて自分が知っているのだということを、知らない(と思いこんでいる)でしょう。何か壁にぶち当たったり、病に悩まされているときの私たちは、たいていこれです。

 

自分のことは自分がいちばん知っている

 

そこで、「今・ここ」に開かれてあることが重要になってきます。私たちは、どんなどん底の極においてさえ、自分にとって本当によいものにふれると、あるいはそれをイメージするだけでも、呼吸がおだやかに深くなり、姿勢がゆったりとゆとりをもち、全身に静かに広がる心地よさを感じます。何が自分にとっていいことなのか、誰よりも自分自身がよく知っているのです。誰もそれを外から教えることはできません。本人だけが、「今・ここ」に開かれた本人だけが、あるいは本人の開かれた「今・ここ」だけが、知っています。このことは、「主体性」なる言い古されたコトバについて、再考を促さずにはいません。

ふつう私たち近代人にとって、主体とは自我のことで、それ以外のもの、他者も自然(しぜん)も自分自身のからだも、客体とされます。いつも自我がみずから動き、それら残りのものは、専ら動かされる(べき)ものです。同じく病気も、自我が、あるいは他者(の自我)が、治す(べき)ものです。ここでは、からだも、他者も、「自然(しぜん)」です。他の自然環境いっさいと同じように、観察され・制御され・征服され、あるいは保護される対象なのです。自我がみずから抱く、「今・ここ」を離れた目的に応じて、そのつど必要な部分だけが取りだされて利用される道具といってもいいでしょう。その道具を利用する自我だって、本当は頭脳というからだの一部分にすぎないのですが、それだけがこころという特別な地位を独占して、からだの他の部分をさらに各部分に解体しながら支配するのです。

ただこの場合でも、自我にとってはそう見えるというだけで、「今・ここ」に深く開かれてみると、全く異なる姿が立ち現れてくるのがわかります。たとえばからだは、そのつどどんな小さな動きにでも、おのずから全身が多様なままに連動して働いています。全身は1つの波動となり、その連動するリズムが呼吸として、そのスタイルが姿勢として、あらわれています。その姿に古くから人は「魂」を見てきました。「魂の入った動き」とか「全身全霊」とか、今でもいいます。ここでは、からだの全体としてのつながり方がこころなのです。全身で動くからだはそれ自身がこころ(魂)であり、おのずから自発的に活動する主体なのです。おのずからからだが動き、病気もおのずから治るのです。しかもこの全身の動きは、しばしば1つの波動として個体の境界をこえ、おのずから他者のからだにも連動します。それは、世界に「魂がのりうつる」かのようでもあり、世界を「魂がうつしだす」かのようでもあります。どちらにせよ、主体はもともと共同主体であるときにだけ、その分だけ、主体なのです。これらのからだ=こころのあり方を、「自然(じねん)」というのです。

 

主体という共同性、共同という主体性

 

自然(じねん)な主体のこの共同性のおかげなのか、私たちは、誰か他の人が同じように「今・ここ」に開かれ、しっかりと「今・ここ」を共有してくれると、ずっと「今・ここ」に深く開かれてゆきやすくなります。「今・ここ」は1人1人に別々なのに、誰か他の人に共有してもらうと、もっと深く沈潜してゆけるという不思議な性質をもっているのです。共有してくれるそんな人たちが周囲に何人でもいるなら、この上ない幸せです。それこそが「居場所」というコトバの本当の意味でしょうし、社会というものの本来のあり方でしょう。

でも残念ながら現実は難しい。周囲にありのまま「今・ここ」を共有できる仲間を求めることができないとき、セラピストがそれを代行するのです(逆にいえば、セラピストなど失業しているのが、真に理想的な社会なのかもしれません)。「治療」とはあくまでこのような「今・ここ」の共有であって、治る場へとセラピスト自身もすすんで開かれてゆくことにほかなりません。だから、自然堂「治療」室で行っている自然(じねん)「療法」はすべて、こうした「今・ここ」の共有を、その原理とし基礎としているものばかりからできているのです。

からだが外見上歪んでいるからといって、それを強引に「矯正」することなどしません。歪むには歪む必然性があるのだから、その歪みをむしろ誇張したり、痛みの消える体勢を探ったりして、おのずから生じる気持ちのいい動きを味わい・育んでもらいます。セラピストはそれを支えて、呼吸を合わせながら「今・ここ」を共有するだけです。すると不思議に歪みもとれ、体調がとてもよくなってきます。しかも自分に必要なだけよくなってくるから持続力もあるし、何よりからだがこれに味をしめて、もっと気持ちよく、もっとよくなろうとしはじめます。

同じくこころに悩みがあるからといって、それに一方的に「正解」を与えることなどしません。悩むには悩む必然性があるのだから、その悩みにむしろもっとじっくり浸ったり、悩むなかでもうまくやれてる例外を見つけたりして、おのずから生じてくる希望あるイメージを味わい・育んでもらいます。セラピストはそれを支えて、波長を合わせながら「今・ここ」を共有するだけです。すると不思議に変化が生じ、気分もとてもよくなってきます。しかも自分に必要なだけ変化するから持続力もあるし、何よりこころがこれに味をしめて、もっと気持ちよく、もっと大きく変化しようとしはじめます。

 

からだはこころ、こころはからだ

 

おもしろいのは、自然(じねん)「療法」でそうやって「治療」していくと、からだの「治療」だけでもこころが楽になってきたり、こころの「治療」だけでもからだが楽になってきたり、っていうのが多いことです。からだとこころは別々だなんて、「今・ここ」を離れた私たちの自我が勝手に思っているだけで、もともと両者はつねに同一の事柄なんだ、ということがよくわかります。

 だから自然堂でも、身体療法コース・心理療法コース・身心相関コースの3つのコースを設けて運営していますが、これも実はきっと、外形が別なだけで、どれだって実際に起こっていることは同じなんです。どのコースでも、からだとこころが一体となっておのずから治ってゆくのであって、ただそのプロセスのどの部分を意識するかで、私たちはいろいろ分類しておきたいだけなんでしょう。

この時代、身体療法のセラピストと心理療法のセラピストを両方揃えたクリニックや治療院はいくつもありますよね。それは自然堂にはマネのできない大きなメリットがあって、とってもうらやましいかぎりです。でも逆に、1つ1つのどのセッションも身心両面から同時に扱える所っていうのは案外なかなかなくて、それは他にない自然堂の大きなメリットではないかと密かに自負しているところなんです。まあ、興味を感じたら、一度来てみてください。それじゃあ、そろそろこのへんで。長〜い文章につき合ってくれて、ありがとね。

 

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